第2話 渡辺と仮面夫婦

 朝。

 渡辺は毎日一番に幼稚園にやって来る。一番こそが渡辺に相応しい数字である。そして座る席は教室の窓際の一番後ろの席。リーダー渡辺の特等席だ。ワルのエリート、基本的に高校生しか居ないが、作りは基本的に幼稚園なので、六人で一つのテーブルを使う。

 誰もいない静かな幼稚園、渡辺は今日も椅子をガクンガクンさせながら「今日はどんなワルをしようか」と夢想にふける。あんなワルも良いな。こんなワルもいいな。できたらいいな。


 ガラガラガラ。


「あ、渡辺さん、はようございます!」


 みかん組の園児、つまり渡辺の手下達が数人、教室に入ってきた。みかん組の園児達は、朝来たら渡辺に昨日したワルを報告するという日課がある。『ウサギの餌を盗んだ』など、園児が言うワル一つ一つに渡辺が採点を下し「もっとこうしよう」というアドバイスを書いて帰りにプリントで配る。手下の育成もリーダーとしての日課だ。

 その日、最初に渡辺の元にやって来た園児は斉藤という新入りであった。


「昨日は近所の家の風呂を覗きました」


 ほぅ。


 渡辺は斉藤のワルをメモに書き、頭の中で再現する。あらゆるワルに精通している渡辺にイメージできないワルなどない。


 誰がお風呂に入っていたのかを聞くと「お爺ちゃんでした!」と斎藤は答えた。


 ジジィか。


 近所の家のブロック塀を上り、湯気がタワタワ出ている窓が見える。その向こうからはジジィの鼻歌が聞こえる。細川たかし。渡辺は『冬のリビエラ』を妄想のジジィとハモりながら、五センチくらい開いている窓からソーッとジジィの風呂を覗く。

 齢八十を超えた国男の社会と女どもに吸い尽くされ、みすぼらしくなった背中が見えた。肩からタオルを掛ける様に貼られた湿布。そこにシャワーの水が当たる度にペロンと捲れて落ちそうになる。

 渡辺の獲物を狙う目は鋭い。窓の前で天日干ししてある入れ歯を取って口に入れてみる。国男の味がした。国男の匂いがする。もう、春なんだね。


なるほど。哀愁系のワルか。と、渡辺は合点がいった。テーマは入れ歯の味に隠れていた。


 渡辺は瞳から一筋の涙を流し、教室の床にくれてやった。それは国男の人生への手向けである。


 国男の変わり果てた体を見て、斎藤はなにを思ったのか?


「別になのも」


 なっ!


 渡辺はその返答に呆れてしまった。なのも?


「てか、国男って誰ですか?」


 この素っ気ない斎藤の返事に、渡辺はいささかショックを受けた。渡辺はこのワルを通して「エネルギーを吸われた国男のモノ悲しさと、それでも生きて行かねばならない心臓の鼓動の皮肉さ。そして戦後の日本の発展」を感じて欲しかったのだ。

『ワルから何かを学べ』

 渡辺が口を酸っぱくして言ってきた言葉であったが、斎藤の心には届いていなかったのだ。なんも考えずに、ジジィの汚い背中を見て、なにがしたいんだ!


「ワルがルーチンワークだ」


 渡辺が最近感じている事であった。今ではインターネットというモノがあるせいで何でも簡単に調べられるのだという。渡辺はワル一筋で生きて来たせいで、そう言った先端技術には疎かった。


「国男って誰?」と渡辺は斎藤に聞き返した。斎藤は「さぁ」と、その場を去って行った。誰?


 国男は誰も知らなかった。


 渡辺は蓬田と言う『みかん組の頭脳』と呼ばれている男にこの事を尋ねた。蓬田、この男も渡辺のワルに魅せられた男の一人だ。インターネットについて聞いてみた。


「前にも説明しただろ、電話回線を利用して、色んな情報を見る事が出来るんだよ」


 渡辺はその説明を何度聞いても理解できなかった。渡辺は頭もワルなのだ。

 その後、実際に蓬田の家で、実物を見せてもらっても「へその緒とどう違うんだ?」と聞き返して、「お前はもう諦めろ」と渡辺は見離されてしまった。頭が良い奴は冷たかった。「お前、国男って知ってるか?」と聞いてみたが、蓬田も「誰だよ」と知らなかった。


 なるほど。


 その日の手下達の報告して来たワルを見て渡辺は溜息が出た。誰一人として「お、このワル、新しいぞ!」というモノはなかった。

 ワルは芸術だ。理屈ではなく「あぁ、なんかワルいね」という情緒こそが大事なのである。昔の人はいい事をいう。


「もう、自分の知らないワルなんてこの世には無いのではないか?」


 新聞を見ても右から左へ流れて行く、似たようなワルの記事。元々、ワルの宝庫の筈の新聞でこの有様。

 中年の夫婦の冷め切った夜の営み。

毎日、同じようなワルばかり、世の中は何を考えているのだ。ここはワルの聖地、マッドセガール市じゃねぇのか!


 もはや、一流のワルと一流の警察がしのぎを削っていた時代など遠い昔なのかもしれない。

 渡辺が怒りで新聞を破ると、始業のベルが鳴った。すると手下のチクリ野郎から「まだ来ていない園児がいる」という報告を受けた。

遅刻だ。

 遅刻などと言う、ミジンコの毛ほどの悪事をマッドセガール工業幼稚園の園児がしてはいけない。遅刻など、低レベルな犯罪者共にやらせておけばいいのだ。それが渡辺の考えだ。


「何処の誰だ、遅刻をした馬鹿野郎は!」


 これには渡辺もご乱心だ。とっちめてやる!


「竜二さんです!」


 竜二だと?


 竜二。

 ただ、渡辺と小さい頃からの幼馴染で、金魚の糞の様に渡辺の後ろを着いて来て、それで「渡辺」と馴れ馴れしく呼び捨てにするもんだから、周りが「アイツはやるぞ」と勘違いして、みかん組四天王の地位まで来てしまったという。


「竜二と言えど、遅刻したとなったら贔屓はできねぇぞ」


 蓬田が渡辺に釘を刺す。そんな事は解っている。竜二は嫌いだ。

見逃したとなれば「渡辺さんは竜二さんだけは贔屓している」と言う噂が野に放たれ、「渡辺は竜二と同じセーターをよく着ている」とか「渡辺は竜二の星占いまで確認している」とか、尾ひれ背ひれがついてしまうやもしれん。


殺す。


渡辺は重い腰を上げた。


殺す。


「竜二さん、来ます!」


 テレビのADみたいにドアの影で立ち膝をついて竜二を確認する手下の一人。「何だこの手下は」と渡辺は一瞬たじろぎ、「色んな手下がいるなぁ」と感心した。

殺されるとも知らずに、教室のドアが開き、竜二が走りながら入ってきた。

「悪い渡辺、バスが遅れて……あと、電車も遅れて、で、道が渋滞してて」

全く息が切れていない。なんか、一個前の角まで歩いて来た感じの嘘臭さだった。

竜二はその後、言い訳を十個並べて、延々と自己弁護を続けた。

 渡辺はどんどんイライラした。

一言「すみませんでした」とか「笑顔が素敵だね」とか言えば、渡辺も許すのだが、この往生際の悪さだ。

 渡辺が竜二を唯一認めているのが口の上手さだ。コイツの言い訳を聞いていると、嘘だと解っていても、なんか本当な気がしてきてしまうのだ。

 竜二の癖に特技を持っている事が、さらに渡辺をイライラさせた。その日の園児達の代わり映えのしないワルにイライラしていた渡辺は、「こりゃ八つ当たりに丁度良い」と、竜二の胸ぐらをつかんだ。


「いいか、竜二。年頃の女の子はな。彼氏と初めてキスをして遅く家に帰った日に、ママに嘘を付いて、ちょっぴり大人に近づくんだ! そういう甘酸っぱい嘘こそが、ワルと言うもんだろうが! それに比べて、テメェの嘘は何だ! ベラベラと訳のわからん事を並べやがって」


渡辺、声が思わず大きくなってしまった。


「生理に謝れ!」


 竜二は「ごめん」と言った。渡辺は「生理は許すとさ!」と代弁した。だが、俺は許さん!


「なんで、もっと斬新なワルができねぇんだ! 普段、ここで何してんだ! もっと、新しい誰も見た事がないワルをしなきゃいけないだろうがよ!」


 渡辺は思わず殴りそうになった。しかし、竜二如きのために、この拳を使うのは違うと、動きを止めた。

 すると竜二が勝ち誇ったように鼻で笑った。


「渡辺、それは当然だぜ」

「なんだと?」

「前にネットで言ってたぜ。もう、この世に存在する悪事はやりつくされてしまったんだぜ! これからは今までのワルの焼き回しとか、アイデアを変えただけのモノに……」


 渡辺はそこまで聞いて、怒りが頂点になった。


「正論言ってんじゃねぇ!」


 竜二の顔面に強烈な一撃をお見舞いした。

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