帝国の危機
野沢直樹
第1話 プロローグ
帝国は、いくつかの要因によって存続の危機に瀕していた。高齢となった皇帝は、自身の体力の減退が、判断力に影響していることに気付いていない。ある一面では非常に頑固であると思えば、他方では簡単に周囲の意見に流されてしまうようなところが目立ち始めていた。
この劉邦という初代漢帝国の皇帝は、壮年の頃からこのような特質を持ち合わせていた。それがこの頃になって人々の心配の種になり始めたことは、必ずしも偶然ではない。
劉邦が一生涯をかけて成立させた漢王朝。それが完成の形を見たとき、彼はすでに年老いていた。もともとは天下に覇を唱えるという野望に過ぎなかったものが、人生の経験を得て人々の平和と安定を築き上げなければならないという崇高な使命感に転じたというのに、彼の寿命はあと数年しか残っていない。実に皮肉なことだった。
しかし彼には、自分の寿命があとどのくらい残されているかという確証はなく、あるのはただ自分の体力の衰えによるぼんやりとした感覚でしかなかった。だからこそ、焦りの気持ちはより一層強まるばかりである。
彼は残された日々を王朝の存続のために費やしたばかりでなく、自分の死後、王朝がどうあるべきかを慮って行動した。しかし皇帝もしょせんは人間でしかない。その判断が常に正しかったという事実はなく、皇帝一人がどうあがいたとて、すべての事象に影響を与えられるわけでもない。また、皇帝を取り巻く人物たちの意識が、必ずしも皇帝と同一の意思を持つ事実もなかったのである。
これにより王朝は常に危機にあったが、皇帝が存命なうちはまだ状況はましだといわざるを得ない。どんな危機が生じても、一代で建国を果たした皇帝という強力な軸が存在するうちは、人々は安心していられる。しかし、その死後を想像することは憚られた。その先には世にも恐ろしい無政府状態が続くものと思われたのである。
統率者のいない社会の混沌。それは大木が朽ちて倒れる様子に似ている。大木の幹を腐らせた病原の存在も明らかにされず、ただ自然のままに運命を左右される樹林の姿に似ている。樹林は存続するか、それとも朽ち果てるか……それさえも自分たちにはわからないのであった。
しかし人々は樹木と違い、間違いを正す知恵を持っている。さらには暗闇から光を求める勇気をも持っている。
軸を失おうとしている王朝の運命は、いまや人々の知恵と勇気にかかっていた。
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