nekotic

海洋ヒツジ

ねこちっく

「あのネコたちはいつもどんなことを話してるのでしょう」

 通りを歩いていた時のことです。

 薄暗い路地の奥に映るいくつもの丸い光を眺めながら、お嬢様は私の手を引っ張って、そう言いました。

「ねえメイド。絵本の世界ではネコたちがヒトみたいに生活して言葉をしゃべっています。それってもしかして、どこかにネコの国があるということなんですか?」

 私の手を握りながら、きらきらとした目を向けてくるお嬢様。期待に応えられれば良かったのだけど、残念ながらその国のことを私は知りません。

「申し訳ありません。私も存じておりません」

「そおですか。でもどこかにあるかもしれません。どこかに……」

 私の手を離れ、お嬢様は暗がりへじりじりと近づいてゆきます。そんなお嬢様を恐れてか、丸い光を向けていたネコは一目散に逃げてゆきました。

 危険がなくて安心です。胸をなでおろし、私は言います。

「ネコの国……可愛いネコがたくさんいることでしょうね」

「そおです。ネコがいっぱいです。でもかわいいネコが良いネコとはかぎりません。かわいいけど悪いネコがいるかもしれません」

「そうですね。私にはどっちでも区別がつきませんが」

「まさにそこです! どっちでも知ったことないのです。わたしもメイドも、ネコとしゃべれませんから。メイドはいつもよいところに気がついてくれる……」

「ありがとうございます……?」

 お嬢様が何を褒めてくださったのか、頭の良くない私には分かりません。

 私とは違って、お嬢様は幼いながらも聡明なのです。

「ということで家にかえったら実験してみることにします。帰りにネコを百匹かいましょう」

 突拍子もないことでも、お嬢様の言うこと。メイドとしては、どんな無茶な要求にも従わなければなりません。

「承知しました」

 いくつか動物を扱う店を思い浮かべ、ネコをかき集める算段を立てます。お金はいくらでも使ってよいと旦那様も言っていたことですし。

 足りなければ、そこらを跋扈するネコたちにも屋敷へ来ていただきましょう。ネコの多い街ですから、ネコの補充には事欠かないはずです。



 街で一番大きい屋敷がネコの鳴き声止まないネコ屋敷となって、一週間が経ちました。

 私もネコは嫌いではありませんので、はじめ百匹のネコを招き入れた時は、胸躍る気持ちが無かったと言えば嘘になります。いえ正直に言いましょう。かなりわくわくしました。

 このような大きな屋敷にネコの楽園を築くことを何度夢見たことやら。

 ですが、どうやらさすがに多すぎたようです。

「ネコの世話はメイドがするのです」

「いえお嬢様、さすがに無茶です」

「でもメイドはどんなムチャなことでもやると言いました」

「ネコの世話は例外だったようです」

 とは言ってみたものの、彼らの身を引き受けておいて、今さら放棄はできません。

 百匹くらい放流したところで至る所にネコがいるこの街にさしたる問題はないとはいえ、やはり命を預かった責任があります。

 百匹分の食事、百匹分の糞の片づけ、百匹分の悪戯処理、やってみせましょう。

 そして、ネコの楽園の夢にはさよならを。次があるなら客として、食事や糞の世話から離れたところで付き合いたいものです。

 私が慌ただしくネコの世話に追われている間、お嬢様は自室に籠っておられるようでした。毎日何匹かネコを引っ張り込んで、時おり大きな音を立てて。

 今日も今日とて悪戯ネコを捕まえるために屋敷中を走り回っていました。するとお嬢様が部屋から出てきて言ったのです。

「ネコの考えてることがわかる装置つくりました」

 なるほど。今度はそういった趣旨か。お嬢様の言葉に驚きはしたものの、意味するところはすぐに理解できました。

 何といっても、お嬢様は発明の天才ですから。

「すごいです、お嬢様!」

 私は両手でつまんでいたネコたちを離して両手を合わせます。ネコは見事に着地してどこかへ行き、お嬢様はにんまりと得意げな顔をするのでした。



 ネコの考えてることがわかる装置の使い方。お嬢様の実演付き。

「ネコ耳型のヘッドフォンをそうちゃくします。そうするとまわりの音が聞こえなくなります。でも耳のよこにあるこのボタンをおすと……」

 ヘッドフォンは二つ用意されていました。私もヘッドフォンを装着してボタンを押します。

 すると、声が聞こえてきました。いろいろな声。たくさんの声です。

「ねえ」

 足元にいた一匹の白いネコが、私を見上げていました。

「わたくしお腹がすきましたわ。新鮮な魚を持って来てくださる? 今日は獲れたての魚の気分なの。干物は嫌よ」

「ご飯はさっきあげました……」

「あっそ」

 ニャーン、と言い残し、白いネコは去ってゆきます。

 お嬢様はそのネコを指さして、足をパタパタと動かしました。

「メイド、成功です。ネコの考えてることがわかりました。あのネコはほそくてきれいだけど、食いしんぼうです」

「意外ですね。びっくりしました。今度からあのネコには多めのキャットフードを与えることにしましょう」

「そうするといいのです。ネコとは仲良くするのがよいらしいです。ネコとわかいせよ。これじょうしきです」

 街へ出ると、『ネコと和解せよ』という文言のポスター至るところへ貼り出されているのを目にします。誰が何のために貼ったのか。それにどういう意味があるのか。ポスターとその言葉だけが残った今では、まったく謎に包まれています。

「この一歩は小さくても、ネコにとっては大きな一歩です。ん……ところでいつの間にわたしはネコとケンカしていたのでしょう?」

「『和解せよ』の意味なんて、誰にも分かりませんよ。……そういえば私の言葉も、白ネコのお嬢さんに伝わっていたようですが」

 お嬢様は側を歩いていた銀と黒の縞模様ネコを捕まえて抱きかかえました。ネコはもがきながら、「離せー、おれをどうするつもりだー」と叫んでいました。

「かわいいネコ耳で、のうのきのうをかくちょうしました。これをするとですね、ネコの小さな仕草とか鳴き声の調子から、ネコの考えが言葉になってわかるようになります。はんたいにヒトの言葉も、ネコみたいな仕草とか鳴き声にへんかんして伝えることができるようになります」

 抱きかかえたネコの手を操り、びしっと私に向けました。

「つまり、今のわたしとメイドは、けっこうなわりあいでネコです!」

「にゃんと」

 驚きのあまり呟いてしまいます。

 いえ、別にネコだからではありませんが。噛んだだけ。

 抱きかかえられたネコはその手を私に向けながら、「本性を現したなー、エサを与えられたとて心までは服従せぬぞー」という具合に叫び続けています。妄想癖の強いお方のようです。

「ではさっそく出かけましょう」とお嬢様。

「出かけるとは、どこにでしょう」

「それはもちろん、ネコのいる場所です。この街に住むネコの心を解き明かしてみるのです」

「これを付けたまま外に出るのですか。ちょっと恥ずかしいです」

「とてもかわいいと思います」

 そりゃあお嬢様は可愛らしいですけれど。

 幼いお嬢様を一人で歩かせるわけにもいきませんし、やはりメイドとしては同伴すべきでしょう。乗り気でなくても。

 しかしまったく、お嬢様の発明は時に学会を揺るがしかねないと思うことがあるのですが。まあ、さすがに身内ビイキというものでしょう。



 街の噴水広場は今日もネコの寄り合い場所となっています。人よりも多い数のネコが円形の噴水を囲んで水面を舐めるその様は、さながらネコにとっての喫茶店といったところでしょうか。

 どれも人馴れしているネコばかりなので、近づいただけで逃げたりはしません。

「ごきげんよう。ここの水はおいしいですか?」

 お嬢様がずんぐりとした灰色のネコに声をかけます。

 灰色ネコは隣に座るお嬢様をちらりと見て、すぐに水を舐めます。まるでその方が大事だというように。

「むしされました。ネコさん、いっしんふらんです」

 助けを求めるようにお嬢様がこちらを見ます。

 まさか言葉が通じていないのか。お嬢様の装置に不備が疑われた時でした。

「そんなに気になるなら、自分で飲めばいいじゃない」

 灰色ネコがダミ声を発します。いかにも興味なさげでぶっきらぼう。

「確かに!」

 ネコの言葉に従って水面に口をつけるお嬢様。いちおう名家の令嬢としては控えてほしい行為ですが。ネコ並に好奇心旺盛なお嬢様には言っても仕方ないでしょう。

 勢いよく水をがぶ飲みするお嬢様には、さすがの灰色ネコにも目を見張るものがあったようです。

「いい飲みっぷりね。気持ちがいいわ」

「きょうしゅく!」

「あなた人間でしょ? どうしてお話できるのかしら」

「このいだいなネコ耳のおかげです」

 自分の頭の上を指さすお嬢様。見た目とは裏腹に膨大なお嬢様テクノロジーの詰まった逸品です。

「そう。ま、細かいことはどうでもいいわ。同じ杯の水を飲んだのだから、あなたも私たちの仲間、ね。歓迎するわ」

 灰色ネコが言うと、噴水を囲んでいた他のネコたちからもぽつぽつと歓迎の鳴き声があがります。

「それで。この情報通のミケーラに声をかけたからには、何か情報が欲しいのかしら。おすすめのエサ場から、絶好の日当りポイントまで。今なら特別にタダで教えてあげるけど?」

「何と、じょうほうつうさんでしたか」

「あら知らなかったの。じゃあどうして私に声を?」

「一番あったかそうだったので。そのあったかさはメイドにひってきします」

 お嬢様は手を大きく広げてミケーラさんの恰幅の良い体を表現します。女性に対してはあまり望ましくない褒め方です。そして私は太くありません。

 しかしミケーラさんは嬉しそうに目を細めました。

「まあ! この裕福をため込んだ体を褒めてくれるなんて! いいわ、じゃあお友達になりましょう。分からないことがあったら、何でも聞いてね」

「お友達同士はおしゃべりをするものですか?」

「もちろんするわ。せっかくだもの、たくさんお話しましょうよ。居たいところに居て、行きたいところへ行く。今日が満足ならそれでよし。明日のことは明日考える。そんな私たち、ネコのお話をね」

 その後、お嬢様とミケーラさんは一時間ほど話をしました。好きな食べ物やお気に入りの寝床の話など、ネコ的な話題が尽きることはありませんでした。

 お互いに違う生き物の友人に対し、興味が抑えきれなかったようです。

 噴水にちょこんと座るその後ろ姿は、仲の良い二匹のネコのように見えました。



 ミケーラさんと別れた後、通りすがるネコに声をかけ話をしながら、あっちへこっちへそぞろ歩きます。

 元気に挨拶を振り撒くお嬢様と、それを後ろから見守る私。耳に届く話題は食べ物や寝床のことばかりのネコ的会話。お嬢様は楽しんで言葉を交わしていました。

 そうするうちにふと鼻をかすめたのは潮の香りと、若干の生臭さ。

 見えてきたのは活気の良い漁港です。ここから出た船が沖合で大量の魚介類を仕入れ、魚たちは漁港へと集められます。

「今日も賑やかなことです」

 そして、そのような場所にはネコが潜伏しているものです。なぜならネコはお魚をくわえるものですから。

 今もまた流星のごとく飛び出したどらネコ(虎模様)が、籠に入った大きめの魚をくすねていきます。警護を務める漁師との距離を見積もった魚のチョイス。一瞬の隙をつかれた漁師が気付いた時には、魚をくわえたネコは視線の遥か先。漁師は憤懣に声を荒げています。

 なんというネコと人間の攻防戦。ここはもはや戦場です。

「にゃにゃにゃーん」

 隣でお嬢様が甘えた声をあげました。可愛らしい。

 ……ではなくて。私は自分がヘッドフォンを外していることに気づきました。

 ヘッドフォンを付けるとネコの考えていることがわかる。けれど人間の言葉がわからなくなります。言語中枢のチャンネルをネコ用に変換している弊害なのだとか。

 通りすがりのご婦人と話す際に首に掛けていたネコ耳を、再度装着します。

 それにしても先ほどからこのヘッドフォンを付けていると頭が痛いような気がするのですが。サイズが合っていないのかもしれません。お嬢様は発明家であって、仕立て屋ではありませんから。

「メイド、なんだか魚が食べたくなりました」

「おや、魚嫌いのお嬢様が珍しい」

「魚の味はきらいじゃないです。骨があるのはどうかと思います。あれはふつうに考えていらないのでは?」

「彼らにも普段の生活がありますから」

「でも今なら骨があってもかじりつきたい気分です。あそこに積んである魚、おいしそう……」

 お嬢様の口から滝のように流れるよだれをハンカチで拭います。

「んぐっ、メイドは、気がききます」

「さっきの虎ネコ、あれだけ大きな魚をくわえていったのですから、一匹では食べきれないでしょう。跡を追えば、他のネコにも出会えるかもしれませんね」

「ぐっどあいであ。メイドはいつもよく気がつく……」

「恐れ入ります」

 魚の重量でそう速くは動けないはず。まだ追いつけます。

 それにもかかわらず、漁師の方がネコを追いかけてまで魚を回収しないのは、『ネコと和解せよ』の影響でしょう。この街でネコをぞんざいには扱えません。

 あくまで調査のため、私とお嬢様はネコの向かった方へ急ぎます。虎模様の尻尾の先を追って、草をかき分け、レンガを飛び越え、横切るネコにつまずきながら、入り組んだ裏路地の奥に入ってゆきます。

 その残飯やら得体の知れないゴミが散乱した薄暗闇に、ネコが座り込んでいます。さっきの虎ネコと、汚れのついた白ネコ、そしてぶち模様の子ネコが二匹、魚を囲っているところでした。

「なんだオメェら!? これは俺たちのメシだぞ!」

 気づいた虎ネコが真っ先に立ちはだかります。家庭を守る父親、といったところでしょうか。

「食事中にごめんください。わたしとメイドは怪しい者ではありません」

「怪しい怪しくない以前に、お前ら人間だろ!? どうして話ができる?」

「このネコ耳のおかげです」

 またも頭の上を指さすお嬢様。

「なんだ、そうか」

 そして話の早いネコ。みんなこういう感じなのでしょうか。

「ところでわたしはお腹が空いています。その魚を分けてくれませんか?」

「お嬢様?」

 さすがにそれは令嬢として、いえ人間としてあるまじき行いです。メイドとしては看過しかねます。

 虎ネコは「何だと?」と警戒モード。しかし奥方であろう白ネコがなだめ、子供ネコが不安な目で眺めます。そのまなざしに虎ネコも気勢が削がれたのか、黙って引き下がりました。

「本気ですか、お嬢様? お腹をくだしますよ」

 同じ食卓につくことを許されたお嬢様は、私が制止するのも構わず魚の元へ歩いてゆきます。

 衛生的によろしくない地面の上に横たわる生魚の匂いを嗅ぎ、かぷり。

「お嬢様、屋敷に帰ればおやつがいくらでもありますからー!」

 ネコと一緒になって魚に喰らいつくお嬢様を引きはがします。お嬢様は体を浮かせてもなお、魚に喰いついたまま離そうとしません。なので口に貼りついている魚も引っぺがすと、今度は私の手に噛みついてきました。

 どうもお嬢様の様子がおかしいようです。ネコみたいに気まぐれで聞き分けのない時もありますが、こんなにも反抗的なことはありませんでした。まるで我を忘れて、ネコになってしまったよう。

 それとも、ああ、これが真にネコと和解するということなのでしょうか。

 ネコと同じ目線に立ち、もはやネコと化すことこそが。

 ネコの考えを理解し、言葉を交わしたばかりに、こんなことになってしまったのでしょうか。

 私が途方に暮れているところに、音もなく薄暗闇の中に幾多の光が浮かびました。

 それが近づくごとに光の周囲に輪郭が浮き上がり、それがネコの目であることが分かりました。

 虎ネコが警戒に毛を逆立てます。

「なあおい、ここが俺らの縄張りだと知って居座ってんのかい? ええ、虎のダンナよ?」

 集団の先頭を歩くふてぶてしい目をした白地に黒い模様のネコが声を張り上げます。

「あらら、こんなところにメシ持ち込んで。ああ、こんなに汚して! 困るなぁ、汚いのは嫌いなんだよねぇ、俺は」

 嫌味ったらしい言葉遣いの、見るからに悪そうなチンピラネコです。性格が顔に出るのはネコも同じなんだな、と感心してしまいました。

「ここがあんたらの縄張りだと知らなかったんだ。それにここは元から汚いぞ」

「ゴタクはいい。エサを置いてさっさと失せな」

 虎ネコは早々に意地を折り曲げ、妻と子供を奥へ促します。悔しいですが、これも弱肉強食。この街のネコも自然界のルールからは逃れられません。

「おらぁ、そっちの人間も行けよ」

 チンピラネコは私に対しても退去を命じます。ただし今にも飛びかからんばかりだった先ほどの勢いはありませんが。やはり自分より大きなものは怖いようです。

「なんて乱暴なネコなんでしょう。まとめて施設送りにしましょうか」

「なんで人間と話が――」

「このネコ耳のおかげです」私は両手で頭の上を指します。

「まあどうでもいい。さあ行けよ、おらおらおらおら」

 チンピラネコがじりじり歩み寄ります。言葉が通じると分かった途端にこの態度です。話ができるとなると、得体の知れない異種族への恐怖も薄れるのでしょうか。いっそネコ耳を外して怒鳴り散らせば逃げていくのではと思いましたが、それこそ獣と同じ。ここは人間らしく、節度をもって接しましょう。

「そこまでにしてください」

 大きく開いた私の口は、しかし声を発することはありませんでした。その前に響いた別の声によって遮られたからです。

 ブロンドの毛色でした。誰かが手入れしているかのように滑らかでツヤのある毛並み。それはもう、闇の中でなお輝きを放ち、見る者を圧倒するかのようないでたちで、ネコが立っていました。

 ブロンドネコの醸し出す光輝に、思わず私も手に汗を握ってしまいます。

 手に、汗を握ります。

 空っぽの手に。

 おや、さっきまで何か持っていませんでしたっけ。

「お嬢様!?」

 そうです、私の愛しいお嬢様。まさか抱えていたことを忘れるなんて。

 どこにも姿が見当たりません。

「お嬢様、どこへ行ったのですか!?」

「メイド」

 その呼びかけは、いつも私を頼ってくれるお嬢様のもの。

 姿なきお嬢様の代わりに声を発したのは、ブロンドネコでした。いえ、そのブロンドネコこそが、あるいは。

「お嬢様、なのですか?」

 私の問いかけに、果たしてブロンドネコはニャーと返事をしました。

「なんだぁ、お前? 急に割り込んできやがって」

「通りすがりのおじょうさまです。大きな家に住んでます」

「よく分からんが、関係ないやつは引っ込んでな」

 お嬢様は勇敢にもチンピラネコの前に立ちはだかっています。

 夜のトイレにも一人で行けず、私を起こしに来るお嬢様。表情にはあまり出ませんが、内心は怯えているはずです。それなのに、虎ネコ家族の食事を守ろうと、震える体を押さえつけて。

「あのネコたちはわたしに魚をくれました。今まで食べた中で一番おいしい魚でした。食べ物の恩は、ネコになっても忘れません」

「そんなの俺たちにゃあ関係ないね。ん……それにしてもお前、けっこう可愛いじゃねえか。毛並みもいいし、珍しい色をしてる。羨ましいぜ」

 素直な感想を漏らすチンピラネコに、私もまったくの同意を示します。

 その時でした。

 頭を貫かれたような痛みが、突然私に襲い掛かりました。

「かわいいうえに良いネコです。これでもご飯を残し……にゃ……とはいちども……にゃあにゃあ」

 ヘッドフォンから流れるお嬢様の言葉が、その形を崩していきます。整然と人の言葉に変換されていたものが、理解不能なネコの言語に。

 どういうことでしょうか。微小な頭痛はこれまでにもありましたが。ヘッドフォンの故障か、不具合。もしくは不適応でしょうか?

 頭を割らんばかりの痛みに私が膝を折った時には、目の前で繰り広げられる舌戦が鳴き声の応酬にしか聞こえなくなっていました。あまりの痛みにとうとう視界も薄れ、その中で一触即発のネコ同士が低い声で叫び合っています。

 ニャー、ニャー。

 ニャー、ニャッ、グルルルルル。

 フシャッ! ニャオーン!

 ついにチンピラネコが飛びかかりました。お嬢様は間一髪で避けましたが、後続の不良ネコたちが歩み寄ってきます。大勢でお嬢様をいたぶるつもりです。

 たまらずお嬢様は路地裏の奥へ走ります。即座に後を追うチンピラネコたち。

 その光景を薄れゆく視界で見送ることしかできませんでした。

 為す術なく私の意識は、痛みの中へと沈んでいきました。

 最後に私をちらりと見たお嬢様の不安な顔に、身を締め付けられながら。



 ネコの鳴き声が絶えないネコ屋敷は、そこに住む人がどうなろうと、お構いなしに騒がしい音を鳴らし続けます。そして私は依然としてネコの世話に追われる毎日。

「今日も元気なことです。世話をする私の身にもなってほしいものですね」

 ため息交じりのぼやきは、ただの独り言。百匹のネコは誰も耳を貸しません。あの日以来、ネコ耳は使えなくなってしまいました。私の言葉はもうネコには通じないのです。

 つまり元に戻ったというだけなのですが、今はネコにでも言葉を受け止めてほしい気分でした。せめて寂寥を紛らわすために。

 お嬢様がいなくなって一週間が経ちました。

 ネコとなって街のどこかにいるお嬢様。どうしてあんなことになったのか。

 一人でシャワーを浴びていると、昔どこかで聞いた言葉がふと思い出されます。

 思考は言語によって規定される。

 ある言語学者たちが提唱した理論を示す言葉です。理論自体は多岐に渡りますが、大まかにまとめると、人は扱う言語によって見える世界や考え方が変わってくるらしいのです。

 これになぞらえると、ネコの言語を扱うようになったお嬢様は、ネコとしての考えに囚われてしまった。

 ネコの考えてることがわかる装置、と名付けたのは偶然でしょうが、言い得て妙。あれは単なる自動翻訳機ではなく、ネコ的思考を頭に刻み付ける装置だったわけです。

 身も心もネコになってしまわれたお嬢様。どこで何をしているのでしょう。

 人間だった頃のことなんて、忘れてしまいましたか?

「何か知りませんかねー、ミケーラさん」

 今日も噴水広場にいる灰色ネコのミケーラさんに尋ねます。

 もちろん言葉は通じません。今こそあのネコ耳があればと切に思います。

「お嬢様のお気に入りの寝床とか、よく行くエサ場とか、聞いてませんか? 教えてくれたら高級な魚をあげますから――」

 目の前で意味不明な人の言語をしゃべる私からぷいと顔を背け、ミケーラさんは歩き去ってゆきます。友達のところへ行ったのかもしれません。

 そうして取り残された私。

 この日も結局手がかりは掴めず、とぼとぼと帰路につきました。

 沈みゆく太陽の残り香。黄昏の色合いに何となく哀愁を感じつつ、屋敷の門をくぐろうとする時。

 別の道の角にミケーラさんの姿を見ました。ミャアミャアと、何かへ向けて鳴いている様子。友達と話しているのでしょうか。

 私は気になってそちらへ足を向けてみます。近づいた私に驚いたのか、ミケーラさんは逃げていってしまいました。

 角の向こう側に残されたものの影。そっと覗くと、そこにはネコがいました。

 ブロンドのネコでした。

「……迷子ですか?」

 私がしゃがみ込むと、そのネコは私を見上げてニャーと鳴きました。

「大丈夫。ここがあなたの家ですよ」

 ニャー。

「帰りましょうか」

 どうしようかとちょっと考えて、良いアイデアを思いつきます。両の手を平たい形にして、大きく広げて、それをそのまま――。

 パチン!

 どうか騙されたと思って、ネコであることを忘れてください、と。

 打ち合わされた手の前には、穏やかな午睡から目覚めたばかりの、お嬢様がいます。

 とろんとした目の横に手を添え、スイッチを切ったネコ耳を外します。するとお嬢様は私の方へ倒れ込み、離れないようしがみついてこられました。

「…………夢をみていました」

「どんな夢ですか?」

「お気に入りの寝床を探す夢です」

「ああ、ちょうど私もそれを知りたかったんです。お気に入りの寝床、見つかりましたか?」

「はい。見つけました」

 黄昏の幻は消え、元ある形へ。

 あまりのネコらしさに騙されていたのは私のほうだったのかもしれません。けれど、お嬢様はそのままが一番です。

 遊び疲れたお嬢様が寝息を立てはじめたので、私もホッとしてお嬢様を家まで運びました。



 そんなわけでネコを巡る不思議な体験は、幕を閉じました。

 少々危険で胆を冷やした場面もありましたが、子供らしい茶目っ気ということで。好奇心はネコにとってはともかく、育ち盛りの子供にとっては推奨すべきものですし。

「メイド、今度はネコがヒトの考えてることがわかる装置つくりました」

 そして懲りもせず、飽きもせず、悪びれもせず、またお嬢様は新たな実験に着手されるようです。

 私は両手に掴んでいた悪戯ネコを取り落とし、言います。

「すごいです、お嬢様!」

 ネコの気持ちを解明することは全人類の課題であり、その先に『ネコと和解せよ』の答えがあるのかも。ならば私はお嬢様の意思を尊重し、いつまでもほめたたえるのみです。

 それに良いことだってありました。

 例えば、そうですね。

 ああそうそう、お嬢様はお魚が大好物になりましたよ!

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nekotic 海洋ヒツジ @mitsu_hachi

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