5.苦痛からの解放


「やれ!」


「やっちまえ!」


「叩きのめせ!」


「「「ぶっ殺せっ!」」」


 熱気と歓声で弱り切った心が潰されそうになる中、俺はどうしたらいいか必死に考えていた。おそらくこれから自分はルベックに死ぬまでボコボコにされる運命なんだろう。


 それなら――少しでも生きたい気持ちがあるなら――逃げるしかないんじゃないか? どんなに惨めでも、俺はまだ終わりたくない。何も成せずに死ぬのは悔しすぎる……。


 だから、体力がまだ残っている今が最後のチャンスかもしれない。死ぬ覚悟で崖の上を猛然と走っていけば、やつらもそう易々とは追ってこられないはず。下手をすれば当然死ぬわけだが、ボコられて苦痛の中で死を待つより遥かにマシだ。


「……っ!」


 今だ。俺はルベックたちに背を向けて全力で駆け出したが、野次馬の誰かに足をかけられて転んでしまった。


「うぐ……!」


 俺の体よ、早く立ち上がってくれ、頼む、早く、早く――!


「――このヤロー!」


「ぐがっ!?」


 髪の毛が全部抜けるかと思うような痛みとともに頭を掴まれる。俺はそれでも一矢報いようと振り向きざま殴りかかろうとしたが、あえなく空を切ったところで腹に強い衝撃が加わるのがわかった。


「……うごえぇっ!」


「ヒュー。うすのろ相手とはいえ、凄いな」


「ルベック様、素敵……」


「ははっ。さすが赤い稲妻だねぇ……」


「ひひっ、こいつゲロってるぜぇ」


「汚ねー! このクソムシが!」


 一方的だった。体のどこかに次々と強い痛みが走るのをただ待っている状況。


「オラァッ、死ね! 死ねよ、クソセクト!」


「がはっ! うぐあぁっ……!」


 野次馬たちの盛り上がりも最高潮だ。みんな俺が死ぬのを望んでいる。誰もが俺の悲惨な死にざまを見たくてうずうずしているのがわかる。


「……」


 奇妙なことに、俺はこんな絶望的な状況なのに妙に意識がはっきりしていて、それでいて冷静な心境になっていた。景色だってとても綺麗に見える。どうしちゃったんだ、俺。芋虫みたいに何もできずにただボコられてるというのに……。


「オラッ! ゲロじゃなくて早く血を吐けってんだよクソセクト!」


「うごおぉっ……!」


 ルベックの望み通り、俺は血を吐いて歓声が一際大きくなった。


 ……思えば、俺は嫌われ者の人生だった。あなどられ、みくびられ、ボロ雑巾のように生きてきた。学者の父親は母を叱りつけるばかりで、一度だって俺と遊んでくれたことはない。母は俺が勉強を少しでもさぼるとヒステリーを起こし、俺に物をぶつけてきた。ある日、学者ではなく冒険者を目指したいと打ち明けた俺に、両親はお前なんか金輪際必要ないと言った。


 二人とも大嫌いだったが、今なら少しだけその気持ちもわかるような気がする。冒険者なんて、ならず者の最後の砦だとよく言っていた。両親の言う通り、素直に学者を目指していたならこんな惨めな死に方もなかったかもしれない。


 最初から夢なんか見なければよかったんだ。一体誰だよ、夢を見るのが大事だなんて教えたバカは。こんな最期を迎えるなら、ただの現実からの逃避でしかなかった。夢を信じた俺もバカだ。生きる価値のないゴミが、相応の死に方をしようとしてるってわけだ。自分の間抜け具合がおかしくて笑いがこみあげてくる……。


「おい、こいつ笑ってるぞ!」


「ルベック! もっと苦しめろ!」


「舐められてるぞ!」


「「「殺せえええぇっ!」」」


「わかってんだよゴミども! うるぁぁああ! 死ねこのクソがあぁぁぁっ!」


 うずくまった俺の口に、ルベックの靴が猛然と侵入してきた。


「がああぁぁっ!」


 気絶するような痛みとともに歯が何本も折れて、俺は幾つか飲み込んでいた。のたうち回るのが面白いのか、笑い声が途絶えることはない。


「間違えた、こっちだ!」


「ぐっぎいいぃ!」


 右目が潰れたのがはっきりとわかった。いたい。くるしい。なのに、何故まだ死ねないんだ。早く死にたい。はやくしにたいよう。


「うぷぷっ……」


「……お、おい、こいつまだ笑ってるぞ……」


「化け物かよ……」


 周りから悲鳴が起き始めている。どうした? 何故歓声じゃない?


「クソセクトのくせに舐めやがって……なら、これでどうだ。うらああぁぁぁっ!」


「ぐがっ!?」


 右手を地面に押し付けられ、まもなく激しい痛みが走り出す。何をしているかと思ったら、ルベックがナイフで斬っていた。


「ぎ、ぎぎいぃっ……! あぎゃぁあっ……!」


「おらっ、もう少し!」


「……あ、あがっ……」


 俺の右の手首から先が、ごっそりなくなってる。血がドクドクと噴き出している……。


「へへっ……ほら、返してほしそうだし返してやるよ、クソセクト」


 笑顔のルベックから右手を返してもらったが、当然もう動くことはなかった。


「あと、俺が手当てしてやる。ほら、じっとしてろ」


 手首に巻かれた包帯が見る見る赤く染まっていく。


「すぐ死なれたら困るしよー、こういうときのために用意してたんだぜっ。俺って優しいだろ? ん?」


「……もっとやれ」


「……あ?」


「もっとやれ、早く殺せ……」


「こ、こいつ……マジかよ……なんでここまでされても笑ってやがるんだ……」


 俺は何故だか嬉しくてしょうがなかった。苦しみからもうすぐ解放されるからだろうか? 左目で周囲を見渡すと、野次馬がどんどんいなくなっていくのがわかる。


「おいルベック、さっさと殺せよ。気味が悪い……」


「呪われるぞ、これ……」


「気持ち悪っ……」


「「「ひいっ……」」」


 どうやら周りが冷めてきている様子。それじゃ困る。もっとやってくれないと死ねないじゃないか……。


「はー、なんかしらけてきたしよ、こうなりゃ派手にクソセクトにとどめを刺そうぜ。みんなでボコるとか」


「ルベック。それならいい考えがあるから僕に任せて」


「おう」


 どうやらラキルが俺にとどめを刺してくれるようだ。悔しくて仕方ないはずなのに、俺の中では苦痛から逃れられることの喜びが上回っていた。




「……」


 俺は崖の前に立たされて強い風を受けていた。最後はここから落とす腹積もりなんだろうが、もうすぐ死ねると思うと心地よかった。早く楽になりたい。


「――それじゃ、化けて出ないように。セクト君、自分の無能さを呪いながら死ぬといい。カチュアも何か言ってあげなよ」


「はーい。セクトって人、永遠にさようなら。あのぉ……なんか途中から格好つけてたみたいですけど、全然格好良くなかったですよ? ……ね、ラキル、あとでエッチしよっ」


「そうだね。こういう日は特に燃える……」


「私もー」


「「ちゅー……」」


「……」


 ラキルとカチュアの甘い会話を聞きながら崖の下を見下ろす。俺、これからいよいよ死ぬんだな。さっきまであれだけ死を望んでいたのに、こんなときに急に寂しくなるなんて……。


「ひひっ。じゃーなぁ。ゴミセクトぉ……」


「おいクソセクト、恨むんじゃねえぞ!? こうなったのも全部お前が悪いんだし、あの世で俺らの成功を見守ってくれよなっ!」


「ククッ。天国……いや、これほどまでの無能は重罪だから、地獄でのご活躍を祈るぞ、うすのろ」


 それからまもなく、誰かに背中を強く押し出されるのがわかった。

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