第8話 微笑み

 そっと玄関を抜けて、愛用の自転車に跨った。サドルやハンドルは信じられないほど冷たく、これからの運転に躊躇いを与える。

 しかし思い切ってペダルを踏むと、自転車はがたがたと変な音を立てた。ペダルがうまく回っていない。どうやらこの最悪のタイミングで、自転車が壊れてしまったらしい。

 仕方ない、とりあえず公園まで走って向かおう。

 日付が変わり、クリスマスになる前に到着できるだろうか。


 思った以上に走り続けるのはつらい。深夜のこの凍り付くような空気の冷たさに、心が折れそうだ。ただ少しずつ、それでも着実に歩みは進めていく。

 相変わらずこの町の空は、どこまでも澄み渡っている。星は見えないけど、月ははっきりと浮かんでいる。その月がとても眩しい。

 住宅街を抜け、小学校を越し、また住宅街を抜け、どんどん歩いていくうちに図書館へ着いた。金色の並木道が目の前に見える。

 俺はすぐに走り出した。

 それで人の少なくなったシャンパンゴールドのトンネルに、狂ったように入っていった。もう時間はない、そう思ってとにかく急がなければと努力した。急いで焦って、ひたすら間に合うように自分の脚を動かし続けた。


 そしてついに、スギノキ公園の入り口まできた。

 クリスマスツリーの下には、一人の女性が立っている。

「遅かったね、あと数分でいなくなっちゃうところだったよ」

「……すいません」

 途切れ途切れになった息をどうにか繋いで、滴る汗を拭い、彼女の方を見た。

 彼女は嬉しそうに、また悲しそうに微笑んで、こちらの目をじっと見つめた。

「ありがとう、来てくれて」

「こちらこそ、待っていてくれてありがとう」

「別に。私はここに住んでるんだから」

「冗談ですよね?」

「ええ、冗談よ」

 恐らくもう長くないということを、お互いきちんと分かっている。

 分かっているからこそ言葉が出ない。

「ねえ、知ってる?」

「何ですか?」

「今から百年以上も前の話だけど、ここから沢山の星が見えたの。特に冬はね」

「そうなんですか、まったく知らなかったです」

 これも彼女の冗談ってやつだろうか。


「あぁどうしよう、もうあと少ししかない」

「そうですね。今、過去の自分をめちゃくちゃ恨んでます」

「じゃあさ、私に何か聞きたいこととかない?」

 きっとこれが、最後の質問になる。

「なるほど。じゃあ百年前のこの公園からオリオン座の星は見えましたか?」

 彼女は少し、俯いてから答えた。

「見えたわよ、とてもはっきり……」


 そう言って顔をあげる彼女と目が合って、俺は胸がどきどきとした。


「特にオリオン座はね、私のお気に入りなの。大好きだった」


 最期の微笑みはやはり、彼女らしいとしか言いようがない。

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