サンダースの嘘
高田れとろ
第1話
夫人の生活に流れる幾つかの交わりは、すべてが強制の上に成り立っていた。不満は漏らさず感情は誤魔化す。大きな恐怖も慣れれば小さくはなるものの、消えることはない。いつまでも、のどに絡みついて切れない痰のようなものである。不快。
大して余裕もないのに使用人を雇い、出された食事に文句を言う。肉が冷たいとかキャベツが筋張っているとか。食事をしながら聞いている方も、全く食べた気がしないのである。ついに生命を維持する作業を止める時期が来たのかと思わされる。消化していく栄養物は体を形成するが、口に運ぶそれが明日も耐えるべく体のためだと思ったら、いっそ食べずにおこうかしらなどと夫人は考えるのだ。
主人を疎ましく見る夫人は、近頃ではいつも結婚指輪に右手をやり、痩せて緩くなったそれをクルクルと回すのが癖になっていた。気を緩めればスルッと抜けてしまいそうな程、指輪のサイズは合わなくなっていた。
食卓を離れ、買ったばかりで脱げそうなスリッパを引きずる。キッチンの冷蔵庫を開ける。業務用の特注品だ。観音開き。数秒後に閉める。
「なんだ? 冷蔵庫なんか開けて。レイカに言えばいいじゃないか。」
一度食卓についたら、二度と立ち上がらない主人の声が遠くから響いた。
レイカとは使用人の名前だ。主人は人の名をすぐに呼び捨てにする。前の使用人に対しても偉そうに呼び捨てにし、時折勝手にあだ名のような名前をつけて大声で呼びつけ一人で笑ったりするような人間だ。
レイカは、いつもメインディッシュを出し終えると戸外へ煙草を吸いに行くのだがその日は違った。
「レイカさんは、今日は夕方にお帰りになったのよ。ちょっと風邪気味らしくて、夕食を用意してもらってから早めに帰ってもらったの。」
夫人は、冷蔵庫の前で叫ぶようにして答え、主人の不信を解き放った。
「なんだ、道理で暑苦しい姿を見ないなと思ったんだよ。ははは。」
下品ないつもの笑い声だ。
夫人はその場で振り返り、流し下の戸棚を開け右手に鋭利な道具を持たせた。小刻みに震える右手に左手を添えた。使用目的が調理ではないだけでこんなに手が震えるのかと戸惑った。それからは早かった。スリッパも素直についてきた。
舌打ちをしながら不器用な手つきでナイフとフォークを持ち、キャベツを食べようとしている主人の側に立った夫人は、右手を主人の首を目がけ勢いよく振り下ろした。
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