大学の課題

虎兎 龍

ゴーストライト

 1.

 五月雨で勉強漬けだった中学最後のゴールデンウィーク明け。友達は居ても家に集まってゲームするくらいで、どこかへ出掛けるタイプではないから別に良いのだけれど。放課後、俺は環境委員の仕事をしに校舎裏の花壇へ行った。昨日までの雨が嘘のような快晴、傾いた陽が熱く焼くコンクリートに、何故か黒いローファーが片足だけ落ちていた。それは勿論不自然ではあるのだが、白っぽいコンクリートに艶のある黒いローファーが浮き上がって見えて、より一層不思議な感覚だった。

 名前でも書いていればと拾い上げて間も無く「あの、それ私のです」と後ろから少し上ずった様な、恥ずかしそうな声が掛かった。振り向くと片手にローファーを持ち、運動靴を履いた一年生の女子が居た。学校指定のネイビーのセーラー服のタイが白い事が一年生の証である。二年生以上になると仲の良い先輩からお下がりを貰ったりしてスカーフの先が黒ずんだ色をしている。太陽光が白い腕とスカーフに反射して眩しい。俺は彼女に手にしたローファーを渡す。先程までの申し訳無さそうな、恐る恐るとした表情とは打って変わり「すみません、ありがとうございます」と彼女は笑顔でそれを受け取り、くるんと身を翻して走り去って行った。白いラインの入ったセーラーカラーがはためいた。ミディアムボブの黒髪が軽やかに揺れて、シャンプーの匂いがした。我ながら気持ち悪いなと思う。遠くなった足音が響いていた。


 六月下旬のとある昼休み、毎度の如く花の世話をしに向かうと、筆入れを持った彼女が花壇の近くで三階にある一年生の教室に向かって手を振っていた。仲が良さそうだなと思った。そりゃあ顔も可愛いし、六月にもなれば仲の良い友達くらい出来るだろう。顔もってなんだ、オッサンかよ。彼女もこちらに気付いたらしい、不意に目が合う。「こんにちは」「どうも」辛うじて反射的に返事は出来たが、急に話し掛けられて正直、面食らってしまった。単に三年生である俺に挨拶しただけだろうが、「あっ」という顔をした気がする。俺を覚えていてくれたのか等と考えてしまう。こんな所で筆入れを持って何をしていたか分からない。ぱっと見花壇にも異常はない。強いて言うなら草を取らないと、そろそろ不味い事くらいだ。


 七月上旬のとある晴れた日、昼休みも終わる頃、相も変わらず草取りをしていたら、青い空から白い中履きが降って来た。白いと言っても油性ペンでハートだの名前だのが書いてある中履きだった。ターンと小気味よく鳴り響いた靴底の音に驚き身体ごとそちらを見たが、すぐ様三階の窓から「すみませーん!今友達が取りに行ってまーす!」と女子の声が聞こえ、「おー」と適当に返事をすると間も無く彼女が受け取りに来た。「つぶしばきして遊んでたら飛んでっちゃいました」と笑っていた。やっぱり明るい子なんだなと感じた。

「この白い花、綺麗ですね」

 丸い五つの花弁が五角形に繋がった様な、朝顔と日々草の間の子の様な花を指差す。

「あ、ああ、ペチュニア」

「ペチュニア、名前は知らなかったです」

 急に花の話なんて社交辞令かとも思ったが、笑顔で言われてしまうと疑念を逆に申し訳なく思う。

 それから彼女はスマホを取り出し、ペチュニアの写真を二枚程撮影して「それじゃまた」と校舎に戻って行った。そりゃあ同じ学校ならまた会うかと思い直す。


 2.

 それからは昼休みか放課後に週に一回、週に二回と、会う回数が増えて行った。他愛も無い事を話す機会が多くなった。それでも靴だけでなく消しゴムや体操着など、投げて壊れない物ばかりが降ってくる事を俺は指摘出来ずにいた。もしかすると自分が来ていない時も物を拾いに来ているのだろうか。そんな遊びが流行っているとしたら他の子が取りに来る事が有っても不思議ではないだろう。

 俺に会う口実―――というのが一番安心というか、正直希望的観測だ。もし本当にそうで、自分との事を友達に応援されているとか、そんな、優しい世界を望んでしまう。


「大丈夫かよ」

 スクールバッグが降ってきた放課後、遂に訊いてしまった。いつかはそれとなく訊こうと思っていたがスクールバッグなんて大きな物が投げられたんだ、きっと今日がその日なのだと思った。

「いやあ、下まで運ぶより投げた方が早いって私が冗談で言い出してこの様です、あはは」

 何が、とは訊き返さないんだな。 もしかしたら自分がイジメられている自覚が有るのではないだろうか。悪巫山戯とイジメが紙一重だと伝えたら君はどんな顔をするだろう。惨めさを自覚させる様な真似はしたくない。そんな事、誰だって認めたくはない。不自然にならない様に俺は話を逸らした。

「いや、頭に降って来たら嫌だなと思って」

「えー?誰もそんなヘマしませんよ」

「花は潰さない様に言っとけよなぁ」

「はーい」

「夏休みもあいつらと遊ぶんだ?」

「どうだろ、塾とか有るから」

「意外」

「失礼な、弟が産まれる前はもっと沢山習い事してたんですよー?」

「ふぅん」

 良い家柄なんだろうか。どちらにせよ人の家庭の話など余り突っ込むべきではない。俺は彼女に野暮な奴だと思われたくはなかった。

「夏休み、あいつらと遊びたくないなら俺と遊ばないか?」

 人生で一番緊張した。サラッとスマートに言いたいという謎のハードルを設けてしまった自分が憎い。実はプライドが高いのではとすら思った。存外、上手く言えたらしい。

「え!何ですか?デートですか?」

「馬鹿言うな」

「友達が居ないとか?」

「そうだな、友達が居ないから花の世話をするのか花の世話をするから友達が居ないのか…ってオイっ」

「どっちもですね〜」

 ケラケラと笑う彼女が眩しかった。因みに友達は居る。

 イジメはどちらかが空気を読めていない時に起こると、何かで聞いた事がある。空気って何だよと思わなくもないが。彼女はいつも明るく振る舞うから、相手も気付かないのかも知れない。彼女すら、イジメとして認めていない可能性もある。被害者意識の醜悪さを彼女は知っているのかも知れない。自分を憐れむまいと気丈に振る舞う彼女は俺が心配するまでもなく強い人間に見えた。


 3.

 結局、夏休みの終わり頃に半日だけ遊ぶ約束をした。

 駅前で待ち合わせた彼女は白いノースリーブのブラウスにデニムのショートパンツとコルクっぽい踵の上がったサンダルを履いていた。青白い胸元に小さい石の付いたネックレスがチラチラと光を反射させているのが目に止まる。セーラー服なんかより大人っぽくて、すっぴんではあったがとても十二歳には見えなかった。自分は無難に黒くて半袖のVネックTシャツとベージュに七分丈のチノパンだった。

 恥ずかしい話、俺は入学以来女子と二人で遊んだのは殆ど初めてだった。端から上手くエスコート出来る気がしなかった俺は「昼どこにする?」と訊いてみた。彼女は「あんまりお金無いのでファミレスでお願いします」そう言って駅前のファミレスで昼食を取った。「それくらい奢るよ」と言えたら良かったのに。

 彼女は食事をし終わっても尚ドリンクバーで粘り、家や塾の話をしてくれた。俺は適当な相槌を打つくらいしか出来なかったが、内容が重い割に彼女は愚痴を零す様な平然とした口調だった。

 どうやら私立中学に入るだけあって家自体は立派らしい。跡取り息子が生まれた事によって彼女は沢山の習い事から解放されたはいいが親の愛情は弟に向き、お小遣いは同級生より少なく、放課後に遊びに誘われても時々しか参加出来ないらしい。彼女はそれを「友達に申し訳なくなる」と零していた。これは彼女の口振りからの憶測だが、時間も金銭も不自由な彼女は、いじられキャラでしか友人としての価値を見い出せていない様だった。そして両親に対しても、勉強を頑張る事しか自分には価値がないとすら思ってる様だった。「そんな事はない」と言ってやりたかったが決めつけみたいで嫌だなと思った。余計なお世話だとウザい先輩のレッテルを貼られたくなかったので、思い留まった。

 それから大きめの公園の花祭りを見に行きたいと言い出したのでバスに乗って向かった。もしや俺が花好きだと思ってるのか訊くと「私が行きたかっただけですよう」と笑っていた。なんだ、我儘も言えるじゃないか。顔色を窺って来たタイプは意思決定権を相手に委ねがちだと思っていた。少し安心した。

「ていうか先輩こそ花、好きじゃないんですか?」

「んー、 育てるのは好きになった、かな」

「じゃあなんで環境委員会に?」

「たまにサボってもバレないから」

 少し稚拙ではあるが、デートみたいだなと思った。言ったらきっと困って、そして直ぐに笑ってくれるだろうから言わない。春には彼女と公園でたわいのない話をする事になるなんて思ってもいなかった。あの時落ちていた黒いローファーは今でも彼女にとって嫌な思い出なのだろうか。あの日の様な夕陽を横目に、ほんの三ヶ月前を思い出した。彼女はこれから塾が有るらしく、駅前で別れた。


 自分の受験勉強も重なり夏休みに遊んだのはそれきりだったけれど、俺はやはり彼女が好きなのだと確信していた。考えれば考える程好きだと思ったし、考える程一つだけ不安になった。もし本当にイジメられているなら何か俺に出来る事はないだろうか。

 クラスどころか学年も違うし、自分も受験が有るし、口で言うのは簡単だけれど言い訳なんて積み上げてもどうしようもない。とにかくもっと観察しよう。「守れる」なんて簡単には言いたくないけど、ヒロイズムみたいなものを感じた。厨二病なのかも知れない。


 4.

 九月一日、夏休み明け初日。空は快晴、朝日が眩しい。花壇の水遣りの為に朝早く登校する。誰も居なくて学校が、というか世界が、自分だけの物になった様な、そんな小さな支配欲を満たしていた。コンクリートの床に黒いローファーが落ちていた。デジャヴというヤツだ。彼女が取りに来たら何の話をしよう。教室にはギリギリに戻れれば良いだろう。それにしてもこんな朝早くに珍しいな、そう思ったその時だった。

 花壇の中に落ちていた。彼女だった。噎せ返る様な花と鉄の匂いが鼻を突く。白いペチュニアと白い肌を彼女は彼女の意志で赤く染めていた。俺は殆ど反射的に手を伸ばし、歪んだ君の頬を撫でた。好きだなと思った。涙は出なかった。


 5.

 ―――拝啓先輩へ この間はありがとう。ちょっとだけデートみたいで楽しかったです。大切な花壇を汚してごめんなさい。先輩が育てた花の中が良いなと思ったの。最期の我儘を許して下さい。先輩はちゃんと生きてね。先輩の中に私は存在し続けるんだから、私の分まで幸せになってね。どうか神様、どうかお願いします。


 神が本当に居るのなら、これは俺への罰なのだと思った。今思えば心のどこかで予感していた気がするから。そんな悪い予感に蓋をして、彼女を信じてしまった。期待してしまった。甘えてしまった。今思うと夏休みは花火大会だの海だの口実は沢山あったのだから、もっと連れ出してやれば良かった。もっと世界は広いって教えてやれば良かった。彼女の為じゃなくて、俺の為に。

 俺を責めてくれたらどれ程俺は救われるだろう。

 手紙くらい明るくなくても良いんだ。愚痴くらい何時でも聞いてやる。助けを求めたって良い。赤子の様に泣いたって、俺は幻滅なんてしないから。


 どうして彼女が居ないのに腹は減り、眠たくなるのだろう。彼女の居ない世界で生きていく事に罪悪感すら覚えた。それでも時間は記憶ごと痛みを薄れさせる。毎日悲しみに暮れる事もなくなる。その内に笑える様になる。肉すら食べられる様になった。毎日革靴を履くのに、思い出す回数が減って行く。何年も前のほんの三ヶ月ちょっとの事だから仕方ない?本当に?

 それは自分と同化している証だと、誰かが言った。俺の中に君が溶けていく。ペチュニアの匂いが眠る君を呼び覚ます。


 6.

 本当は誰も悪くないよ。友達も先輩もお父さんもお母さんも弟も、みんな悪くない。私もきっと悪くないの。

 ただ私がたまたま男の子じゃなかったり、勉強が得意じゃなかったり、ヘラヘラ笑って許そうと思っちゃったり、それだけの事だよ。

 私が死ぬのは、逃げたいからなのかな。疲れちゃったのかな。後悔させたいのかな。それとも、みんなに覚えてて欲しいのかな。

 ずっと上手く表現出来なかった分、最期はちゃんとしよう。ちょっと楽しみになってきた。

 ねえ先輩、ペチュニアの花言葉は、先輩みたいで好きだよ。

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大学の課題 虎兎 龍 @yurixtamura

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