第12話墓参り

 枕が違うと、そう安眠できるものでもない。

 昨夜、カナタが入眠したのはおそらく午前三時近かったのだが、朝は七時には目が覚めてしまった。


 折角の休みだ、そう簡単に起き上がる気にはならず、布団の中でもぞもぞしていたが、暑さで二度寝もできず四十分後には観念して身体を起こした。

 それでも悪足掻きした方であろう。

 カナタは寝ぐせ頭も構わずにジーンズに足を通し、襖を開け、そのままダイニングへ向かった。


 いい匂いがした。

 親父かとも思ったが、今日は平日だし、もう学校へ向かっているはずだ。だとしたら、やっぱり――。


「おはようございます。」


 昨日と同じだ。鈴が鳴った。


「ああ、おはよう。」

 すぐに台所の陰から、昨日と同じ制服姿のマオが出てきた。

「トーストとスクランブルエッグ、食べますか?」

「あ、ありがとう。じゃあいただくわ。」


 朝から女の子のエプロン姿も良いもので、世界は全く平和だな、とカナタは寝ぼけ頭で能天気に思った。

 昨日は、短い接触ではあったが、あのときカナタが抱いたマオの印象と、今日のマオは違う。カナタには、今朝のマオがやけに現実的で、昨日のミステリアスな雰囲気とは対照的に映った。

 マオは案外、人懐っこい質のようで、カナタと二人の時間に遠慮や気まずさをあまり感じていない様子で、自然に容易とカナタのパーソナルスペースに触れてくる。

 その雰囲気にカナタものまれ、この得体の知れない少女と信じられぬほど普通に話している自分がいた。


「昨日は、きちんと挨拶しなくてすみません。」

「いえいえ、俺も無愛想ですいません。びっくりしたんだ。まさか、君みたいな―」

 綺麗で年頃の娘が同居人なんて想像していなかった、とは、下心があるようで本人には言えない。

「私みたいな?」

「――俺はてっきり小学生くらいの鼻の垂れたガキだと思っていたから。」

「私もびっくりしました。泉先生とカナタさん……って呼んでもいいですか、カナタさん、凄く似てる。」

 この大きな瞳は表情が豊かで賑やかだなと思った。

 マオは続けて言う。

「本当に、若い頃の先生を見ているみたい……。」

 そうだろうか。

 カイトとカナタは、そんなに似ているだろうか。

 カナタは自分ではそう感じたことがないし、だいたいこの少女は、どうして父の今の風貌から若い頃の姿を想像して、こんなに感動するほど似ていると確信して言えるのだろう。

(だいたい、俺はまだ目尻の小皺やシミもねえし。俺って、自分が思うより案外老けて見えるのか……。)

 他人から見れば、細かなパーツは、雰囲気と先入観でカバーされるのか。

(まあいっか。親父は年のわりにはハンサムだからな――、なんて。)


 カナタはマオの気軽さに、つい父との同居生活についての込み入った話を聞けるかもしれないと思った。

 本当のことは、今さら父の私生活にどうこう言うつもりはない。しかし、単純に興味があった。


「マオちゃん……って俺、呼んでいいのかな。」

「いいですよ。」

「君は親父との二人生活、嫌じゃないの?」

「どうしてですか?」

「だって、君のお母さんと親父は従兄妹かもしれないけれど、俺は君のことを全く知らなかったし、君だってそうだろ? そんな赤の他人同様の、しかも年増だけど親父だって仮にも男だし……そんなやつと同居なんて。君のお母さんは、病気で大変かもしれないけど、他に方法はなかったのかな。世間体としてさ……なんていうか、周りの人間だって、よく反対しなかったね。」

「……先生は、嫌々って、そう言ったんですか?」

「いや、親父は俺に何にも言わなかったんだよ。後半は俺の考え。」

「カナタさんは、反対?」

 マオの表情が少し、沈んだ。

「いや、別に君のことを悪く言ってるんじゃないんだ。部屋だって好きに使えばいい。」


 マオは、暫く考え込んでいた様子だった。

 この様子は、どんな感情だろう。落ち込みや哀しみ、嫌悪感とも違うような――。

 カナタは、朝から気まずい雰囲気も何だしな、と、結局話をすり替えた。


「そうだ、部屋で思い出したんだけど、君が今使ってる部屋から、俺の寝巻とか服を数枚持ってきたいんだけど、入ってもいいかな。」

「はい、構いません。」

「もちろん、君に少しでも抵抗があるんなら同行で……、同伴?なんか違うな。」

 カナタは、へへ、と笑ったが、その拍子にひどい頭痛がした。

 二日酔いと寝不足のせいだろう。

「カナタさんの部屋なんだから、いつでも好きなときに入ってください」

 マオは続けていった。


(何はともあれ、この数日間、ここで起きることは、俺には関係ないことだ。)


(親父だって、こんな俺なんかに、とやかく言われたくないだろう。)


(この子とのことだって、言いたくなければ言わなければいい。)


 カイトは、頭痛のせいで些かぞんざいにスクランブルエッグを突いていた。


「私の父、死んじゃったんです。母には頼れる人が居なくて、やっと思いついたのが、先生だったんです。」


「今の私には、お金も何もなくて――。この先、どうなるか分からないけれど、いずれ先生にはきちんとお礼をしたいと思っています。」


「だから、先生が私をここに置いてくれたことを感謝しています。私はこれっぽっちも嫌だなんて思ったことないです。むしろ先生の迷惑になっているんだったらどうしようって、そればかり考えちゃう。」


 やれやれ、辛気くさい朝になってしまった。しまいに女子高生を泣かせてしまっては決まりが悪い。カイトは、できる限り明るい声色で言った。

「そっか、ごめん。親父は絶対、嬉しいよ。最近は淋しがり屋でさ、誰も構ってくれないもんだから――女子高生にこうやって料理を作ってもらえるなんて、泣いて喜んでるって!」

「先生が、淋しがり屋……。」

 マオが、やっと、笑った。よかった。


「これから学校?」

「はい、夏休みだけど講習があるから。」

「そっか、受験生は大変だな。車で送って行こうか?俺が時間とっちゃったから。」

 カナタは壁の時計を指差す。

 時刻は八時一五分、カイト達の学校はカナタの母校でもあるから道も分かる。ここからは歩いて三十分、バスで十分だが、待ち時間もあるだろう。


 マオは少し躊躇っているようだった。

 大丈夫、何もしないって――そう言おうとしたが、そっちの方が下心がありそうで、やめた。


「いいんですか。」

「いいよ、俺昨日、帰ってきてすぐ寝ちゃったから、酒臭いかもしれないけど」

 マオは、目を細めて笑いながら首を振った。


「さすがに寝癖くらいは直すから、一分待って。」

 と、階段を駆け上がり、かつてのカナタの部屋から、キャップと、それからついでに寝巻とTシャツを引っ張り出し、衣類をそのままリビングのソファへ投げ、鏡も見ずにキャップを被って外へ出た。



 父は、歩いて通勤しているようで、父の車は昨日と同じ場所にそのままあった。

 昨日、確認することができなかったが、去年の帰省時には父は車を持っていなかったので、どうやら買ったらしい。

(やっと何か趣味でも見つけたのか……?)


 カナタはマオを助手席へ座るよう促し、そそくさと車を走らせた。


 緊張しているのだろうか――助手席のマオは、動きが少ない。

 自分もそういえば、助手席に女の子を乗せたのは久しぶりだ、とカナタは思った。

 別に彼女がいなくたって仕事で運転することもあったから、助手席に女性を乗せる機会はたまにある。しかし最近は、ずっとなかったように思う。


 助手席の女性は、面白い。

 手と脚を何度も組み替えたり、化粧を始めたり、気まぐれにこちらの顔ばかり見つめる女も過去にいた。

 マオはというと、まるで極力酸素を消費しないような息づかいで、真っ直ぐ前か窓の外の遠くの方を眺めている。視界に入れないと、存在を忘れるくらいだ。


 エアコンの行き渡らない車内はまだ蒸し暑く、カナタは両側の窓を少し開けてやった。すると、マオの長い黒髪が靡く。

 カナタがマオと同じ歳の頃、彼女のような黒髪に憧れていたような気がする。

 母校の制服は、女子はセーラー服。上着の丈が短いので、女子が挙手すればウェストが露わになることを、男子はみな俄かに期待する。

(見えそうで、見えないんだよなあ……。)

 カナタは、女子に告白された経験が数回あったが、自分が狙ったクラスのマドンナはカナタに見向きもしないどころか何となく他の男子と比較すると対応が素っ気ないような気さえした。カナタもそれなりにプライドがあったので、自分もつっけんどんな態度で接し、同じクラスの一年間で距離が縮まることはなかった。

 マオを見ていると、あの夏の教室の風景が自然と思い起こされてカナタは無性に懐かしい気持ちになった。

 風が心地よく、二日酔いが少しずつ抜けていくような気がした。

「学生はいいなあ。」

 ダサい言葉を口走った。

 声にするつもりはなかったのに、自然と溜息のように漏れ声になってしまっていた。

「なんか、オジサンみたい。」

 マオが笑った。そして、

「社会人は、よくないんですか?」

 と、続け、初めてこちらに顔を向けながら言った。

 マオと目が合った瞬間、何だか、さっき以上に恥ずかしくなった。カナタは運転に集中することにした。

 

「私は、早く大人になりたいって思ってる――。」


 マオは、そう呟くと、またさっきのように黙ったまま座っていた。

 校門まではすぐだった。

 校門の前には、図体の大きい笹という体育教師が立っており、朝の挨拶運動をしているようだった。

(笹……まだいたんだな。)

 笹のことは、カナタも知っている。

 門を少し通り過ぎ角を曲がってすぐのところで車を停め、マオに話を振ってみたが、思いの外、話には乗ってこず、笹とはあまり面識がない様子だった。嫌いなのかな、単純にそう思った。

 今日は風が強い。突然の風は会話を中断させる。


 マオは、自分で窓を閉め、

「ありがとうございました。」

 と言って車を降り、歩き出した。始業チャイムはまだ鳴っていない。間に合って良かった。



 カナタは、誰も居なくなった家に戻った。

 家に着いてシャワーを浴び、身なりを整え、午前中は、暫く使用することになる母の衣装部屋を整理することにした――といっても、捨てて良い物とそうでない物の判別は出来ないので、生活に邪魔なものを何となく収納ケースに押し込み、そのケースの上に自分の荷物をきれいに並べて置いた。


 押し入れの中には、カナタにとって懐かしい物がたくさん入っていた。

 その一つに、父がカメラで撮っていた母親と小さい頃の自分の写真であり、写真立てを折り畳み、隙間なく箱に収められていた。

 その写真の中には、カイトのお気に入り――玄関にずっと飾ってあった遊園地の写真があった。


(あれ、そういえば――。)


 カナタは一旦手を止め、玄関へ駆けていく。

 今まで気付かなかったが、玄関に飾ってあったいくつかの写真は一つ残らず取り除かれ、押し入れに仕舞われている。

 暫く帰省していなかったが、確か最後に訪れた一年前の盆には変わらずここにあったはずだ。

 マオの手前、気恥かしくて仕舞ったのか――。改めて見ると玄関はひどく殺風景だった。

 昨日、家に入った時の違和感の一つは、これが原因だったのか。

「親父、――何かあったのかな。」

 この空間での独り言は、思った以上に反響する。

 

 物置部屋は、目に見える所は随分片付いたと思う。数日生活する上では、不自由はないだろう。

 今となっては、この家には自分の物がほとんどないので、どんなことをしたって落ち着かないのは確かだ。

 呼吸をしていてもどこか見知らぬ空気を吸っているようで、自分の家の匂いってこんな匂いだったのか、と気付くことが今のカナタにはできるのだ。  


(母さんの墓参り、これから行ってしまおうか。)

 本当はカイトと一緒に行こうと思っていたが、まあ一人でもいいだろうとカナタは思った。

 こんな昼間に、予定もなく実家にいる意義もない。

 自分の家であれば、同じ休日でもやることが何かしらあるものだ――そう考えると、せっかく部屋を整理はしたものの、用が済んだら今年は予定より早めに帰ろうかという気になった。




 昼食はコンビニで買い、車内で済ませることとし、まずは早々と車を走らせた。

 実家から母の墓がある場所まではそう遠くない。

 途中、いつも寄る花屋で適当に花束を見繕った。

 花屋は確か去年までは老夫婦が二人で切り盛りしていたはずだったが、主人がおらず、代わりにカナタくらいの歳の女性が働いていた。一言、二言、遣り取りを交わしていく中で、聞き覚えのある声だな、と思った。名札を見ても誰かはピンとこない。

 会計のとき、初めて正面に立った女性が言った。

「ねえ、泉カナタくんでしょ?」

「え――ええ、そうですけど、」

「私、林カナだよ。覚えてる?」

 名前を聞いて、やっと繋がった。

 名前と声と面影が重なり、カナタの中で遠い記憶の林カナへと辿り着いた。


 名前という言葉が持つ情報、名前から誘発される記憶の量は大きいものである。

 林カナという言葉から連想される情報が、言葉を経由し脳内で映像となって思い出された。

 林カナは中学の途中で転校していった唯一の女子だ。

 目立つ子ではなかったが、陸上部で短距離走が速かった。

 カナタはかつて林カナに告白された。

 彼女は、カナタの下駄箱にラブレターを残して、返事を聞かずにそのまま転校していった。カナタは、それまで林に特別な感情を持っていたわけではなかったが、もらった手紙が印象的だったので、何度か読み返した記憶がある。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(林カナの手紙より)


泉くんへ

 同じクラスになったときからずっと泉くんのことが好きでしたが、とうとう今日まで言えずにきてしまいました。

 泉くんはモテていたし、きっと私なんて相手にしてくれないだろうなあと思って、ただ見ていただけの二年間になっちゃった。

 泉くんは、他の男子とはどこか違うような気がしていましたが、それがどうしてなのか、私はいつか聞いてみたかった。

 おかしいと思うかもしれないけど、私は、泉くんの話を聞いてあげられる存在になりたいなって思ったんだ。私が大人だったら、泉くんの求める女性になれるかもって思うのに、残念です。

 転校が決まって、きっともう会えないと思うので。

 泉くん、幸せになってね。


林 カナ



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 当時、カナタ自身は誰かに話を聞いてもらいたいとか、自分の何が他の人と違うのかなんて自覚がなかった。だから、気になった。

 彼女は本当に、カナタすら知らない心の奥を知っていたというのだろうか。

 今なら自分でも何となく感じる、カナタの愛情の欠陥を、当時の彼女が本当に理解していたのだろうか。

 もしも彼女と付き合っていたなら、カナタは今の自分と違う自分になっていたのだろうか。

 カナタの記憶にはあの頃の林カナの姿形より、手紙の文面がより鮮明に残っていた。




「私ね、結婚して旦那の仕事の都合でまたこっちに戻って来たの。今はパートで花屋さん。」

「そうだったんだ、懐かしいな。俺は、もうこの町出て、毎年お盆の時期だけかな、こっち戻ってくるの。」

「そっかあ、じゃあまた機会があったら、会えるといいね。元気でね。」

「うん、林さんも――。」


 林カナとは、そのまま別れた。

 中学の思い出も、ラブレターのことも、何一つ話はしなかった。

 世の中、何が起こるか分からない。不可思議な、時間だった。


 林カナの、レジを打つ俯いた表情が綺麗だった。

(林カナと、付き合ってもよかったな……。)

 バカなことを思いながらカナタは車を走らせて、数時間後にはそんなことを思ったということも忘れていた。

 



 年に一度、しかもいつもは父のナビで行く墓への道のりは曖昧である。

 カナタは、その複雑な墓地の構造をいまだにしっかりとは記憶できず、それでも数回、似た通りを行き来しながら、ようやく辿り着いた。


――泉家之墓。


 今日は、やはり風が強い。墓地は、少し窪地になっているから、風が集中する。

 ごうごう、と音が凄い。

(あれ、今年は一番乗りかと思っていたのに。)

 墓前には、鮮やかな花があった。

 花の名前は詳しくないから、わからない。小ぶりの、黄色と桃色のものに、大輪の白い花。林が作ってくれた花束には、入っていない。どれも、名前は浮んでこなかった。


 そういえば、花というものは、日常に在り触れている気でいたが、案外そうではないものである。

 カナタは、かつて知り合いに花を贈ったときも、自分が見立てた花の名前も知らなかった。

 道端に咲く野花ですら、タンポポやチューリップくらいしか分からない。


 花のある場面では、名も知らぬ花達がいつも一瞬の感動を与えてくれた。

 しかし、花はカナタの生活の中に溶け込むことはなく、それ以上の価値を見出すことはカナタにはできそうもない。

 短い一生の中で、美しさを凝縮して目一杯に咲き誇る。

 思えば、カナタの母は、花ほど何か成し遂げることもなく、若く美しいまま死んでいったように思う。




 母の墓前に立って、静かに手を合わせる。

 ごうごう、と音がする。

 風の音に耳を澄ますと――、記憶に仕舞われていた、母の声が聞こえてくる。



――秤に掛けてみましょうか。

 

 それは、幻聴のように、記憶にしてはあまりにもリアルに響いた。

 声は遠くもなく、近くもなく聞こえてきた。

 不確かな輪郭の声。


――父さんには、私よりも愛した人がいたのよ。

 

 かつて聞いた、母の言葉だ。カナタはその記憶があまりにも遠過ぎて、混乱した。

 風が強い。ここは、吹き溜まりだ。

 ごうごう、と音がする。

 言葉は風が連れて来たのか、それとも風そのものか。


――父さんは、私達を愛してくれた。でもね、愛した分と秤が釣り合うくらい、その人を忘れられなかったのよ。

 

 母の声は、悲しい声だった。

 風が煩い。


 カナタが幼い頃に亡くなった母。

 今思い出せる記憶の中の母は、いつも優しく笑っており、夫婦は仲が良かった。

 そんな母が、なぜあんなことを言うのか――カナタは知らぬ間に記憶に蓋をしていたようだ。だから、本当にあれは真実かと聞かれると、自信はない。カナタの中で、母と違う誰かの記憶が混じり合った産物ではないだろうか――。

 トリップしたように記憶が戻り、酷く混乱した。



 母の死――それは、カナタには過去だった。けれどもカナタは、忙しい日々の中で母を思うこともなく生きてきた。母の死に、また同様に父に対しても、あまりにも無関心であり過ぎた。


「父さん、真実は何処なんだ――。」



 カナタの声もまた、風の中に姿を消した。

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