20話 碧に映る青

 晴天のとある日。


 今日も少女にとって、いつも通りの学校が始まる。

 いつも通りに登校して、いつも通りに授業を受けて、いつも通りに休み時間に友人と話をする。


 でも、昼食だけ少しいつもと違う。

 少しだけ豪華にしてみたのだ。

 今日の放課後は一大イベントがあるからだ。

 少女はそれを前にして緊張していた。


 いつものBLTサンドだけじゃなく、フルーツサンドを追加してある。

 少女はフルーツサンドが大好きだ。

 食べているだけで幸せな気持ちになってくるし、こわばった頬と一緒に緊張も解けていく。


 これを考えた人は天才だ。

 少し調べてみれば、発祥は日本だという。

 やはり日本はすごいなぁと少女は思った。


「ごちそうさまでした」


 少女はBLTサンドとフルーツサンド、両方きっちり食べ終えた。

 胃が幸せだ。

 これが多幸感というものか。


 本当はお祝いに取っておきたい所ではあった。

 しかし、放課後のことを考えると今からでも喉が渇く。

 そんな自分を奮い立たせるための、小さなご褒美。

 このくらいはいいだろう。


 幸せを継続させたまま、授業を受ける。

 それだけで少しいつもと違う授業な気がしてくる。


 といっても、ぼーっとしていて授業の内容は疎かになってしまったが。

 やはり緊張しているのかもしれない。

 そう考え始めると、少女の胃はキリキリとし始めた。


 なんとか胃の不調を抑え込み、ようやく放課後を告げるチャイムが鳴る。


 放課後、緊張を紛らわすために少女は友人達と会話することにした。

 といっても、他愛ない会話だ。

 今日の授業がどうだったとか、今度遊びに行こうだとか、東京見学はどこに行こうだとか。


 その内容もいまいち頭に入ってこない。

 今からでもフルーツサンドをコンビニにでも買いに行って、もう一度食べたいくらいだ。


 とはいえ、そんな時間があるわけもない。

 少女は友人達との会話を早々に切り上げて廊下に向かう。


 その前に、ひとつだけ確認しないといけないことがあった。

 少女の視線は教室廊下側の後ろ席へと向く。


 そこには、先ほどまで座っていた人物は見当たらない。


 ――彼は既に教室を出たのだろう。


 少女は歩調を早めた。


 やがて、少女は鉄の扉の前に立っていた。

 ここは旧校舎の最上階。

 この鉄の扉の先は、屋上へと続いている。


 少女は屋上に用があった。

 とある人物を屋上に呼び出したのだ。


 朧佐助。

 それが少女の目的の人物だ。


 今朝、彼の下駄箱には少女直筆の手紙が入っていたはずだろう。

 どうしてもタイミングがなく、下駄箱に手紙を置いたのは少女が依頼した別の人物ではあるのだが、それでも手紙自体は少女本人が書いたものだ。


 最初はどう呼び出そうかと迷ったものだが、友人が大事な話をする時の作法を教えてくれた。

 匿名で、下駄箱に手紙を放り込むのだ。


 スマホのメッセージでやり取りするのはご法度だ。

 なぜなら匿名でのやり取りができないからだ。


 手紙といっても内容は簡単でいい。

 むしろ簡単でなければいけない。

 ただ、旧校舎の屋上に来てほしいと書いて、それを下駄箱の中に置いておく。


 それだけで必ず相手はやってくる。

 そして、多くの場合で相手も喜ぶ。

 そう聞いている。


「…………」


 この扉の向こうには、朧佐助がいるはずだ。

 少女は緊張の面持ちで重い扉を開く。


 扉の先には青空が広がっていた。

 雲一つない澄んだ空。

 もうすぐ夏が来ることを告げるような快晴。


 景色は青一色だった。

 むしろ青以外の色がなかった。


「えーと……?」


 そこにいると思っていた朧佐助がいない。


 少女は屋上をくまなく探し歩いた。

 といっても、屋上には遮蔽物などほとんどない。

 朧佐助が屋上に来ていないことは、すぐに明らかになった。


「…………」


 もしかしたら、少し寄り道をしているのかもしれない。

 自分もまっすぐにここに来たわけでもない。

 途中で友人に捕まった可能性はある。

 彼にも友人くらいはいるだろう。


 ……多分。


 朧佐助は少女から見て、友人が少なそうな男ではあった。

 彼とは同じクラスだが、友人と話している所はあまり見たことがない。

 最近はクラスメイトの赤司斗真や和泉洋輔と少し仲良くしている様子ではあるのだが。


 ともあれ、いないものは仕方がない。

 待つ以外の選択肢もないのだ。


 せっかくの晴天だ。

 待っている間に景色を楽しみながら、日光浴でもしようじゃないか。


「はぁ……」


 しかし、少女が日光浴を楽しんだ時間はものの数分で終わってしまった。

 少女には三十分にも一時間にも感じられたが、スマホを取り出して時間を見てみれば、最後の授業が終わってまだ三十分も経ってない。


 どうにも落ち着かない。

 自然と溜息が出てしまう。


 朧佐助が来る気配は未だない。


 こういう時はどうすればいいのだろうか。

 少女は考える。


 何か楽しいことでも考えようか。

 そう思っても、なぜか何も出てこない。


 頭の中で今日やった授業のおさらいでもやっておこうか。

 いや、授業の内容が思い出せない。


 これから朧佐助が来た時に何を話すかを改めて考えておこうか。

 しかし、言う内容は既に決まっている。


 今考えている内容よりも、もっと良い言い方があるかもしれない。

 ただ、そういうのは正直に言えば好きじゃない。

 言いたいことはストレートに。

 それが少女の信条だった。


 結局、少女ができることは何もなかった。


 少女は屋上の片隅まで行って腰を下ろした。

 顔を上げて空を見る。


「…………」


 青かった空が徐々に朱を帯びていく。

 そんな風景を何も考えずに少女は眺めていた。


 そして、気付けばチャイムが鳴った。

 下校時間を告げるチャイムだ。


 朧佐助は来なかった。


「はぁ……」


 今日何度目の溜息だろうか。

 少女は誰もいない校舎をとぼとぼ歩いていく。


 昇降口に着いた時、少女が手を伸ばしたのは自分の下駄箱ではなかった。

 朧佐助の下駄箱の扉を開ける。


 そこにあるのは少し大きめの上履きだけ。

 その上履きには律儀に朧佐助と名前が書いてあり、ここが彼の下駄箱で間違いはない。


 昨日入れられたはずの手紙はない。

 ならば、彼は手紙を見たはずだ。


「……よし」


 もう一度、手紙を入れてみよう。

 昨日は手紙の投函を別の人物に頼んだが、今日は自分で入れるのだ。

 それで何かが変わるかは分からない。

 しかし、少女はそうしたかった。


 少女は鞄からメモ帳とペンを取り出し、その場で手紙を書く。


『今日も放課後、旧校舎の屋上で待っています』


 他の女の子達のように可愛くて丸い文字は書けないが、少女なりに精一杯に書く。

 少女は丁寧に四つ折りにした手紙を下駄箱の中に入れ、扉を閉めた。


 あとはもう帰るだけだ。

 自分の下駄箱の扉を開けて、彼のそれよりも随分小さな自分の上履きをしまい、ローファーを履く。


「よしっ」


 夕日に照らされて赤く染まった校門を通りながら、再び少女は自分を鼓舞した。

 胸を張り、通学路を堂々と歩く。


 そんな少女の耳に、雑音混じりの声が響く。


『こちらアルファ。異常なし』


 少女はその声を無視し、夕日に向かって歩いていった。


 $


 翌日。

 今日も天気に恵まれ、頭上には澄んだ青空が広がっている。

 対照的に、少女の顔は曇っていた。


 昨日は思いつきの勢いで朧佐助に二通目の手紙を送った。

 しかし、その一時間後にはもう気分が重くなり、今もそれが続いている。

 また朧佐助が来なかったらどうしようと今から心配で仕方がない。


 通学路で見知った顔と遭遇する。


「おはよう」

「おはようございます」


 少女に声をかけてきたのは同じクラスの各務遥香と北条由宇だ。

 二人の仲はとても良く、こうして登下校を共にしているのは知っていた。


 少女は条件反射で笑顔を作り、挨拶を返す。

 こういう笑顔は作り慣れている。

 そう思っていたのだが。


「少し顔色が優れないようですが大丈夫ですか?」


 北条由宇に簡単に見透かされてしまった。


 確か彼女は普通の学生を装っているが、隣にいる各務遥香のメイドだったはずだ。

 メイドなのだから主の体調管理もしているはずだ。

 見た目から体調を読むのはお手の物なのだろう。


 それを他人である少女にも適用できるのだから驚かされる。


「そういえば、少し疲れているように見えるかも? 荷物持とうか?」


 隣にいる各務遥香は心配そうな顔で少女の顔を見ながら、肩にかけてる学生鞄に手を差し伸べている。


 彼女は世界的大企業の社長令嬢だ。

 人に奉仕されるのは慣れているはずだし、人を使うのにも慣れているだろう。


 なのに、こんな優秀なメイドが隣にいるのに、まさか自分から荷物を持とうと言い出すなんて。

 よほどお人好しだとしか言いようがない。


 少女は心配そうな顔をしている二人に、少し寝不足だが大丈夫だと告げた。


 嘘はついていない。

 実際、あまり眠れていないのだ。


 呼び出しを無視された悲しみ、そして怒り。

 今日への不安、そして期待。


 これらが頭の中でぐるぐるして眠ろうにも眠れなかった。


「そうなんだ。無理しないでね」


 一人で荷物を持てると言えば、各務遥香は素直に手を引く。

 その表情は、少女を心配そうにしたままだった。


 ――これから自分がやろうとしていることを思えば、罪悪感が湧くほどに。


 しかし、もう決めたことだ。

 朧佐助も呼び出した。

 もう後戻りはできない。

 後は屋上で朧佐助が来るのを祈るだけだ。


 $


 少女が教室に着いた時には、朧佐助は何食わぬ顔で席で教科書とにらめっこしていた。


 今やこの顔が憎たらしく感じる。

 自分がこんなに苦しんでるのに、何故この男はこうも平気な顔をしていられるのか。

 これがクールだとでも思っているのだろうか。


 それが間違いだと思い知らせた方がいいかもしれない。

 人気の漫画のキャラでも紹介してやろう。

 こっちの方がクールだと。

 そしたら少しはマシになるはずだ。


 ……だから、今日は屋上に来てほしい。


『こちらベータ。異常なし』


 $


 放課後。

 今日も少女が教室を出る時には、朧佐助は席にいなかった。


 少女は不安と、少しだけの期待を胸に屋上へと向かう。

 逸る気持ちを抑えながらも足早に進み、鉄の扉を開けて屋上へと出た。


 そこには、誰もいなかった。


「はぁ……」


 念の為屋上を一回りしてみるが、やはり朧佐助の姿はない。


 もういっそスマホで連絡取ればいいんじゃないか。

 そう思ったが、よく考えてみればまだ昨日の今日だ。

 今日一日だけは待ってみよう。


 少女はまた屋上の片隅で、空を見上げる作業を始める。


「…………」


 もう少女はどれだけ待っただろうか。

 まだ空は青いが、日は傾き始めている。

 このままでは昨日と同じように夕焼けを見ることになりそうだ。


『こちらアルファ。異常なし』


 何が異常なしだ。

 自分が一人でここにいるのが異常だろう。


『こちらベータ。異常なし』


 いっそ異常があってほしいくらいだ。

 退屈で死にそうだ。


『こちらガンマ。異常なし』


 少女の耳に響く声。

 雑音混じりの低い声。

 この人達は、退屈ではないのだろうか。


『こちらデルタ。異常なし』


 よくも飽きないものだ。

 あまり文句を言える筋合ではないのだが、こうも思い通りにことが運ばないと悪態も吐きたくなる。


『…………っ』


 ふと、耳から聞こえる音がぷつりと途切れた。


『……アルファよりイプシロンへ。報告しろ』


 何かが、おかしい。


『アルファよりガンマへ。イプシロンの様子は分かるか?』

『こちらデルタ。分からない。確認に向かうか?』

『確認してくれ』

『ガンマ、了か――お、お前は!? うがぁ!!』


 一体何が起こっているのか。


『アルファよりベータ、ガンマへ! デルタを救援に向かえ!』

『ガンマ、了解』


 異常が起こってほしいとは思ったが、こういうことじゃない。


 少女の耳に響く音は焦りを含んでいた。

 それにつられて少女の心臓が高鳴っていく。


『こちらベータ。異常なし』

『アルファよりベータ。状況は分かっているか?』

『……こちらベータ。異常なし』

『おい! ふざけてるのか!』


 少女は息を飲んだ。

 こんなことは初めてだ。

 背中に嫌な汗が伝う。


『こちらガンマ! 相手はあのニ――』


 ガンマと名乗る男の声は途中で途切れてしまう。


『くそッ! どうなってやがる!』

『こちらベータ。異常なし』


 どうなってるのか聞きたいのはこちらの方だ。

 明らかにこの状況は異常だ。

 危険かもしれない。


 少女はそれにようやく気付き、下ろしていた腰を持ち上げる。

 朧佐助を待っている場合じゃない。


『お前か! ちくしょう、このニンジャ野郎があああ!!』


 アルファと名乗っていた男の声はここで途絶えた。


 いや、それよりも。

 今、ニンジャと聞こえた。


「…………」


 まさか。

 ニンジャが、声の主達を倒したというのか。


 少女がニンジャと言われて心当たりがあるのは一人しかない。


 表向きはただの高校生。

 その実態は各務遥香の護衛をしているという裏社会の人間。

 古くより日本で暗躍したニンジャの末裔。


 そして、少女がこの屋上へ呼び出した人物。


『こちらベータ。異常なし』

「こちらベータ。異常なし」


 同じ音が少女の耳に重なって届いた。


 耳につけた小型のイヤホンから聞こえる音声。

 そして、頭上から聞こえる肉声。


 少女は見上げた。

 澄んだ碧眼に映したのは、同じ色の青い空。

 しかし、その中心には墨のような黒い点が滲んでいる。


 給水塔のすぐ横に、黒い男が立っていた。


 黒の男は片手で何かを持っている。

 それは目が虚ろな少女の見知った男だった。


「こちらベータ。いじょ――がっ!?」


 目が虚ろな男が何度も聞いた定型句を喋ろうとする。

 しかし、それを黒の男が手刀で遮った。


「随分と待たせたようだ」


 黒の男は暴力を奮ったばかりとは思えない涼しい声で言った。

 男は片手で持っていたものを手放すと、音もなく少女の前へと降り立った。

 代わりにドサリという音が給水塔の方から聞こえる。


 影より深い黒髪に、雑に切られた散切りの頭。


「さ、佐助……これは一体……?」


 朧佐助。

 そして、彼がニンジャの正体。


 その鋭い目は少女を射抜き、まるで銃を突き付けているように牽制している。


「それを聞きたいのはこちらの方だ。クロエ」

「……っ!?」


 少女――クロエは名前を呼ばれて思わず肩がびくりと跳ねる。


「それともこう呼んだ方がいいだろうか。エドワーズ大統領の娘、クロエ・エドワーズ嬢」


 佐助は細い目を更に研ぎ澄ませてクロエを見た。

 そして懐から何か取り出し、掲げるように見せつけてくる。

 それは金属でできた、だった。


「中身はゴム弾のようだが……銃火器を持った護衛を五人も配置して、俺を呼び出して何をしようとしていた?」


 こうして、クロエは望まぬ形で佐助と対峙することになった。

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