偽物の世界
駅のトイレの鏡だった。そこに映った自分が突然、私とは違う動きをし始めたのだ。鏡の中の私は、ハサミを取り出して前髪を短く切りそろえた。
「あ!」
思わず鏡に触れるが、特に変わったところはない。ただの鏡だった。隣りにいたおばさんがちらりとこちらを見た。不審に思われたら困ると、私は前髪に手をやる。左手でつまんだ前髪は鏡の中よりも長い。整えるフリをしながら鏡を見つめる。すると、鏡の中の私は今度は束ねた髪をそのままばっさり切り落としてしまった。手櫛で払うと短い髪がはらはらと散った。
呆然と見つめる私に、鏡の中の私は笑って手を振った。回れ右をして、鏡の奥の方に歩き、トイレから出て行ってしまった。振り返って出入り口を見る。誰もいない。また鏡を見る。やっぱり鏡の中に私はいない。
「あなた、大丈夫? どうかしたの?」
隣りから声を掛けられて、私は自分が涙を流していることに気付いた。
「コンタクトが、ちょっと。すみません」
ぼそぼそと答えて私は鏡に背を向ける。髪を切りに行かなくちゃと思った。
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