セトル・ゴッド・ノウズ 12
一歩、漆黒の竜が踏みしめるごとに、意識が飛んでしまいそうになる。
グレンに進んでいる方向は分からなかった。残りの距離も覚えていなかった。アウルも、ヴォーダンの姿も見えなかった。
しっかりと手綱を握れているのかも、相棒の背に乗っているのかも分からない。身体の感覚は、とうの昔になくなり、骨はとっくに砕けてしまったようで、痛みの限界を超え何も感じなくなっている。呼吸をしているか、どうかも怪しい。
今、どこまで走ったのだろう。あと、どれくらいなのだろう。分からない。
ただ、眼下に黒い影が見えているから。相棒が傍にいてくれていることだけは、分かった。
現実味がない。存在しているかも分からない。夢の中にいるようだ。本当は、とっくに気を失っているのかもしれない。
視界に、ぼやりとグローブが浮かんできた。黒い稲妻が描かれているから、身に付けているものだろう。眼下の黒い影が躍動する度、ふるふると動いている。
ふと、グローブが手綱を放そうとしているのが見えた。足が、あぶみから外れたがっている。失ってしまった感覚の中から、脱力だけが浮き上がってきた。力を入れようにも、その感覚は失われている。
突然、この状況が辛いものだと脳が認識した。身体の痛みが蘇る。息ができなくて、胸を掻きむしりたくなる。今すぐ、楽になりたい。
グローブが、また、浮かんできた。そうか、これを放せばいいのか。そうしたら、楽になれるかもしれない。
『ねぇ、帰ってきたら、なにがしたい?』
帰る。どこへ。自分は、どこへ帰るというのか。
『約束する。絶対、帰ってくる』
約束。誰としたっけ。覚えていない。
いきなり、手綱を引っ張られた。なんだ、と思って顔を上げる。
前を向いた瞬間、ぽつりとシールドに水滴が付いた。雨なんて、降っていただろうか。水滴がやってきた、その先を見つめる。
目を見開いた。そんなことが、あるのか。
水滴は、漆黒の竜から来ていた。青い眼から生じたそれは衝撃に押され、風に流され、グレンまで到達する。
相棒は泣いていた。ハミ部分を強く噛んで堪えようとしながらも、我慢できなかった涙が目尻から溢れていた。グレンは息を呑む。竜が泣くところなんて、初めて見た。
『お願いよ、グレン。ちゃんと帰ってきて』
さっきと同じ声が聞こえる。顔が思い浮かぶ。
そうだ。自分は相棒と駆け抜け、帰るのだ。失わせてはならない。あの悲しみを、他の者に与えてはならない。
グレンは叫んだ。叫びながら力を込めて、しっかりと手綱を握り締めた。
漆黒の首を押し、共に駆ける。あと、何メートルでゴールかは分からない。必死に押す。
自分には大切にしたいものがあって、帰りたい場所もあって、約束もしたのだから。
グレンの視界に、黄金色が飛び込んできた。それは優雅に舞ってグレンたちを追い抜き、顔を向ける。
「ゴルト」
驚愕のまま、呟く。
ジュピターが、驚いた顔で前方を見つめていた。もしかしたら、相棒も同じものを見ているかもしれなかった。
ゴルトは口元を曲げ、挑戦的に青い瞳を輝かせる。追い抜けるものなら、やってみろ。かつての相棒が、勝負を挑んでいる。
「ずいぶん余裕じゃないか。おまえの弟は、速いんだぞ」
グレンは不敵に笑った。
弾き飛ばされないよう、力を入れて踏ん張る。姿勢を正す。ジュピターの動きに合わせて首を押す。手綱で翼の向きを調整して、大平原を疾走する。
ジュピターが地面を抉るごとに、ゴルトへ近づいた。一歩、また近づく。尻尾へ追いついて、後ろ足を過ぎて、胴体を越え、鼻っ面が並び。
ジュピターが豪然と地面を蹴り上げた。漆黒の体躯が、ぐんと伸び、首一つだけゴルトより先へ行く。
急に、決勝線のホログラムが浮かんできた。グレンとジュピターは、ゴールを駆け抜けていた。
ジュピターが飛び上がる。羽ばたいて、減速する。
いつの間にかゴールだった。ヴォーダンは、アウルはどこだろう。どちらが勝ったのだろう。
グレンの意識が遠退く。身体が傾く。ジュピターが慌てて鳴く声が聞こえる。そのまま、漆黒の体躯からずり落ちて。
純白の頭に、身体を支えられていた。
「あ、危なかった」
アウルの声が聞こえる。ヴォーダンが頭でグレンの身体を押し上げ、ジュピターの背に戻す。
「どっちが、勝ったんだ……?」
グレンは、荒い息混じりに問いかけた。アウルはシールドを上げ、緑色の瞳を細める。
「なんだ、聞こえないのか? 仕方ない、ヘルメット取るよ」
アウルは身を一杯に乗り出し、グレンのヘルメットを取った。彼は笑顔で、それを手渡す。
吹き抜ける風が、グレンの髪を揺らしていく。深く呼吸をして、耳を澄ませて。
「ジュピター! グレン! ジュピター! グレン!」
観衆が、自分たちの名を叫んでいるのを聞いた。グレンは唾を呑み込む。
「最後、首一つ、かわされたよ。僕たちも頑張ったんだけどね」
アウルは微笑んで、ヴォーダンの首筋を撫でた。純白の竜は不満げに口元を曲げる。
「おまえに勝ったら、満たされると思っていた。けど、不思議だな。今、とても気分が良いんだ。よく、わかったよ。僕は、強いグレンと大舞台で戦いたかっただけなんだ」
彼は満足そうに笑った。六年前と何一つ変わらない、親友の顔だった。
アウルは手を伸ばして、ジュピターの首を押した。漆黒の竜が観客席へ顔を向け、滑空を始める。
「行ってこいよ! 神竜賞を勝ったのは、おまえたちだ!」
アウルと純白の竜が離れていく。彼は手を振って見送っている。
グアグア、と、ジュピターが上機嫌で鳴いた。
「ああ、そうだな。行こう」
グレンは口元を綻ばせ、青いヘルメットを抱えたまま手綱を握った。
観客席まで近づいて、渦巻くような歓声に突き上げられる。グレンは傷だらけで、上空で姿勢を保つのがやっとだった。けれど、精一杯の力強さで拳を突き上げた。
グレンに合わせ、地上の人々も拳を突き出す。ジュピターが勇猛に吼えれば、人々は喜んで飛び跳ねた。
観衆の中で、一際、熱い視線を感じた。自然とそれを追った目で、見知らぬ少年の顔と出会う。彼は大口を開け、きらきらと音が鳴りそうなほど煌めく瞳で、じっと見つめていた。
グレンは彼だけに微笑み、拳を突き出してみせる。ぱぁっと、少年の表情に花が咲いた。それは幼き日、ショーウィンドウに映り込んでいた、自分の顔に似ていた。
あの日の神竜賞に、何を置いてきてしまったのか思い出せなかった。忘れ物があったような気がしているのに、何を探せばいいのか分からなかった。
グレンは、きっと、ドラゴンライダーとしての誇りを探していたのだ。自分を憧れのまま見つめる幼い瞳に、胸を張って応えられるだけの。相棒と一緒に、自信を持って戦えるだけの。
自分は、やっと、全てを取り戻した。
グレンは観衆に応えながら手綱を操る。ジュピターを降下させて、芝生へ着地させる。
相棒の体から降りて、芝生を踏みしめた。ヘルメットを脇に挟みグローブを外していた視界に、飛び込んできたものがあった。ヘルメットとグローブが芝生を転がる。
「ただいま」
飛び込んできた彼女を思いきり抱きすくめて、グレンは呟く。
「おかえり」
ジュナは涙声で、応えてくれた。
彼女の体温に安心する。ふっと意識が遠くなる。
グレンは心底から息を吐いて、そっと瞼を下ろした。
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