第70話 渡辺とワンワン
冷たいアスファルトの上で再び四つん馬になり、渡辺は味噌を塗って陣地を広げるという地味な作業を再開した。
ここからは左官職人と犬の戦いではない。犬になれなかった人間と犬との一騎打ちだ。
朝の寒さは膝に堪えた。老人でなくても、寒さが膝にきた。なぜなら、渡辺は全裸だからだ。
「全裸じゃない、犬だ!」
と、窓の向こうから電柱に味噌を塗る渡辺に文句を言う近所住民に渡辺も言い返す。どっちが悪者だか分からなくなってきた。
さらに方々の家から「やだわぁ、味噌塗って。何考えてるの!」という胸を刺す、まだまだ若い男性に興味がある奥様方の文句が聞こえてきた。
たった一人の全裸の若者が四つん場で街を歩いただけで、この罵倒の嵐。
渡辺もある程度リスクを背負ってこの戦いに挑んでいるのだ。警察にも、この辺の頑張ってますアピールを評価して欲しいと思う渡辺であった。
そして、住宅街のエリザベスちゃんの縄張りエリアへと入って来た。足を踏み入れた瞬間、あのワルモン特有の異様な殺気がした。そして、確かに良い匂いだ。
エリザベスちゃんの縄張り内に住んでいる手下の犬どもは、渡辺達を見るや「入って来んじゃねぇよ! この糞人間ども!」とギャンギャン吠えて来た。一つの区画の道に最低でも二匹の見張り犬がいる。
ゴミが群れになりやがって。と、みかん組を率いている群れの最たる男が文句を言った。
渡辺も負けじと「糞はお互い様だろ! ブリ! ぶり!」と「わん! わん!」と吠え返した。すでに犬なっていた。
電撃町の半分は既にエリザベスちゃんの領土である。オセロで言えば、この辺は殆んどエリザベスちゃんの「白(糞)」によって占領されたという事だ。渡辺が攻め込むには、まず空いた電柱に渡辺の「黒(味噌)」を置いて、領土の外側の電柱からエリザベスちゃんのウンコを挟み込んでいくしかない。
「竜二、とりあえず開いている電柱を探せ!」
「ガッテンだぜ!」
三人は、エリア内で味噌を塗れる電柱を探した。それがなければ話にならない。いい匂いに混じって、どうやら電柱にはダミーで手下の犬の糞も落ちている様だ。
「とにかく、匂いで見分けるぞ。臭い糞は取り除いて、渡辺が味噌を塗るんだ!」
蓬田から指示が飛ぶ。だが「ギャン! ギャン! ギャン!」と見張りの犬どもが渡辺らの行手を阻むように電柱を守っている。これでは、渡辺達、近づく事すら出来ない。
渡辺も「ワン! わん! わん!」と吠え返すが。付け焼き刃の犬の声に五秒で喉が痛くなって、咳き込んだ。
渡辺は口には出さなかったが、蓬田のつけてくれた首輪がキツくて、苦しかったのだ。
「よ、蓬田、無理だぜ!」
「さっき、渡辺の靴下を渡しだろ! それを犬に嗅がせろ!」
竜二は「あ、あれか」と思い出し、リーゼントから靴下を取り出して、吠えている犬に嗅がせた。すると、犬達は「きゃいん! きゃいん!」と突然怯えて、道の隅っこに膝まづいてしまった。
それは一昨日、渡辺がエリザベスちゃんに噛まれたときに履いていた、エリザベスちゃんの唾液付きの靴下であった。
「その靴下についてるのは、こいつらの親分の匂いだ。その靴下の匂いに犬たちは逆らえねぇんだよ」
さすが動物王蓬田。頭脳プレーだ。
「よっしゃ、これがあれば怖いモノなしだぜ!」
それからは、噛み付いてきそうな犬が現れたら「竜二!」と呼び、竜二が「はいだぜ!」と立ち膝で犬に靴下の匂いを嗅がせる。このコンビネーションであった。
そして道の先に、ついにエリザベスちゃんのウンコが無い電柱を発見した渡辺達。
「あったぜ、渡辺」
「キャイーン!」
渡辺は吠えながら立ち上がり、犬から左官屋の職人へとシフトチェンジした。そして、電柱の前でたち膝をつき、ヘラで壺の中をかき回し、ウンコになる味噌を塗りたくった。
一本グソでは無く、直に味噌を電柱に塗りたくる為、どうしても壁に糞をぶちまけた様な荒々しい雰囲気のウンコになってしまう。
「なんかバズーカー砲からうんこを発射したみたいだな」
と、渡辺は己が塗った作品を見て思った。
「もっと、床の間に置けるような、上品なウンコを置いていきたいんだが……」
渡辺はイメージと違う己のウンコを見て「くーんくーん だわん」と考え込んでしまったが、蓬田から「そういう感じになってしまうのはしょうがない事だ。ここは勝負を優先しよう」と励まされ「わん!」と元気に吠えた。
蓬田は立派な渡辺の飼い主になっていた。
「よし、テリトリー内にウンコを一つ入れた! 次はこのウンコを挟み込むぞ!」
アフリカオセロチワワのオセロには斜めルールは無い。縦と横だけの直線しかないオセロだ。
渡辺達はすぐに来た道を走って戻り、外からエリザベスちゃんのウンコを挟む事にした。ウンコを一個置いただけで、この希望。一瞬で勝機が見えてきた。
「へっへっへっへ」
犬の渡辺も嬉しそうに舌を出し、来た道を走り出した。
が、蓬田たちと走る方向が逆だった為、蓬田の持っていた紐と連結していた首輪がグイッと渡辺の首にめり込んで、その場に倒れた。あまりの苦しさに「おぇ」とマジで餌付く渡辺。これが犬の厳しさ。
道の隅で小さく嗚咽している全裸の渡辺を見て、蓬田は真剣に「悪い」と思った。
「よし! 気を取り直して行くぞ!」
蓬田の掛け声で、三人は改めて来た道を戻り始めた。
すると、電柱を奪われた事を知った辺りの犬達が一斉に渡辺達の元へと集まって来て、あっと言う間に囲まれてしまった。
ざっと十匹はいる犬。
「ワンワン!」
渡辺も頑張って吠えるが、本家の犬には全く通用しない。なぜなら、渡辺の吠え方は犬語で「笑ってこらえて予約しておいて」と翻訳され、犬からしたら何を言ってるのかさっぱり分からなかったのだ。
「ワンワン!」
そうとは知らず、渡辺は頑張って吠える。笑ってこらえて! 笑ってこらえて! 予約! 予約!
「竜二、靴下だ! 渡辺の」「わん!」
「おっしゃ!」
竜二が靴下を取り出すと、犬達は怯え後ろへ一歩引いた。この靴下がある以上、コイツ等は竜二に歯向えないのだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおお」
竜二が進行方向の犬目掛けて、靴下片手に突っ込んで行った。が、その時だった。群れの中にいた一匹の犬が突然、竜二の持つ靴下目掛けて飛びついてきた。
「きゃいいいいいいいいん!」
そして勇気ある犬は、大きく口を開き、竜二が持っていた靴下を口の中に頬張った。
渡辺、蓬田、竜二は、一匹の犬の勇気ある行動に目を疑った。
「ああ! 俺の靴下が! 七本しかないのに!」
渡辺は犬である事を忘れて、思わず声を出してしまう。何で奇数なんだと、蓬田は思った。
絶対であった靴下は、一人の犬の勇敢な行動によって失ってしまった。勇気のある犬は渡辺の靴下を口いっぱいに含んで泡を吹いて倒れた。
「わんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん!」
その場にいた犬達は一斉にその犬の死を嘆いた。
渡辺の目にも青空に浮かぶ、笑顔で親指を立てている勇気ある犬の姿が見えた。
「俺の靴下ってそんなに臭いのか」と渡辺は心に大きな傷を負い、空の犬に「俺も被害者だから呪うなよ」と心の中で呟いた。
ともあれ、絶対の武器を失い、犬たちに周りを囲まれた渡辺達。逃げ場がない。
「玉ねぎ! 玉ねぎ!」と蓬田が吠える。
「どういう意味?」と渡辺が聞く。
「犬は玉ねぎが苦手なんだ」と蓬田は言った。
「……で?」
それ以上は、蓬田は何にも言ってくれなかった。顔が赤かった。
幸い渡辺達の背には自分達の領土を意味する味噌を塗った電柱があった。
「渡辺、電柱を上って、電線を移動しよう」
蓬田の提案に渡辺は「わん」と頷き、電柱を登り始めた。が、犬達もオメオメとそれを許してはくれない。電柱にしがみ付いた三人の尻に思いっきり噛み付き出したのだ。
「味噌! 味噌を塗っただろ! おい! ルール守れや!」
渡辺は尻を噛まれながらルール違反を叫んだ。もう、犬を演じている余裕はない。尻に犬の歯が食い込んで、人間すら危うい状態だ。
「お前らのリーダーが作ったルールだろ!」
渡辺が叫ぶが犬は聞く耳を持たなず、ケツを噛んで来る。敵のルールに従ってたのに、敵がルールを破りやがって。渡辺からしたら「やってられるか、こんな事!」と言う感じだ。
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