一.古民家生活の始まり(四)

 ***


 悪戦苦闘の末に、ちょうどいい湯加減になった五右衛門風呂。

 僕はまだ少し熱い湯舟の壁に触れないように、足元の簀子すのこを沈めながら湯に浸かった。

「疲れたな」

 長い一日だった、と思う。

 始発の新幹線に乗って、県の北部まで戻って来て、着いたと思ったら、目が回るほどいろいろなことがあっった。

 明日からの生活もまだ見えてこないというのに、なんとなく集落の事情に巻き込まれてしまった気もする。

 僕は耳にぶら下がったままのピアスを触った。

 取ろうとしても取れない、厄介な代物。

(それにこいつ、宮司さんにも、おじさんたちにも見えなかったんだぜ)

 僕は湯の中にぶくぶく沈んだ。途端、湯船の底の辺りの、熱い部分に触れてしまって飛び上がった。

「あっつ……!」

 底の簀子の位置を直して、もう一度浸かる。

「はあ……」

 誰か、この状況を説明してください。

 白い狐のことも、ピアスのことも。現実で起こったこととは思えないくらい不思議なできごとだった。

 それに祭り当番のおじさんたちは、秋祭りの準備のため、ずっと社務所の中にいたという。

 ではなぜ、僕が来たことに気付かなかった?

(もう訳がわからないよ)

 それから、分家のおじさんだ。

 あのあと軽トラを返しに行って訊いてみた。

 おじさんは確かに、今年お宮の総代を務める番なのだそうだ。しかし体が思うように動かないので、力仕事は誰かに任せたい。他人に任せるわけにはいかないので、僕に頼んだのだと。そう言って説明した。

 今のおじさんの体で力仕事は無理があるというのはよく分かる。

 それならそれで、事前に説明してほしかった。と思うのは、僕の子どもっぽさだろうか。

(まあ、手伝えることは手伝うさ)

 そうだ。今の僕にはそれしかない。

 古民家を守って。

 おじさんの手伝いをして。

 それから……。

 それからあとは何もない。

 だから、おじさんたちに言われたことを、「はいはい」とこなしていくしかないんだ。

 不思議なことに振り回されることへの戸惑いも、ひとつも誇れることのない自分への苛立ちも。全部胸の中に閉じ込めて、僕はここで淡々とした日々を過ごしていく。

 それ以上のことを、僕は僕自身に望みはしないだろう。


 浴室の窓から見える満月。

 その下で月明かりに浮かぶ霊峰を、僕はぼんやり、のぼせるまで眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る