二.初めてのお客様(一)
その夜、僕は夢を見ることもなく泥のように眠った。
すっきりとして目覚めると、まだ日の出前の時刻。
「いっぱい働けるな?」
掃除に買い出しにと、しなければならないことをしていたら、きっと一日はあっという間に終わってしまうだろう。
日が昇ってから布団は干すことにして、僕はごそごそ布団から抜け出した。
「ふわ……」
大きな欠伸をひとつ。
縁側のカーテンを開けると、家の下の田んぼが見えないくらいの濃い霧が出ていた。
「何も見えないな」
昨夜湯舟に浸かって眺めた霊峰も、今は霧の向こう。白く隠されていて見えなかった。
家中のカーテンをひと通り開けて回ってから、土間に下り、水を入れたやかんをガスコンロの火にかけた。
コンビニの袋からごそごそ取り出したのは、カップの即席味噌汁。それから、電子レンジでチンすればできあがるパックの白ご飯。
やかんがピーと鳴いて、お湯が沸いたことを知らせてくれた。
「はいはい」
一人暮らしが長いと、物と会話してしまっていることが多い。僕みたいに独り身の長い人間だと尚更だった。
カップの味噌汁とパックご飯を慣れた手つきで仕上げ、土間から居間に上がって、ちゃぶ台に並べた。昔から使われていたちゃぶ台には、懐かしい落書きも残されている。
「いただきます」
お味噌汁とご飯を交互に口に運びながら耳を澄ませてみた。
今朝は、トントンと、軽やかに床を歩く音は聞こえてこないようだ。
(夢とか、お化けとかではなかったはずだ)
もうアラサ―という年の大人が、猫一匹にびくびくしているなんて情けないと思うけど。
昨日立て続けに起こった一連の出来事は、僕を怯えさせるには十分だった。白い狐のことを思い出しただけで、ぶるっと体が震えるくらいだ。でも、おじさんの手伝いをするからには、お宮に通わなければならない。
もしまたあの狐にあったなら、僕は大声で叫んで、情けない姿を晒してしまうだろう。そんな姿、当番のおじさんたちならまだしも、宮司さんには見せたくなかった。
(ああ、もう。ひとりで食事していたら余計なことまで考えてしまう)
僕はご飯をかき込んで、さっさと仕事に取り掛かることにした。
まずは、昨日できなかった家の掃除だ。
母や親戚の人が掃除をしていたと言っても、月に一回程度のこと。埃は隅の方に溜まっていたし、おばさんたちの背の届かない棚の上などは、そのままになっている。
家中をすっかり綺麗にしようと思ったら、一日では終わらない。
祖母はきちんとした人だった。毎朝の掃除を欠かさず、食事もきちんと一汁三菜。そのまめさは人間関係でも発揮されて、誰と会っても丁寧に対応していた。
そんな祖母の性質は、自分の部屋の掃除もままならない僕には受け継がれなかった。残念だけど。
掃除をしながら窓の外を見ると、まだ霧の濃さは変わっていない。日が昇るにつれ薄くなるはずの霧は、この日は少しばかりしつこいようだ。
この日結局一日中霧は晴れず、僕は買い出しに行くことができなかった。
軽トラを借りに行くと、おじさんに止められたからだ。
「こんな一寸先も見えないような霧の中、運転するなんてとんでももない。今日は大人しく家にいろ」
食べるものが何もないと伝えると、
「こういう時頼らねえで、いつ頼るんだ。うちにあるもん、持ってけえ」
そう言って、納屋からジャガイモやタマネギ、青菜に人参を持って来てくれた。それから、冷凍のしし肉も。
「美味いもんじゃないけどな」
滞在二日目でジビエをいただけるなんて、僕はラッキーだ。
おじさんは美味くないとかいうけれど、普段食している肉とは違う、野性味溢れる味が僕は好きだった。
せっかくだ。今夜は『しし鍋』にしよう。しし鍋は牡丹鍋とも呼ばれる、猪肉を使った味噌ベースの鍋だ。
お礼を言ってウキウキしながら家に戻り、しし肉を解凍するために冷蔵庫の中に入れた。
「今から解凍しておけば、夜にはいい感じになるよな」
誰に言うともなく言って、次に僕は、味噌を求めて味噌蔵に向かった。
家の横手にある、立派な白壁の蔵。庭から見ると、
味噌蔵の鍵を開けて中に入ると、むわっと独特の匂いに襲われた。ここに入ったことはそうなかったけれど、味噌桶と一緒に置かれている漬物桶の漬物を、母の言われて取りに来たことはあった気がする。
「ばあちゃんの味噌で、しし鍋かあ」
贅沢だ。
ウキウキとしながら桶の蓋を開けた僕は、蓋を持ったまま固まった。
味噌がない。
いや。底の方にちょっと残っていたが、カピカピしていて全然美味しそうに見えなかった。
僕は急いで台所に戻って母に電話した。
自分から親に電話するなんて、めったにないことだ。それだけ僕は、今夜のしし鍋が食べたかったんだ。
「ああ、味噌? 私やおばちゃんたちが行くたびに、ちょこちょこ貰って帰ってたから、なくなっちゃったかもね。あんた、味噌桶、洗って干しておいてよ」
人の気も知らないで、とはこのことだ。
僕は通話を切ってから、物悲しい気持ちで冷蔵庫の中のしし肉を思った。
すでに解凍の始まっている肉を、もう一度冷凍庫に戻すわけにもいかない。
(醤油ベースのしし鍋にしてみるか?)
いや、そうじゃない。僕は味噌味のしし鍋が食べたいんだ。
だったらもう、別の料理を考えるしかない。
ふと思い当たることがあって、僕は料理のレシピが載っているサイトを検索した。
「焼肉のタレなら作れるんじゃないか」
しし肉の焼肉も、いつだったか食べたことがある。
おじさんから貰った野菜たちも焼肉にぴったりだ。
「醤油・みりん・玉ねぎ、人参のすりおろし……。生姜とニンニクがないのが残念だけど、僕一人で食べるんだ。この際いいや」
材料を混ぜ合わせればいいのだから、料理のできない僕でもできそうな気がした。
シンクの下の扉を開けて、醤油や味醂があるのを確認する。賞味期限も大丈夫そうだ。
人生で初めて、前向きに料理を始めようとした矢先。
「ホウ、ホウ」と、
「こんな時間に、梟?」
昼日中に、梟が里に下りてくるのは珍しいような気がして、僕はつられるように庭へ出た。
外はまだ霧の中だ。
濃い霧に目を凝らせば、ギリギリ見通せる庭の一画。そこに植えられた高い木の前に、髪の長い若い女性が立っているのに気が付いた。霧の中に浮かぶ姿に一瞬ドキリとしたけど大丈夫だ。彼女は幽霊なんかじゃない。
梟はその高い木の枝に止まっているのだろう。彼女は一心に上を見上げていた。
申し訳程度の日本庭園になっているその一画は、古民家宿になる前は僕の恰好の遊び場だった。置石や植木に登ったり、植え込みでかくれんぼしたり。
けれど民泊を始めてからは、客室の目の前ということもあって、子どもは立ち入り禁止になった場所だった。
梟は女性に警戒する様子もなく、まだ鳴き続けていた。
(梟の声って、よく通るんだな)
濃い霧の中を縫うように田んぼを渡り、集落の隅々にまで行き渡るような梟の鳴き声には、聞き入ってしまうような温もりがあった。
「あの……」
僕は遠慮がちに女性の後ろ姿に声をかけた。
彼女は長い髪を揺らして振り向くと、僕を見て「あら」という顔をした。
(驚かせちゃったかな)
梟も鳴くのをやめてしまったようだ。
「あ、こんにちは。えっと……」
「この時間に梟が鳴くなんて珍しいと思って見ていたの」
女性はまた、僕から木の上に視線を移した。
「ええ、そうですね。僕もそう思って、外に出てきたんです」
僕も梟を見てみたくなって、日本庭園の方に入ろうとすると、
「あなたが来たら逃げちゃうわ。そこにいて。私がそっちに行くわね」
と、止められてしまった。
どうして彼女の前では梟は逃げないんだろう。
そんなことを考えている間に、彼女が目の前に立った。
「こんにちは。あなた、従業員の方?」
従業員?
ああ、そうか。彼女はこの家がまだ民泊をしていると思っているんだ。
「いえ。僕はここの主の孫なんです。もしかして以前もこちらにおいでになったことが?」
「ええ」
女性は長い髪を揺らして頷いた。ただの黒髪ではなく、所々茶色のメッシュが入っている。パーカーにジーンズというラフな出で立ちの彼女は、足元にトレッキングシューズを履いていた。薄化粧で、こざっぱりとした印象を受ける。
「おばあさんは中に?」
ああ、彼女は知らないんだな。
僕が今の状況をかいつまんで説明すると、彼女は表情を曇らせ俯いた。
「そんな……。おばあさん、亡くなったなんて」
「こちらに宿泊されたことがあるんですね」
「ええ。そうなの」
彼女は肩に下げた大きなトートバックの中を探ると、革の名刺入れを取り出した。
僕は受け取った名刺を見て、
「『季刊霊峰』、猫目ニーナさん」
「そう。私、山岳雑誌の記者をやっているの。フリーだけど」
「はあ」
「ここのお山が好きで、前にもコラムを書いたことがあるのよ。大きな記事じゃなくて、本当にコラム程度の物しか書かせてもらえないけど。そのコラムを書いた時に、こちらに泊まらせていただいたの。次の季刊誌でまた書かせていただけることになったから、もう一度お山を訪ねてみたくなって。ちょうど秋祭りの時期だったし」
ニーナの言う『お山』とは、この集落を見下ろす霊峰のことなのだろう。
三年程前、数回に渡って宿泊したと、ニーナは続けた。
そんなにこの家のことを気に入って、こうしてまた訪れてくれるなんて。
僕は感謝の気持ちを込めてお礼を言った。
「わざわざ霧の中来ていただいたのに、宿泊できなくてすみません」
「ほんと、すごい霧よね。こんなの初めてだわ。そっかあ。ここのお宿、やめちゃってたか」
申し訳なさそうな顔をしている僕に、ニーナは以前泊まった時のことを、目をキラキラ輝かせながら楽しげに話してくれた。
「特に、おばあさんの料理が美味しくて」
「はあ」
「手作りのお豆腐に、お味噌に、お漬物。季節の山菜を使ったお惣菜。それから、その時たまたま猪のお肉が手に入ったとかで、『しし鍋』もいただいたわ」
「ああ、しし鍋……」
僕は解凍中のしし肉を思い出した。
でも、味噌がないんだ。味噌がないと、やっぱりしし鍋は気分じゃない。
それでも、こうして訪ねて来てくれたお客様を、このまま帰してしまうのも忍びなかった。
「あの。さっき、しし肉貰ったんで、一緒にいかがですか?」
と、彼女を誘ってしまった。
「いいの?」
「はあ。でも、味噌を切らしちゃってるんで、焼き肉になるんですけど」
「ああ、なるほど。そうね。せっかくだから、ご馳走になろうかしら」
案外あっさり、ニーナは頷いた。
「だって、食事は誰かとした方が楽しいでしょ」
居間の掘り炬燵を板で塞いでしまう前。囲炉裏の炭の上で、ぐつぐつ湯気を上げるしし鍋を食べたことが忘れられない、とニーナは言った。囲炉裏端にはおばあさんも一緒に座って、鍋の世話をしながら、絶えずお喋りの相手をしてくれたのだとも。
僕におばあさんのような#もてなし__・__#ができるなんて考えてもいない。けれど僕は、ニーナの話をもう少し聞いてみたくなっていた。僕がほとんど知らない、古民家宿の
僕は玄関の中にニーナを招き入れた。
「えっと、一応客室の掃除はすませてるんですけど、泊まるにはどうかなって感じなので。宿は別に取りますか?」
「あら、私はかまわないわよ。あなたが気にならないなら」
そう言うと、ニーナはアーモンド形の目を悪戯そうに細めた。
その意味を考えることは端からやめておこう。異性関係はちょっと面倒くさいと思ってしまう僕だった。
「本当に泊まりますか?」
彼女を客間に案内して、僕はもう一度確認した。だって、料理もまともにできない管理人しかいないんだ。
「迷惑なら他に宿を取るようにするわ。幸い近くに温泉街があるもの。ふふ。『ししの焼肉』をいただきながら、ゆっくり考えましょう」
ニーナがそのつもりなら、それでいいか。
ひとまず、お茶くらいは出した方がいいだろうか。
(お茶っ葉、どこにあるんだろ)
早くも躓いてしまった感のある、僕のおもてなし。
僕が迎えた最初のお客様は、ちょっと神秘的な感じを受ける美しい人だった。
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