第18話 確信
あの買い物から、実に穏やかな、三度の休日が訪れた。
カイトは、マオにたくさんの世界を見せてあげたかったが、如何せん車がない。
昔は通勤も車だったが、自家用車は息子が家を出ていくときに一緒に持っていったのだ。
あのときは、もう乗らないからと承諾したが、今になって、マオを遠くへ連れて行きたくても車がないことには難しい。
中古でも良いからと、小さな軽自動車を買うことにした。それくらいの貯金は、あった。
マオは、車なんて、と反対したが、カイトはそれを押し切り購入した。
今日は、それで少し遠く離れた海にいる。
「やっぱり車、買ってよかっただろう。」
とカイトが言うと、
「まあ、そうね――。」
とマオが応えた。
「ねえ、手を繋いで散歩しよう。」
マオに促されて、手を繋ぎ岸を延々と歩く。
手の繋ぎ方など、とうの昔に忘れてしまった。
恥ずかしさが消えず、この砂浜にいる疎らな人々の視線が自分らに注がれているような過剰意識をぬぐい去ることができない――むず痒い感覚だった。
けれど、ここは見知らぬ地。
誰も二人にを知らない。何を思われようと、もう会うことはない。
浜辺の水平線に夕日がのみ込まれようとしている。赤と青のグラデーションがきれいだ。
「少し肌寒いし、もうそろそろ帰ろうか」
遠くの方で声がした。
あれは犬を連れた親子だ。小さな女の子は眠たそうに目を擦っている。
「うん、帰るーー。」
小さな女の子は応えた。
「マオ、僕らも――、」
マオが、また自分のことを見つめている。
その視線はカイトを貫き、まるで何もかも見透かしているような――。
「カイト、今日一日で少し日焼けしたね、鼻とほっぺた、赤くなってる。」
「本当? そういえば顔が少しひりひりする。」
「私は、どう?」
「うーん、あまり変わりないかな。日焼け止めクリーム、塗ってきた?」
「うん、鏡台にあったの、使った。」
「ああ、いいよ。何かの景品で、当たったやつだ。君にあげる。」
確か少し前に、コンビニのくじ引きだったような気がする。
この歳の男がスキンケアになど気を遣うわけもなく、いずれはゴミ箱行きになるなあ――そう思っていた。
しかし、マオはやはり女の子だ。若くて、綺麗な肌だ。ただ、少し白すぎる。
昔のマオは、こんなに白かったろうか――カイトは、思い出すことができなかった。
「これ以上ここにいたら、身体が冷えてしまうよ――、」
僕らももう帰ろう、そう言い掛けた。けれども、カイトの語尾はマオによって遮られた。少し強い口調だった。
「カイト、カイトに言いたいことがあるの。」
マオは静かに、語りだす。
ざざと、波の音だけが聞こえる。
「カイト、私のこと、変わらず好き?」
マオは不安なのだろうか。自分の所在の確認をするように、カイトへ聞く。
マオがいなくなってから、自分の叔母にあたるマオの母親は病気で亡くなり、片親で育っていたマオには今となっては付き合いのある親族がいない状況だった。
そのことは、マオといろいろな話をするなかで伝えていた。
マオには会いたい人も、自分を待っている人も、カイト以外にいないのだ。
もしも、カイトが死んでしまったら、マオは何のために生きるのだろう。なんで生きているのか、と自問するだろうか――。
カイトは優しく言った。それは、偽りではなく本心からの言葉であった。
「好きだよ。マオがいてくれて、こうして毎日が充実しているし、一生大事にしたいって思う。」
「じゃあ、私のこと、――抱ける?」
不意だった。
カイトは、それからは言葉に詰まってしまった。
何も言わない時間が長いほど、マオのことを傷つけると分かっていても、言葉が浮かんでこない。
今の自分が、マオを抱く――想像するだけでも、こんな後ろめたい気持ちになるのは、マオを苦しめた男達と自分が結局のところ変わらぬということをカイト自身が認めることにはならないだろうか。
マオに欲情をぶつけて、彼女を傷つける行為になりはしないか。
マオが望むことは、何だってしてあげたい――だからもしも君が望むのなら……。
けれども、自分はどうやって彼女に触れる? 三十五年経った今、こうして歳を取らずにここにいるマオの存在は、自分とは異質だった。
恐怖ではない……彼女はカイトの、聖域だった。
(マオ、どうして君は今になって、昔の姿のままで現れたんだ?)
(その身体も中身の心も、本当に本当のマオなのか?)
(その身体は、抱けば崩れたり、ほつれたりしないか?)
カイトにも混乱や戸惑いはあった。
この不可解な存在を、綺麗な言葉で着飾り、当時恋焦がれていた記憶の中のマオを夢から引き摺りだし、無理にでも彼女と合致させようと踠いていたような気がする。
だからいつまで経っても仮睡の感覚が抜けないのだ。
今を生きるマオを――目の前の彼女を、ちゃんと自分の目で見たことがあったか?
自分は、現実の彼女と一緒にいても、マオの亡霊を慈しんでいるだけだっただろうか。
「腫れものに触るような、接し方しないでよ。」
「そんなに、優しく労わるように扱わないで。怒りにも似ていていい、狂おしいほど愛してよ。」
「それができないんだったら、ここで私を置いていって。」
「私を、ここに置いていってよ。」
苦しみの声だ。
涙が絡んだ音だ。
けれども、マオは決して涙を流さなかった。
カイトの孤独を、マオは埋めてくれている。
けれども、マオはいまだ孤独のままだった。自分は、彼女の本当の孤独に気付いていなかった。自分が孤独にさせていたなんて、そんなことにも、気付けなかった。
カイトは、自分を恥じた。
彼女を生涯掛けて守っていこう、あの誓いは浅はかなものだったんだ。
そしてマオに、心から深く詫びた。
「君を、置いていけるわけがないよ――。」
辺りはゆっくりと宵闇へと変化していく。
カイトは、マオを、心の瞳でしっかりと見つめた。
自分は、目の前の少女に恋をしてもいいんだ。
惹かれないわけがない。
月の光に照らされる美しい身体のラインに、煽情を抱かずになどいられない。だって、それほど愛おしいのだ。
マオは、十七歳の少女。
今ここに立っている生身のマオを、今の自分が見つめよう。
マオが確かに存在しているということを、自身の戸惑いすらも受容し、この頼りなき少女の苦しみを世界に証言しよう。
マオは確りとカイトを見ている。
(ああ、君は生きている。その肌も髪も唇も、全てが、息をしている。僕を惑わす美しい人――。)
互いに互いを知らな過ぎる肉体が二つ。
知りたければ、触れあえばいい。
そうすれば、ここには、女と男がただ、在るだけだった。
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