第11話再会


 ガタン。




 いまだ残業中の教員達の視線が、カイトへと一斉に注がれた。

 直立不動で、

「すいません。何でもないんです。」

 と、言った気がした。

 今、カイトの身体中の血液が沸点に達した。キーン、と耳鳴りが走り、危うく目眩を起こしかけた。


 最初はデタラメな文字の羅列かと思った。全く意味のなさない、イタズラかと。

 カタカナは読むのに少々時間が掛る。

 しかし、デタラメではなかった。

 デタラメなんかじゃなかった。



 カイトは走っていた。こんなに本気に走ったのはいつぶりのことだろう。


 ――サイゴノバショ――


 最後の場所。カイトには目星が付いていた。

 もしも、たとえ違っていたとしてもいい。少しの間だけでも、儚い夢を見させてくれるのなら。

 彼女が、カイトを呼んでいるなら、どこへだって駆けつける。

 幽霊でも良い、今でも、いつでも会いたいと思った。


 


 あのときマナが、夜の学校での遊びをお終いにしようと言って最後に行くはずだった場所――。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 屋上へ続く階段の踊り場。



「ねえ、知ってた?」


「屋上へ続く階段。普段は柵がしてあって、立ち入り禁止になっているけれどね、こっそり、そこを上がっていくとね、折り返しに踊り場があるの。」


「そこから屋上へ続く扉までは数段の高さしかなくって、扉の上半分は磨硝子になっているの。」


「月の見える夜には、その窓から月の明りがいっぱいに射して、ちょうど踊り場を照らすのよ。」


「そこで、恋人達は絡み合うようにダンスを踊るの、そういうお話。書いてみようと思うんだ。」


「その場所の雰囲気、ちゃんと自分で体感して、言葉にしたい。」


「別に一人だって平気だよ、でも、カイトも来る?」



 別に一人だって平気、というのは、マオらしい。

 夜のプールの帰り道に、彼女はそう言っていた。

 あのとき、二人はびしょ濡れで、冷えた身体を燃やすように、些か興奮気味で夜道を歩いていた。

 ついさっき、初めてカイトはマナの身体に触れたのだ。プールに落ちることは想定外だったとしても、マナの細い肩に触れて見つめ合ったこと、そして彼女とふざけて笑ったり、駆け回ったりできていることが、今のカイトいっぱいを満たしていた。

 カイトは、次の木曜日、マナの言っていたその場所へ一緒にいくことを承諾した。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 鈴虫の鳴く声に癒され、幾らか涼しく感じていたのは、動かずにじっとしていたからで、走れば身体の内部から熱が発生する。

 自身が発する熱量も自分の体温も、今は全てがひどく煩わしい。全て脱ぎ捨ててしまいたい。

 身体すらも置いていく速さで、駆けていけたら良いのにとカイトは思った。若い頃は、それが出来たはずだ。今のカイトには難しい。


 本当は、マオの消息不明を自分の中で受容できずにいた。ずっとずっと。

 マオは、本当に突然、カイト達が高校三年の夏の終わりに、神隠しのように姿を消した。

 カイトはマオと、恋人同士だったと言えるのだろうか。たとえ言えたとしても、ほんの一瞬の恋人だ。

 カイトはおそらくマオを人生で最も愛おしい瞬間、マオを失った。

 その気持ちを相手へ十分に伝え切る前に、行き先を失った。気持ちは冷めることも、昇華することも許されなかった。 


 若いカイトにとって、この受け入れ難い現実を、どう抱えて生きていこうか――それからというもの、マオが居た教室はすっかり色を失ってしまったように見えた。

 カイトの心にも大きな穴が開いたように、欠損した。


 卒業までの半年間は、警察も絡んだマオの捜索に校内は一色で、正直、全体が受験勉強どころではなかった。

 夜の校舎へ忍び込んでいたことは誰にも気付かれていないようだったが、家の近かったカイトもそれが理由で聞き込みを受けた。

 警察が欲しがるようなマオの情報は、言葉にしてみるとすぐに詰まって、カイトはマオのことを幾らも知らなかったんだなと思った。 


 結局、夜の校舎へ忍び込んでいたことは言わなかった。

 これは二人だけの秘密だった。警察は何も聞かなかった。そうして、二人の秘密は蓋をされ、永遠の秘密となった。


 最後の場所にも、二人で行くことは叶わなかった。


 高校を卒業しても、マオの行方の噂は何度かカイトの耳にも入ってきたが、どれも信憑性がなく、結局マオは戻ってはこなかった。

 いつしか、周りの誰もがマオの話をしなくなり、大人になった今では、マオを知っている友人とすら疎遠となった。


 カイトが、どこにでもマオの面影を探してしまう生き方を止めたのは三十を過ぎてからだ。

 それまでは、カイトの中で、マオがどこかで自分を呼び続けている気がして、彼女がいつでも帰ってこられる居場所を自分の中に用意しておかなければならない。それを義務化して自分を支えていた。

 けれどその気持ちも、自然と時の経過とともに不確かなものになり、莫迦げた義務感の所在は、カイトの生きる世界になくなった。

 大人にならなければいけなかったのだ。

 その代わりに、夢を見るようになった。


 マオと一緒に大人になることを諦めたカイトが見る夢は、永遠にあの夏にいる。

 カイトは、大人になるため、自身の夢を、永遠に大人になれない高校生の自分へくれてやることにした。大人の自分は、永遠に夢なんて見なくていい。

 そうして、現実のカイトも次第にマオと隔たった。


 歳をとり、カイトがあの頃のマオへしてやれることは、もう一つもなかった。時が経ち過ぎた。


(けれども、もしも、あのとき消息を絶った君が、どこかで別の人生を歩んでいて、そして今僕を必要としているのなら……、)


(今だったら、やり直せるかもしれない。)


(メッセージの送り主が本当にマオだとしたら、ずっと僕に見つけてほしかったのかもしれない。)


(もしもマオに会えたなら、あの頃に戻れるだろうか。)


(おそらく、年老いた僕ら――。)



 カイトは息を切らせながら階段を駆け上った。

 あとは、柵を越えて数段、昇るだけだ。

 心拍数は酷く乱れていたが、気持ちは次第と落ち着いていた。


 柵を越え、一段、また一段と上がっていく。駆けるのは止めた。

 今夜の月が、予想以上に射している。

 見えてきた踊り場は月の光で明るかったが、それだけで、誰も立ってはいなかった。とても静かな空間――。

(莫迦だな。本当に、愚かだ。)

 きっと、マオが現れたとしても、もう戻れないのだ。戻るなんてことは、おそらくない。

 長い年月がそうさせたのか。それは諦めとは正確には違ったが、限りなく近い気持ちだった。

 自分は、いつだってマオには誠実であったつもりだった。

(けれども、無理な話だ。僕はもう、こんなに歳をとってしまった。)


 息切れがすごい。

 階段に腰を下ろし、首元のボタンを二つ外し、静かに汗が引くのを待った。

 コンクリートの壁や床は、触れるとひんやりとして心地良い。

 カイトは背中に月を受ける格好をとって、しばらくの間、踊り場をただ見つめていた。

(ここで、マオはどんな小説を書きたかったのかな。)

 月がつくる自分の影は薄らとしていて、まるで不完全だ。


 冷たい床で掌を冷まし、少し、影で遊んでみた。

 人差し指と中指の先端を床に立て交互に弾く。地面と指の接する点から影は長く伸び、曲げたりしながら地面を離すと影は散って消えていく――影の方の指先が踊っているように見えた。

 無意識のうちに、鼻歌のようなメロディがカイトの中から生まれていた。

 


 そのときだった。

 

 指でつくる影が、カイトの他にもう一つ――彼の頭上に伸びてくる。

 スクリーンの壁に映し出される影が次第に露わになる。

 細い輪郭だ。

 細い、細い手の影が、どんどん伸びてカイトに迫っているのだ。

 心臓が、大きく脈打った。


「カイト……。」


 背後で鈴が鳴った。


 振り返ったが、誰もいなかった。

 もう一度、月に照らされた壁に目を遣ったが、影はもう消えていた。

 けれど、あれは、確かに聞き覚えのある――もう随分長いこと聞いていない、マオの声ではなかっただろうか。


「マオ?」


 立ち上がり、声がした方を向いた。月光が優しく、それでも少し眩しかった。鈴はもう鳴らなかった。暫く沈黙が続いた。

 カイトはもう一度、言ってみる。


「マオなのか?」

 すると、声がすぐに返ってきた。

「カイト、上着、貸してほしい。」

 懐かしい声と同時に、壁からひょっと白い腕が伸びた。驚くほど白い。影の手はとうとう、幻ではなく、ついに実体を現した。


 マオだ。

 今の状況を理解してはいなかったものの、カイトは言われるままに羽織っていたジャケットを脱ぎ、その手へと差し出した。

 ジャケットを掴んだ手は、またすぐに壁へと消えてしまった。

 僅かだが、指先が触れた。冷覚のみで感じた。冷たい、それだけだった。柔らかいだとか、硬いだとか、痛いだとか、触れているとか、それらの感覚を与えてくれる前に、その手は消えてしまった。


 少しの間、カイトは、動こうにも動けなかった。

 そう、それは、初めて夜の教室でマオと会ったときみたいに、強制的な力がカイトに働いていた。

 ここからは死角になっている壁の向こうに気配がある。音はない。

「そっちに、行っては駄目なのかい?」

「待って、私が行く。」

 それからすぐに、物陰から現れたのは紛れもなくマオだった。

 カイトは、見間違いようがなかった。それもそのはず、マオの姿は年老いることなく、高校生の少女の姿だったのだ。

 カイトは、今起きている奇跡を、現実として受け入れるだけの許容がなかった。

 もう二度と会えるはずのないマオと、再び出会えたのだ。もちろん、心は跳躍し、見る見るうちに震えた。けれども、これは、仮睡の続きではなかろうか。

 夢と現実を履き違えてしまったのだろうか。

 不思議な夜――。



「マオ、どうして。」


 夢だとしても、自分だけが年老いた夢なんて、見たくない。


「わからない。ここは、学校の踊り場でしょう。ここで、会う約束、していたでしょう。」

「それは、そうだけど。もう何十年も昔の話だ。僕はこんなおじさんになってしまった。」

「でも、カイトでしょう?」

「分かるのか?」

「分かるよ。」

「分からないことは、たくさんある……。ありすぎて私――。」

 そこで、マナと思われる少女は涙を流した。そして言った。


「どうして私は、カイトと一緒に歳をとれなかったんだろうね。」




 マナが落ち着きを取り戻した頃には、カイトも同様に、これはやはり現実なのだと理解していた。そして、マナの身に起こったことを明らかにしなければならない。これからどうするかは、その後でも良いだろう。


「今まで君は、何処に居たっていうんだい。それに、どうしてそんなに――、」

 マオの制服はぼろぼろだった。それは古びて劣化したというわけではなく、強引に引き裂いてぼろぼろにしたような――そう、誰かに襲われて乱暴された後のような姿だ。

(マオ、君はもしかして……。)

 襟のボタンはなく、ブラウスは、暗いからよく見えないがおそらく汚れている。スカートのプリーツだって裾が揃っておらず、ちぐはぐだ。

 マオは、差し出した上着の裾をぎゅっと両手で握り、頼りなげに立っている。

 下唇を噛み締め、心細そうに立っているマオを、一人きりで立たせておくなんてできるわけもない。本当ならすぐにマオを抱きしめて、マオがいま纏っている全ての事態を覆い隠してやりたかった。

 けれどカイトは、すぐに駆け寄ることができなかった。カイトだって、戸惑っているのだ。

 マオは、それからしゃべらなくなり、肩を竦めている。その大きくて黒い瞳からは涙が止め処なく頬を伝っていった。

「カイト、私がこわい?」

「どうして?」

「だって、私だって自分がこわいもの。私って何?私は本当にここに存在しているの?」

 マオも戸惑っているのだ。

 カイトは、必死で、言葉を探していた。そして、言葉を見つける前に、マオが振り絞るように呟いた。


「カイト、私、汚されてしまった。」


 カイトはやっと、マオに駆け寄って、彼女を両腕で包み込んだ。

「それ以上は、言わなくていいよ――。」

 と耳元で囁いた。互いが、震えていた。

 けれどもマオは続ける。

「私、死んだんだと思ってた。」

「うん、」

「男が最後に言ったの。」

「マオ、」

「壊れろ、って――。」

「マオ、」

「私の身体、光ってた、」

「うん」

「私は見えなくなって……。世界の果てにいたんだと思う。それから今までずっと、私に話し掛けてた。」

「うん」

「ねぇカイト、」



「私、ちゃんと形になっている?」





 真っ直ぐな瞳がカイトを貫く。

 黒曜石の瞳。

 吸い込まれるように、虜になってしまうから、ああもう少し見ていたい――けれどもその瞳は容易く閉じてしまった。

 マオはカイトの腕の中で、そのまま意識を失ったのだ。

 マオの身に一体何が起こったのか、解き明かすことはできるのだろうか。

 倒れているマオの姿を見ながら、カイトは、これからどうするか考えていた。


 ぐったりとしたマオの身体を擦って温めながら、カイトは、マオが見た世界の果てはどんなものかと想像してみた。

 マオが消えた日は、夏の終わりの水曜日だったような気がする。


――泉君、君は運が良かったのよ。


 どこか遠くの方で、記憶の中のマオの声がする。あのセリフを、いつ言われたんだったっけ。確か、忘れ物を学校に取りにいった日だ。


(マオは、助けに来ない僕をずっと呼んでいたのだろうか。)


 あのとき、手に入れたかったマオが、今こうしてここに在る。感触は確かなものだ。

 神様がカイトに託した奇跡の子――。


(あの頃には決して戻れないけれど、今この瞬間から、君に僕の残りの全てを捧げよう。)


(もし、このままずっとそばにいてくれるのなら、それが叶うのなら、世界には受け入れられぬ心細いあの身体を、絶対に守っていこう。)

 カイトはそう誓った。


(どんなことだってしよう。可哀そうな君が望むのなら。)


(けれどもう、僕の前から突然居なくなることとだけはしないでくれ。)





 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 いつの間にか月が、もう手の届かない、遠くへいってしまった。

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