第8話 渡辺と押し花

「渡辺、これを見よ」


 玉男が指を刺した方を見ると、花壇から生えた花の一部が、フェンスの網目から道路にはみ出していた。

そして、そのはみ出した花がいくつも千切られていたのだ。その花は渡辺も「欲しい」と思ったほどの、いい女だった。フェンスの外に出てきたからといって、園児達の花を取るとは、汚い野郎がいたものだ。

「それで泣いてたのかぁ」と渡辺はしっくりきた。


「渡辺、お前ならこのお花を取る為、どういうワルをする?」


 玉男はいきなりお題を出してきた。

しかし、渡辺はお題よりも玉男が「お花」って言った事が気に入らなかった。いい歳のジジィが「お」を付けるな「お」を。


「花に水をやって、フェンスを越えるまで育てる」

「……他は?」

「あと、園長に土下座する。って、ワル」

「それはワルじゃないだろ」


 玉男に注意される。


「じゃあ、花屋で買うってワル」


 ワルでもなんでも無かった。


「じゃあ、これを無理矢理フェンスの外に引っ張って、お花を千切るのはどうだ?」


 渡辺は、玉男の問いに、暫く考えてから首を横に振った。


「そんなのワルでもなんでも無い。卑怯者のやることだ」

「ふむ。だが、水をあげて外に出るのを待つのと大して変わらないと思うが?」

「無理やり千切ったら、被害者が真実を知ったときに悲しむだろ。その情緒がわからない奴を俺は許さんぞ」


 渡辺は、玉男が持っていた花の茎を見た。よく見ると中から不自然にしなった状態でフェンスから出ており、茎に切れ目が入ってしまっている。


「ひどいわ」


 渡辺はお花のその変わり果てた姿にショックを受けた。思わず、京都の水商売の女のような口調になった。


「誰がやったんだ、こんなお花が泣くようなことを!」


 渡辺も花に「お」をつけてしまった。

 玉男に言われたが、「俺はいいの」と即答した。わがまま。


「それをやったヤツに合わせてやる。ついてこい」

「ワルモンか!」

「……それになりかけているヤツだ。今のお前にちょうどいい相手だ」


 渡辺が連れて来られたのは『お花部屋』という相撲部屋であった。さっきの幼稚園からあまり離れていない。

 玉男は何も言わず中へ入って行ったが、渡辺は本当に入っていいのかと躊躇した。


「何をしてる、早くこい!」


 渡辺は恐る恐る門を潜ろうとした。すると、庭の掃除をしていた力士がやって来た。


「何してる、勝手に入るな!」


 掃除をしていた力士に怒られ、渡辺は「ほら見ろ」と思った。馬鹿な男だ、玉男。


「あ、すいません。ワシです」


 と、玉男はその力士に向け、申し訳なさそうに覆面を半分だけ上にズラし、自分の顔を見せた。

 玉男の顔を見た力士は、さっきまで怪訝な顔をしていたのを一編させ、完全に他人のウンコを見るような表情に変わった。


「……あぁ、お前か。何か用かよ」


 力士は玉男の事を知っているようだ。


「すいません、ちょっと用事で……」

「とっと済んだら出てけよ。ゴミ野郎」

「はい、ありがとうございます!」


 力士はムッとしたままその場を去って行った。

 その三下らしきに力士に対しても玉男が姿が見えなくなるまで、ずっと頭を下げ「すいません、すいません」と言い続けていた。

 過去に何があったんだ? 渡辺の関心は、ワルモンから微妙にそっちへとシフトし出した。


 相撲部屋の中に入っても、玉男は稽古場へ辿り着くまでに何十回もすれ違う力士、女将さん、故人の遺影に頭を下げ、ときには「どの面下げて来たんだ!」と渡辺とそんなに年の変わらない弟子に罵声を浴びせられていた。

 なのに玉男は言い返すこともせず、「すいません」と謝り続けるだけなのであった。途中から渡辺も謝罪に加勢し、一人では許してもらえなくても、二人で謝れば反省は二倍だ。何とか稽古場まで辿り着く事ができた。


「ついたぞ。ここがお前の試験場所だ」


 玉男が渡辺にそう言ったが、半分ぐらい「そんな事どうでもいい」という気分になっていた渡辺であった。


「ここが最終試験場」


 気持ちを切り替え、渡辺は改めて、その場を見渡した。

 そこは力士達の戦場。土俵。

 明日の横綱を目指し、日々、ライバルたちとその豊満に弄んだオッぱだかのボディーをぶつけ合う。そんな肉太鼓、ペチン、ペチン! あふん!


「おい!」


 渡辺達の方に、稽古中の力士がやって来た。声が明らかにケンカ腰だ。

 その声と同時に、横にいた玉男が渡辺の後ろにサッと隠れた。どうやら本丸のお出ましのようだ。


「玉男! 親方が呼んでるよ、とっとと行け!」

「へ、へぃ」


 玉男は三下みたいな声で返事をして、こっちを睨み付けている親方の方へ向かった。遠くからでもわかる、玉男に殺意を持っている事が。

 玉男が腰を低くして、弱々しく親方に近づいていく。これから食われる獲物にしか見えない力の無さだ。公園の威勢はどこへやら。


「俺はあんな奴から、何を教わろうとしているだ?」と渡辺はその小さい背中を見て、情けなく思った。


「おい。学ラン。どけよ、邪魔だよ、テメェ」


 突然、後ろから声をかけられ、渡辺は咄嗟に横に体をずらして、「なんてお口の悪い奴だ」と、ソイツの顔を見た。

 目つきも良くない、他の力士はすでに稽古をしているのにダラダラと謝りもせずに、稽古場を歩いている。相撲への態度が全くなって無い奴だ。

 なんだ、こいつ。


「あ、お花山さん、おはようございます!」

「なに?」


 稽古をしていた力士達が一斉に渡辺の横を通り過ぎたお花山に挨拶をして行った。

 渡辺はその態度の悪い力士の顔を改めて眺め、「本当だ。お花山だ!」と思わず声が出てしまった。

 お花山は、渡辺も密かに応援しているスター力士なのだ。

 渡辺は最初こそお花山を、ただのテーピングがだらしない力士程度にしか思っていなかったが、趣味が押し花だと聞いてから親近感が湧き、それからずっと応援しているのである。

 いきなり来たお花山が、いきなりぶつかり稽古を始めた。相変わらず足に貼ったテーピングが汚れているが、強い。バッタバッタと他の力士を倒していく。


「次!」

 ゴロン!

「次!」

 ゴロン!

「次!」

 ゴロン。


 すげー。


 一方、玉男は。

 畳の上で胡坐をかいている親方に罵倒され、一段下の土で土下座をしていた。大岡越前に罪を裁かれている悪党の様なみすぼらしさだ。


「死ねっ!」

「ありがとうございます!」


 死ねって言われたのに、玉男はお礼を言って、こっちに戻ってくる。覆面の上からでも精神がボロボロなのが解るほど疲れきって戻ってきた。

「死んだ方がマシだな」と渡辺は思った。


「渡辺」

「は?」


 話しかけんなよ、クズ。


「何か感じんか? この稽古場?」


 ゴミにそう言われ、渡辺は辺りを見渡した。

 確かに稽古中の力士達がワンサカしている割には、部屋にたちこめる湯気が少ないかもしれないが、朝稽古じゃないからこんなもんだろう。汗臭過ぎて、部屋の隅に置かれた消臭剤が目で見える速度でみるみる小さくなって行く。スモールライトを当てた様なすごいスピードだ。

「すげぇ!」と渡辺はその臭さに感動した。「良いもんを見た」と渡辺は思った。よっぽど臭いんだろうな、この部屋。

 と、言ってる側から女将さんが新しい消臭剤に代えに来た。


「だろ?」


 渡辺は消臭剤を指差して、玉男に聞いた。だろ?


「そう言う事じゃ無い。人じゃ、人を見ろ」


 違った。

 渡辺は、気持ちを改めた。ぶつかり稽古をしている力士を見た。

「『あぁん!』って悶えない事か?」

と渡辺は聞くと、「あんまり悶えないらしいぞ、表向きは」と玉男に嗜まれた。ほぅ。


「じゃなくて、何か感じんか?」


 土俵に目をやると、お花山がまた練習相手の力士を投げ飛ばした。もう十人目だ。あと一人でサッカーができるぞ。


「んだよ、練習になんねぇよ! さっさとドケよ、雑魚!」


 お花山は倒れた弟弟子の頭をカカトで蹴り飛ばした。弟弟子は「すいません」と言いながら、小走りで土俵の外に出た。乳が揺れた。

 渡辺はお花山の傲慢な態度を見て「テレビとは違うなぁ」と思った。

 テレビのお花山は、田舎から出て来てすぐの様なタドタドしい笑顔と『お茶漬けが美味いんです』ってセリフが似合いそうな惚けた口調で喋っているのに。

 それがどうだろう? 今日は目付きも悪いし、言葉も汚い。背中の毛も、汗で濡れてタコの足みたいになっている。テーピングはいつもどおり汚い。

渡辺は、弟弟子をチラッと見た。まだ乳が揺れている。

 それ以上に渡辺が気になったのは、お花山からだけ、違和感を感じる事であった。アスリートが練習を控えるときに感じる筋肉の違和感のような、なんかそんな違和感だ。

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