第六話 エイブル・リポーター

エイブル・リポーター 1

 グレンは扉をノックした。


 室内からの返答はない。もう一度、今度は強めに叩く。耳を澄ませてみても、反応は皆無だ。


 おかしい。寝起きの良い彼女は、いつもならとっくに出てきているはずだし、寝過ごしているのだとしても扉をノックするだけで目覚める。


 グレンの表情に不安の色が差し込んだ。まさか、彼女の身に何か。


 憂慮ゆうりょに駆られるまま、グレンは扉を開け放ち部屋へ踏み込んだ。


 部屋の構造は、グレンのと変わらなかった。前の住人が使用していた家具をそのまま引き継いだのも、物が少ないのも同じ。


 違いを指摘するならば、ベッド上で重なり合う何冊もの本に埋もれ、静かな寝息をたてているジュナが存在していることだろうか。彼女は薄手のタオルケットに包まれている。


「ジュナ?」


 近くで呼びかけても、彼女はぴくりともしない。ただ、息はしているし、表情は穏やかだから急病でもないだろう。熟睡しているだけのようだ。グレンは安堵あんどの息を吐く。


 基本、ジュナは身の回りを綺麗に整頓している。そんな彼女が本を散らかしたまま眠る想像ができないので、おそらく、調べ物をしているうちに寝落ちてしまったと推測する。


 ジュピターの地を走りながら飛ぶという飛行法はグレンの発案だが、仕組みを確立させたのはジュナだ。彼女が睡眠時間を削り、様々に考えてくれたことにより、ジュピターにしかできない唯一無二の戦い方が生まれた。


 デビュー戦を勝利できたとはいえ、ジュピターの能力は未だ未知数だ。思っていたより長く飛行できることは判明したが、それがどこまでなのかは判らないし、地を走る竜など前代未聞であるから育成方針に迷うだろう。ジュピターにとっての最善は何か、それを悩み、考え抜き、実行するのが調教師という仕事だ。


 昨夜、いや今朝までだろうか、彼女が勉学に励んだのはきっと、今後のジュピターを想ってのことだ。全ては勝つために。


 このまま眠らせてやりたいという気遣いもあったが、そうもいかない。七月のこの時期、ハティアの気温は上昇していき、三十度を超えるのが当たり前になってくる。だから竜の体調を考え、気温が上がりきらない午前中に調教を終わらせるのだ。


 調教師の指示がなければ、調教を行えない。それに、ジュピターと喧嘩になってしまったとき、止める役がいない。どうにかして彼女を起こさねば。


「ジュナ」


 グレンは彼女のかたわらで呼ぶ。細い身体からだは身じろいだが、青い瞳が姿を見せることはない。


 もう一度、呼びかけようとして、つい寝顔を眺めてしまった。素直に美人であると思う。


 初めて会ったとき、五年前だから彼女が十五歳の頃だろうか、そのときから目鼻立ちが整っていて可愛さはあったが、まだ幼さもあった。それが時を経て今、恵まれた顔立ちは洗練され、すっかり大人びた印象だ。家を出たときは子どもだった妹が、いつの間にか大人になっていた兄の驚愕とは、このような感覚であろうか。グレンは腕を組み、独りでに頷く。


 芽生えた庇護欲ひごよくは、積み重なる本が崩れそうになっているのを発見した。放置すれば、眠るジュナの顔を直撃するだろう。グレンは急いで、だが慎重に、ベッド上の本をサイドテーブルへ移動させる。


 物音が触ったのか、ジュナが顔をしかめ寝返りを打った。彼女を覆っていたタオルケットがずれ、白くきめ細かい肌が露わになる。タンクトップに、ショートパンツという薄着だった。


 すらりと伸びた手足に、無防備なうなじに、グレンの心臓が大きく跳ねる。見てはいけないものを見ている。緊張感に、ほんのちょっとの興奮が混じり、妹と思う存在に対して抱いてはならぬものと罪悪感が胸中で渦巻いた。


 グレンは目を逸らし、勢い良く頭を振る。邪念を払わねば。


「ん……」


 ジュナの唇から息が漏れた。グレンは、またもや、つい動きを止めて唇に見入ってしまう。


 彼女のまぶたが押し上がり、青い瞳が虚ろなまま宙を見た。それは一瞬で焦点が合い、気配を感じてか滑り込んだ視線がグレンのと交差する。


「お、おはよう」


 少なからずよこしまな感情を抱いてしまった自覚があるせいか、己をさいなむ後悔か、命の危険が迫る警鐘か、グレンの声が上擦ってしまった。


 ジュナは無表情で固まっていた。何も反応がないというのが、なお一層、グレンの混乱を増幅させる。


「おはよう」


 なぜか、もう一回、挨拶してしまった。他の言葉が思いつかなかった。


 その途端、ジュナの身体中が紅く染まる。顔面は特に酷く、息が止まっているような紅さだった。


 彼女の右手が持ち上がる。わなわなと震えるそれが致命傷の原因になると、グレンの本能が悟ってしまった。


「ばか!!!!!」


 動体視力が並外れて良いはずのグレンでさえ目で追えない、強烈な張り手が襲いかかってきた。頬を打ち抜かれる。身体が宙を舞う。視界の景色が明滅めいめつする。


 床にべたんと転がったとき、もう、グレンに意識はなかった。

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