エイブル・リポーター 3

「見て、これ」


 ウォーディ竜舎の事務所にて。パイプ椅子に座る満面笑顔のジュナは、広げた誌面を、同じく椅子に腰かけるグレンへ向けた。


『黒い雷、ハティアを疾走する!』


 誌面にはグレンとジュピターの写真が大々的に載っている。端の方には、新竜戦しんりゅうせんで反則を犯したボレトに対する処分が決まったとあった。


 接触が常にあるとはいえ、ボレトが行ったのは明らかな危険行為である。あれから一ヶ月。ドラゴンレース協会も重く見たようで、二ヶ月の出場停止と罰金を命じたようだ。処分までに時間を要したのは、竜のオーナーである父親の抵抗だろう。


 もう一度、ライダースクールから出直してくれた方が、こちらは安心なのだが。


「ねえ、グレン、ちゃんと見てよ。ジュピターの特集記事よ。しかも、カラ・ポピーさんの!」


 反応を示さなかったせいか、ジュナが顔面へ雑誌を押し付けてきた。冷静に考えれば、見えない、と分かりそうなものだが、今の彼女に話は通じない。


 ジュナは誌面を読んでは笑い、身体をくねらせ、また誌面へ目を落とすという行為を繰り返している。


 好きとは聞いていたが、生真面目な彼女をだらしなくさせるほどの威力があるなんて。何者なんだ、カラ・ポピーとは。


「俺はゴシップ誌からの取材申し込みが絶えないけどな。五年間、なにしてたんですかー、とか」


 グレンは押し付けられた誌面を避け、大げさに不快な表情を形作った。


 ジュピターが鮮烈な勝ち方をすれば、それだけ興味のある者は増える。特にグレンは、一時、世間を騒がせた曰く付きの有名人である。ゴシップネタに困る連中が狙いを定めるのは、必定ひつじょうといえよう。


「そういうのは全部、拒否でいいのよ。やっぱり権威あるドラゴンウォッチャーが一番よね」


 ジュナの顔面は崩れたままで、笑いが止まらない。彼女は雑誌に夢中である。


 ジュピター初勝利のときより喜んでいるのではないか。放って置かれている感じが面白くなくて、グレンは物足りなさを溜め息と一緒に吐き出した。


 七月の第三週。ハティア・レース場で一ヶ月ぶりのレースに臨んだジュピターは、またもや難なく勝った。新竜戦しんりゅうせんの勝利だけであれば偶然もあり得るが、二勝目をあげられる竜は三歳では限られた存在だ。世間の注目度は高い。


 今日は、ジュピターの今後を決める会議だ。そのため、オーナーであるシーラッド夫人もウォーディ竜舎の事務所へ集合している。


 のだが、ドラゴンウォッチャーにジュピターの特集記事があると知ったジュナは、先ほどから使い物にならない。


「ジュナちゃん、嬉しそうねぇ」


 着席し、様子を見守っていた夫人が、微笑みをたたえて熱い緑茶をすする。外気温は高くても、夫人の外出着は長袖だ。それでも汗一つ見せない優雅さは、高貴といえるのかもしれない。


「これでジュピターちゃんは、勝利数も、獲得賞金額も充分。十二月のレースに出られそうねぇ」


「はい。今年から新設されたグレード・ワン、ルーキーイヤーステークスですね」


 相変わらず、のんきにゆったりしている夫人へ、ジュナが手にした雑誌を置き息巻いて言った。彼女の目の色が変わって、グレンは幾ばくか安心する。


 旧来、グレード・ワン開催数は十種類と決められていた。しかし、竜の多様性やドラゴンレース界全体のレベルを引き上げることを目的に、近年になって続々と新しいレースが新設されているのだ。


 デビューしたばかりの年若い竜のため新設されたルーキーイヤーステークスも、その一つであった。


「三歳ナンバーワン決定戦ですから、ぜひ、出たいです!」


 ジュナは夫人へ純真な瞳を向ける。


 竜の出場レースについて、決定権を所有しているのはオーナーだ。ここで夫人が首を横に振れば、全てが白紙となる。


「もちろん、いいわよぉ」


 夫人は、いつもの穏やかな微笑みのまま、なんの躊躇ためらいもなく頷いた。


 彼女はジュピターのオーナーであるが、一切、余計な口を挟んだことはなかった。育成方針についても、出場レースを決めるときも、何もかもを任せているようだった。


 頑固で偉そうにしているオーナーばかり知っているグレンにとって、夫人の態度は新鮮であった。今のところ、コクが言う、ドラゴンレース協会長の頭が上がらないという恐ろしさは感じられない。


「グレンは、どう?」


 ジュナの目がグレンへ向いた。先ほどまでのだらしなさとは一変、彼女の顔は調教師としての真剣なものだ。


 グレンはあごに指を添え、記憶を辿りながら思考する。


「ルーキーイヤーステークスは十四キロメートルのレースだったな。それくらいの距離なら、ジュピターのスタミナは保つと思う。あいつの体型を考えたら、むしろ適距離じゃないか? 今までで一番のレースができるはずだ」


 グレンは自信を持って答えた。ジュナが喜色満面で頷く。


「じゃあ、決まり! ジュピターの次戦は十二月ね!」


 ホワイトボードに、ジュナが嬉々として文字を書き込んだ。ルーキーイヤーステークス。グレード・ワン。


 グレンは身体の奥から熱気が迫って来るのを感じる。誰が想像していただろう。落ちぶれたライダーと、脱落の烙印を押された漆黒の竜が、のし上がって来るなんて。予言者がいても、言い当てられなかったのではないか。


 一人と一頭がグレード・ワンへ挑めるのは、奇跡のようだった。


 事務所内に士気が満ちる中、突然、扉が叩かれた。一同の目が向き、ジュナが入室を促す。


「邪魔するよ」


 扉の奥から、老女の声がした。掠れ、低く、けれども強い声音。


 声の主に心当たりがあり、グレンは慌てて直立し、服を直し姿勢も正す。その声を聞けば反射的に、そう動いてしまうのだ。


 扉が開いた。そこには、眼光鋭く厳しい面持ちがある。確か、七十歳を超える年齢であるはずだが、顔の肌艶はだつやが良くシワは少ない。五センチメートルほどで短く切り揃えられた白髪は、癖毛なのか少しうねって波になっていた。姿勢良く伸びた背筋、細身の身体には赤いウインドブレーカーとキャップ、青いジーンズ。赤のブーツが、かつんと音をたてた。


 竜に関して苛烈かれつであることから、彼女を恐れる者は多い。グレンでさえ、よく怒られたものだ。


 調教師、ルクソール・ヴァリ。彼女の通り名は、鬼のルクソール。


「先生!」


 ジュナが驚きと嬉しさが混じり合った声で呼び、駆けていった。関係者なら誰しもが恐れる存在を、そうでもない反応で対するのにグレンは驚く。


 竜の調教師は、一般的に先生と呼ばれる。調教師とは、ライダーや竜舎りゅうしゃスタッフに技術を教え導く先達であり、尊敬されるべき教師役ゆえだ。


 新人時代、ザムやルクソールに叱られたときの記憶はグレンにとって財産だ。名伯楽めいはくらくと称される調教師たちは、理不尽に怒らない。感情的でありながらも根底には理論が根付いているため、いつだって納得できた。


 まあ、喜んで思い出せるほどの生易しさはないのだが。今でも怖いものは、怖い。


「先生、お久しぶりです」


「息災のようだね。全く、私の引退まで待ってくれれば、管理している竜をそのまま引き継がせてやったのに。強引に弟子を卒業するとはね」


 ジュナに対して、若干、ルクソールの表情が柔らかくなったような気がした。


 弟子。グレンは新たな事実に打ちのめされる。


 竜の調教師となるには、資格試験を受けなければならない。そのために現役調教師の推薦が必要なので、ジュナも誰かに師事しているはず。そう考えていたものの、それが鬼のルクソールだなんて、初耳だ。


 ジュナが竜に関して、勝ち気な要因を発見してしまった。なんという弟子だろう。技術ばかりでなく、性格まで継いでしまったに違いない。


「あらあら、ルーちゃん。お久しぶりねぇ」


 今度は夫人が立ち上がり、ルクソールの元へ歩んで行った。


 ルーちゃん。その呼び方に驚愕する。鬼のルクソールを、誰が、そんな馴れ馴れしく呼べるだろう。きっと呼べない、夫人以外には。


「おや、マリー。今、ジュナが世話になってるんだって? まあ、あんたのとこなら安心だね」


「ふふふ、毎日、楽しいわよぉ」


「そうかい」


 夫人とルクソールは和やかな雰囲気で談笑する。鬼のルクソールが穏やかな様子を、グレンは初めて目撃した。


 グレンは、そう、独りぼっちだ。どうやら知り合いである彼女らに加わることができず、ただ見ているしかない。女性ばかりが会話するこういうとき、男の立場は非常に弱いものである。


 放って置かれているグレンに気づいたのだろう、ジュナが振り向き、場を仕切り直すように咳払いをした。


「グレンもルクソール先生のことは知ってるわよね? 先生とマリーさんは友だちでね、ジュピターのオーナーを探してるときに紹介してもらったの」


「そう、アタシとルーちゃんは大親友なのよ」


 グレンは納得して頷いた。それで、グレンが紹介する前に、ジュナと夫人は知り合いだった訳か。


「それで、先生、どうしたんですか?」


「ああ、あんたを紹介してほしいって頼まれたのさ。入ってきていいよ!」


 ルクソールが外へ呼びかける。


 声に応じて入室したのは、グレンの身長とそう変わらない長身の女だった。赤が強い栗色の長髪は巻き髪でボリューム感があり、歩く度にふわふわと遊ぶ。パンツタイプで紺色のスーツは、彼女のメリハリ利いて魅惑的な身体の線を強調していた。厚い唇と優しげな表情は、女性らしさに恵まれている。


「初めまして、ウォーディ先生。私はカラ・ポピーと申します」


 長身の女はジュナと向き合って、丁寧な所作で名刺を差し出した。

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