雪と番

みずいろ

第1話──青と逃避



「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」──夏目漱石



空はどんよりと曇り、辺りには雪が積もっていて、それはそれは寒気のする昼下がりだった。

僕は待ち人も無いのに公園のベンチにうずくまり、ただ時が過ぎるのを待っていた。

自分の名前さえ分からず、己の記憶すらほとんど残っていない。丸まりながら、ただ自分が何者かを問うことしかできない。

何時間、経ったのだろうか?もしかすると、もう何日もこうしているんじゃないだろうか。ふとそう考えると、文字通り身震いするような思いがした。


「君、どうしたの?」

女の声。顔を上げる。

僕の隣には、いつの間にか若い女が座っていた。すこし、驚いた。


「ずいぶんやつれてるけど……大丈夫?」

「あぁ……なんとか。でも、自分が誰なのか分からない。記憶を失ってるみたいなんだ」

「なにそれ、病院行く?」

「いや、あそこは……遠慮しとく。何て言うか、色んな匂いが沢山して嫌いなんだ」


僕がそう言うと、女はクス、と笑った。

「確かに!うーん……流石に病院のことが分かるってことは、自分の事だけがすっぽりと記憶から抜けて分からない、って感じなのかな?」

今一度、自分に残っている記憶を手繰り寄せてみると……、ああ、確かに、自分の事だけが思い出せないようだ。

「……どうやら、そうみたいだな」

「他人事みたいね、結構大変なことよ?」


それはそうかもしれないが、とつぶやいてから女を一瞥する。

というか、この女はなんなんだ?

長いまつげ、深い青の瞳、白くてしなやかな腕、そして、その腕に散らばる無数の小さな青い痣……。


「……君こそ、何だか色々と大変そうだけど?」

女はまた、フフッと笑う。

「そうね。すこし、大変なのかもね」

「じゃあ、お互い様じゃないか」

今まで控えめに笑っていた女が、それを聞いて吹き出すように笑った。

「あはは!人間ってのはもれなく臆病なのよ、だから」


不意に女の目は真っ直ぐに僕を見つめる。

「自分の臆病さと、戦う事を諦めた人間ほど、惨めなものはないわ」

「だから、逃げてきたの」


深い意味はよく分からなかったけれど、とりあえず相応に大変そうなのはよく伝わったので、僕は返事のつもりで、にゃあ、と言ってから伸びをして、それからベンチの側に積もっている雪を見つめていた。

何故だか、彼女の身に付けているものからは、少し懐かしい匂いがした。


彼女はその首輪をちりん、と鳴らし、自らの白くて、つやつやとした毛皮を毛繕いするように、腕の無数の痣を舐めていた。


そう、僕たちは猫なのだ。


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