第7話

ぼくはもう一度ミミの姿を探したけど、ミミはやっぱりどこにもいなかった。

ぼくはぼんやりと光る桜の木の前に背筋をぴんとのばして立ち、そして時計回りにゆっくり一周する。一歩一歩確かめながらゆっくり回る。

そしてもとの光る場所に戻るとそこにお母さんがいた。

ぼくはとっさに「お母さん」と呼びたくなる。

でも我慢する。ミミとの約束がある。

ナマズが言っていた。

そうです。決まりなんです。破ったからってどうなるわけでもないんですが、ただ決まりなんです。

僕は決まりをまもる。それがナマズの世界だからだ。

 ぼくがだまってじっとしてるとお母さんがにっこりと笑う。そしてぼくの名前を呼ぶ。僕の耳にお母さんの声がきこえる。僕は「お母さん」と呼ぶ。お母さんはぼくを抱きしめる。

「お母さん、会いたかったよ」

「うんうん、決まりをまもって偉かったね」

「アミは今日はいないんだ。アミもきっとお母さんに会いたがるよ」

「うんうん、そうだね。アミにもお母さんきっと会いに行くよ」

 ぼくはお母さんのにおいをかぐ。お母さんのにおいはぼくを幸せにする。ぼくはお母さんをぎゅっと抱きしめる。

「お母さん、これからずっとぼくと一緒にいてくれる?」

 お母さんがぼくをなでる。

「お母さんはね、またいなくなっちゃうの」

「どうして?ずっと一緒にいようよ」

 ぼくは顔をあげておお母さんを見る。お母さんはかなしそうな顔をする。

「これはね、決まりなの。お母さんはヒロシとは違う世界に住んでるの。だからヒロシと一緒にいられない」

「どうして、どうして」

「どうしてかしらね、お母さんもヒロシと一緒にいたいわ。ヒロシとアミとお父さんと、それからミミと。みんなでいっしょにずっと暮らしたいわ」

「そうすればいいじゃん」

 お母さんがぼくの頬をなでる。

「決まりなの。そういう決まり」

「なんだよ、決まり決まりって。お母さんはぼくのことが好きじゃないんだ。だから一緒にいたくないんだ」

 お母さんは困った顔をする。ぼくは胸がきゅんと痛くなる。

「ねえ、ヒロシ。お母さんを困らせないで。ナマズのところでは立派に約束を守ってたじゃない。お母さん、ヒロシがちゃんとに約束を守って、うれしかったわ。涙がでたわ」

「ナマズとお母さんは違うもん」

 お母さんはにっこり笑う。

「そうね、ナマズとお母さんは違うわね。でもね、お母さんはナマズと同じ世界にいるの。ナマズに聞いたでしょ。わたしたちの世界はゲンインとケッカがない代わりに決まりが多いんです。だからお母さんも決まりを守らなきゃいけないの。そういう世界なの」

 ぼくはお母さんから離れる。お母さんがきゅうに憎らしくなる。

「世界ってなんだよ。決まりもゲンインもケッカもみんな嫌い。ぼくはお母さんといっしょにいるの」

 お母さんがぼくのうでをとる。そしてもう一度ぼくをだきしめる。

「ヒロシにはヒロシの、お母さんにはお母さんの世界があるの。それは一緒になれない。ヒロシはきっとそのことをもうわかってるんだよね。お母さんがいるとこうやって甘えてわがまま言っちゃうんだよね。でも、お母さんはわかってる。ヒロシはもっとずっと強い子だって」

 ぼくの目から急に涙が流れる。お母さんの服にぼくの涙が染み込んでいく。

「世界ってなんだよ。決まりってなんだよ」

「世界っていうのはね、ヒロシが見て聞いて感じてるもののこと。いつもはお母さんが見えたり、お母さんの声が聞こえたりしないでしょ。ヒロシはそんな世界にいるの。お母さんも普段はヒロシが見えたりヒロシの声が聞こえたりしない。それがお母さんの世界。だから一緒にはいられない。でもね、ヒロシが心の中でお母さんのことを考えるとき、お母さんがヒロシのことを心の中で考えるとき、二つの世界がちょっとだけ近づくの。もしヒロシがお母さんを近くに感じるときがあったら。きっとお母さんもヒロシのことを考えているのよ。目に見えないから耳に聞こえないからってそこにはなにもないわけじゃないの。ヒロシが心の中で感じたらそこにお母さんはいるの。お母さんが心の中で感じたらヒロシはそこにいるの。二人で考えたらあっちとこっちがちょっとだけ繋がるの。大丈夫、ヒロシにはきっとわかってるよね。ナマズの約束を守ったんだもん」

 ぼくはお母さんの話がほんとうのことだと思う。お母さんはうそをつかない。だからぼくは泣くのをやめる。ちゃんとした大人になるって決める。ぼくはお母さんから離れる。お母さんは優しい笑顔でぼくを見つめる。

「ねっ、わかったね。それじゃヒロシにお母さんから最後のお願い。これからヒロシはお母さんのもとを離れて桜の木を一周します。右回り、学校で習った時計回りです。桜の木を時計回りに回ったらそこになにかがいます。ここでまた約束です。そのなにかを見つけたらヒロシから声をかけましょう。絶対に相手から声をかけられてはいけません。できるかな?」

 ぼくはほほに残った涙のあとをぬぐって頷く。

「うん、ヒロシならきっとできる。ねっ」

 お母さんはそう言うと僕のおでこにキスをする。

「じゃあね、ヒロシ。お母さんのこと忘れないでね」

「忘れるもんか」

「お母さんも忘れない、バイバイ、ヒロシ」

「バイバイ」

 ぼくの目から涙がこぼれる。お母さんの姿が少しずつ消えていく。僕はお母さん消えないうちに回れ右をする。そして桜の木をゆっくり一周する。一歩一歩確かめるようにゆっくり歩く。そしてもとの場所にもどる。そこにはミミがいた。

「やあ、ミミ。ただいま」

 ぼくはミミに声をかける。ミミは「にゃあ」とないた。

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