第15話消える
カシャン――。
網の扉は簡単に開いた。
足元にはいくつもの小さな水溜りが落ちていて、月明かりを頼りに、それらを踏まないように、そして極力音を立てないよう、慎重に歩いた。
夜中の校舎への潜入は簡単にはいきそうもなかった。
警備員がなかなか玄関から離れず、職員室も煌煌と電気が付いていたため、このまま忍び込むことはリスクがあまりにも高いという結論に至ったのだ。
けれどもマオは本当に参考書を忘れたようで、真っ向から警備員へ事情を話し、警備員同伴の元、校舎に入ることが許された。
カナタはというと、生徒でもない身分のため、結局外で待機することにした。
夜の学校というのは、昼の学校とは別の顔を持っている。いくつもある窓は真っ黒なのに、職員室だけが行燈みたいに明るい。
あそこに、父はまだいるのだ。父は、気味悪くないのだろうか。
マオは、意外にすぐに戻ってきた。
「やっぱり、テスト期間はいつもより警備が厳重みたい。校舎にいる間ずっと監視付きでイヤな気分でした。」
マオがまた、悪戯っ子の瞳で言った。
「確かにな……試験問題の答案とか、流出するといけないからな」
「でも私は、そんなつもりさらさらない。カンニングしなくてもだいたいは頭に入るんでって、警備のおじさんに嫌味言ってやった。」
「俺だったら、きっと見た目で中に入れてもらえないと思うけどね。」
マオは笑って、それからある提案を持ちかけた。
「ねえ、カナタさん、校舎は諦めて、プールへ行かない?」
「ああ、あそこなら確かに、誰も来ないな、」
「足を浸す程度なら、いいでしょう。結構歩いて暑いんだもの。」
学校の敷地内にはグラウンドが数面、分かれて在る。
プールは少し歩いた、小高い丘の上だ。数分だからと、車は置いて歩いていった。
こちら側は、警備は手薄で、夜勤の交代時に一度だけ見回りに来るくらいだとマナは言った。
それにしても、マナはどうしてこんなことに詳しいのだろうか。
今まで何度も校内に侵入したことがあって熟知しているように思える。
(まったく、つくづく分からない子だな。)
プールへは、思っていた以上に早くに着いた。
低いフェンスを越え、入っていく。
夏の間、プールの水は清掃時以外は張っており、水面は穏やかな風に揺れていた。波打つ様がきれいだ。
足元の小さな水溜まりを、マオは器用に避けていく。カナタはというと、暗くてよく見えない上、月に照らされた水面に見惚れているうちに、一度、ぴちゃんと大きいのを踏んでしまった。
スニーカーはいい具合に濡れ、そうなってしまえば一度も二度も関係なく、結局、あまり気にせずにどんどん歩いた。
足取りが軽いマオのスカートが揺れている。
(この子は、本当に、不思議だ――。)
会って間もないはずなのに、もう簡単に打ち解けている。
向こうが全くの無邪気さで接してくるからだろうか。それも、夜の学校に来てからますます奔放だ。
朝のマオに抱いた印象からは想像もつかないような話し方、表情の作り方、身振りもそうだ。
少なくとも、カナタの接し方は変わっていないつもりである。ただ、共通の秘密を共有する者という意識が、今だけでもマオを特別の存在としてカナタに感じさせていた。
マオは、ここへ来て完全にカナタへの遠慮を解放したようだ。
まるで同級生と戯れるように、突然プール際にしゃがんで、水を一掬いし、こちらへぴしゃぴしゃ、と飛ばして笑っている。
マオは、いろんな顔を持っている。
この歳の女の子は、そうなのだろうか。
カナタは、自分にはもう、とうの昔に過ぎ去ってしまったあの時代を、この空間では取り戻せるような、不思議な気持ちになった。
今日だけは、バカみたいなことをしても許されるだろうか――。
「何だかえらく元気だね、君は、」
「そう、こういう私も本当の私。先生の息子さんに会えるって聞いて、緊張しちゃって。ちょっと猫被ってたかも。」
「最近の子にしては、大人しくて礼儀正しくて、料理も上手だし、確りしているな――そう思ってたんだけどな。」
「私ね、いつもそうやって周りから言われるんです。別にいいけどね。こう見えて友達もたくさんいるし。」
「彼氏とかは、居ないの?」
「それは――ね。」
マオは、しゃがんだ姿勢のまましばらく黙って水面を見ていた。
それから少し経ってこちらを見、
「立つのに手を貸してくれたら教える」
と、カナタへ手を伸ばして言った。
何だか、完全にマオのペースに嵌っている気がする。
「甘えるなよ」
と言い、カナタはその手を取らなかった。
「この手には乗らないかー、じゃあ強行手段といきますね。」
突然、マオの白い手がカナタの肘を引っ張り、途端にバランスを崩し、二人して水面へと落ちた。
バッシャーン!!
結構、凄い音がした。しかし、これくらいの音は校舎の方には絶対に届かない。
「おい、」
胸元まで水に浸かりながら、カナタは大人の対応で静かに諌めた。
その凄みも、マナな笑い声に掻き消されていく。
「私のことずいぶん買い被りすぎだから、違うよーって、わかってほしくて。なんとなく、勢いで。」
確信犯のマオは落下しても水中にすとん、と着地したが、カナタはというと、肩から飛び込んだため、一度全身が水面下まで潜って、浮いてくるまでに時差があった。
鼻から水が入り、まだ嫌な頭痛に苦しめられている。
「信じられない、これだから若い奴は――」
言いながら、オヤジ臭いなと感じた。
「後のことを考えないんだから、本当。濡れたまま、帰るのか。」
「少し絞ったら、歩いてるうちに乾くんじゃないでしょうか?幸いに今日は車じゃないんだし。それより、カナタさん、さっきからそうやって首をぶるっとさせる仕草――まるで犬みたい。」
「なんかいろんな穴に水が入った感じで気持ち悪いんだよ。塩素くさいし、最悪だよ。」
心拍数が上がっている。
散々笑った後、少し、沈黙になった。
月だけが頼りの暗闇では、お互いがどんな表情をしているのか、不確かだ。
「ねえ、カナタさん、」
「怒った?」
「ねえってば――」
別に怒っているわけではない。
もうこんなガキみたいなことに付き合うのは、そろそろ終わりにしよう。それでも少しは楽しめた。休暇の最後の思い出としては、都会の友人たちに羨ましがられるだろう。
カナタはマオに背を向け、黙ってプール際へと歩き始めた。
水を、全身で、漕ぐ音だけが響く。恰好良く歩きたいが、水の抵抗でどうにも上手くいかない。
音はいまだに一つだ――マオは、後ろを追ってこない。
「雨のせいにしちゃいましょう。」
「え、」
やっとカイトが振り返る。
すると突然、まるでマナに従うように雨が、降ってきた。
ぽっぽっぽっ……ザーッ。
雨は一気に強くなり、水面一体を賑わせた。
月は雨雲に隠れ、辺りは暗闇に包まれた。
カナタは、マナの近くで彼女のどこかに触れていないと見失いそうで不安になった。
今、目の前にいるこの少女と、少女を包むこの世界の全てが不可思議だ。
マオは、少し速足でカナタの元へ寄って来て言った。
「傘を持っていない二人だもの、この雨の中歩いていたら、どっちみち、こうなっちゃうよ。」
雨はこの間もずっと勢い良く二人を打ち付ける。
大粒の、霰のように、水の塊が目で見える。雨音で、近づいても声がよく聞き取れない。二人がプールに落ちたことも、二人がここにいたことも、今夜の雨は流してくれるだろう。
今だって、この濃い霧に包まれて、誰も二人を見ることはできないだろう。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい。」
次第に目が暗闇と雨粒に順応し始めた。
マオの綺麗に切り揃えられた前髪は、雨に濡れ、いくつかの束になって額に付き、そこから止め処なく雫が眉に一旦掛かり、鼻を伝って首筋へと垂れていく。
それは本当に止め処なく、やがて雫の線は胸の隙間で合流して落ちてゆく。
その様は、カナタを扇情させるのに十分だった。
真っ白い肌に、制服がくっ付いている。
薄らと露わになった身体の輪郭は、震えているのだろうか。
「水って良いですよね。汚いものを全部、きれいに洗い流してくれてるみたい――。」
マオが口を開いた。
カナタにはマオの言葉の意図が掴めなかった。
「ねぇ、カナタさんにお願い聞いてほしい。」
「何?」
カナタは、冷静でいようとするほど無愛想である。その態度を、マナはさして気にしていない風だった。
「簡単なゲームだと思って――これからね、私、勝手に話すから、聞いていて、ときどき応えて。恥ずかしがらないで。短い演技よ。」
「私、どうしても死ぬ前に一度、ここでしたかったことがあるの。これからここで起きることは、忘れてしまっても構わないから――ちょっとだけ、付き合って。」
そう言って、マオは一度目を閉じた。
カナタはまだ承諾していなかった。
「カナタさん、今だけ、あなたのことをカイトって呼ばせてね。あなたは別にいつも通りでいいわ。」
「え……カイト?親父?なんで?」
「真実は、私がまだ存在するなら、後から話すわ。」
硬く閉じた瞳がゆっくりと開かれた途端、否応なしに二人の舞台は幕を切った。
「ねえ、カイト。私、本当は貴方に言わずにいようって思っていたことだけど、私はそんな大人じゃないから、貴方とは違うから――本当は、全部ぶちまけたい。私、あのとき本当に恐くて心細くて、何度も心の中でカイトのことを呼んだのに、カイトは助けに来てくれなかった。」
「あのときって――?」
「それから、カイトに聞いてみたかったことがある。カイトは私じゃない誰かと結婚を決めたときって、どんな気持ちだったの。私のことは、いつ、ふっ切った?」
「――ふっ切ってない。本当はずっとふっ切れてなかったんだ。」
「私がまた現れて、正直どう思ってるの――今更現れて、迷惑?」
「……。」
「私は汚いから、あなたが今、孤独なのが嬉しかった。あなたは無償で私に居場所をくれたのにね。」
「……君は、いま俺にどうしてほしいの。混乱してんだ、はっきり言ってくれ。」
カナタは、マオがどうして父をカイトと呼ぶのかも、まるで父の恋人だったような口ぶりも、理由はまったくわからない。
けれど、目の前で泣きじゃくるまるで子どものマオの、感情に巻き込まれ、この瞬間、カナタとカイトの狭間を行き来していた。
「私は、本当はカイトとずっと一緒に居たかった。卒業して、就職して、楽しいことも哀しいことも一緒に乗り越えて成長していきたかった。」
「じゃあ、どうして、そうしてくれなかったんだ。俺は――いつだってどこか哀しかった。愛情を心の底で信用し切れないのは、きっと君のせいだ。」
そうだ、カナタは、今までどこか淋しくて、哀しかったのだ。
愛され方が分からない――愛されたいのに、愛される愛し方が分からない。不確かなこの気持ちは、誰すらも責めることもできずに、今でもカナタの心の海を彷徨っている。
静かだ。
雨はいつの間にか穏やかになっていた。
雨とは、こんなに静かに水面を打つものなのか。
「私は、焦っているの。だから、今日だけでもいい。あなたにカイトになってほしかった。」
「私、これからいろんな罪で地獄に堕ちるわ、きっと。――カイトを先生なんて呼ぶ大嘘吐きだし、」
マオが、少し、笑っている。
「親父を、好きなのか?」
マオは、カナタの胸に自分の頭をくっ付けて、
「ありがとうカナタさん――。」
と言った。
短い、映画のワンシーンは終わったみたいだ。
それから、続けてマオは言った。
「私の身体、まだドキドキできる――あの頃のカイトに、また会えたような気持ち。」
(あの頃のカイト……?)
マナは一体どこから、何のために、父の元へ来たのか。彼女は一体何者なのか。
カナタはそのとき、自分でもどうしてかは分からなかったが、この得体の知れぬ亡霊をこちらへ引き寄せ、口づけをした。
そんなに長い時間ではなかったように思う。マオは、唇が触れた瞬間、身体を強張らせたが、そのまま抵抗はしなかった。
二人の身体は、いつのまにか水みたいに繋がって境界線を失っていた。
雨は絶えず静かに降り注いでいる。
「あ、ごめん。」
我に返った。カナタはマオの唇を離した。
俯くマオが呟く。
「あの時と同じ。」
「え、」
二人の身体は完全に離れた。
「あの時も、こうやって初めてのキスをしたの。」
「それは、後ろめたさなんて少しもなくて、すごく自然のことだった。」
「俺は最初、俺の親父と君のお母さんが恋人だったんだと思ったんだけど、……君の口ぶりだと、君って親父と付き合ってるの?」
マオは笑った。
「カナタさんには、言わなくちゃなあ。私ね、もうすぐここにいられなくなると思う。」
「どうして、」
「ねえ、これ、見て――。」
マオは、カナタの目の前に、左手の指先を翳した。
いま気づいたが、小指の先には、絆創膏が巻かれている。
「どうしたの、ケガでもしたの?」
「そうじゃないの――。」
マオは、上からすぽっと、絆創膏を外してカナタの目の前に示した。
「壊れかけているの、わたし。」
暗闇だったからよくは分からなかったが、想像していた血潮や皮膚の色は見えず、切り口は真っ暗だった。この宵よりも遙かにもっともっと深い宇宙が広がっていたような。
「種明かしをしなくちゃね。カナタさんのお父さんの従妹の名前は、伊坂マナ。私が伊坂マナ本人。」
「え?」
「信じられないかもしれないけど、私はもう何十年も前に死んだの……たぶん。魔法の粉の噂、知ってる?あの犠牲者が私なの。」
「私の身体に何が起きているかは正直わからない。私は一度消えたのに、なぜかまた現れて……また消えるみたい。私、自分が消えてなくなることは、そんなに恐れていないの、恐いけれど。でも、カイトを置いていくことが、とっても辛い。」
「カイトは、また私のせいで哀しくなるのね――さっきね、もう時間がないから、校舎に入ったとき、もしかしたらカイトに会えたらいいなって思ったんだけど――最後にカイトの顔をやっぱり見たいなって思ったんだけど、いなかった。残念だなあ、すごく残念。ねえ、カナタさん。カナタさんは、世界の果てってどんなものだと思う、」
カナタは、返答ができなかった。
マオは続ける。
「信じてくれなくてもいいよ。でも、付き合ってくれて本当にありがとう。」
マオは、カナタの手を掴み、自分の首筋へ誘導して言った。
「カナタさん、貴方のお母さんを壊してしまった私が憎い?」
握る力が意外にも強く、マオの爪がカナタの指にゆっくり食い込み少し痛い。
「それでも、今ここで私を人として殺してはくれないよね。」
カナタは少し顔を歪めるだけで、答えられなかった。
手はすぐに解放された。
「そんな図々しいお願いまでは、できないね。カナタさんに会えてよかった。おじさんじゃないカイトの大人版と一緒に居られた感じで、楽しかった。」
マオは少し、笑って話し続ける。
「すごく、どきどきした。」
通り雨は、すっかり止んでいた。
マオはカナタの頬にそっと触れ、懐かしいような眼差しで撫でた頬のラインを目で追っていた。
これは、夢だろうか。
「お父さんは、あなたとあなたのお母さんを愛していたよ。私は思い出にしか入り込む隙間がなかった。この世界に私の居場所はないの。私が消えた後は、カナタさんがお父さんを愛してね。」
マオは、笑った。
そして、最後に言った。
「さようなら。」
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