第一話:鶴城明悟と鶴城薙乃の日常

6  -老人と少女の朝-




 屋敷の寝室と馴染のある病院の個室を組み合わせた様な場所だった。


 病院の白々しい程に厭に明るい照明の廊下から病室に入ったはずなのだが、部屋の中に入るとそこは畳の和室で、敷かれた布団から妻の千恵子ちえこが上半身を起こしてこちらを見ている。


 そこは自宅の寝室の筈だが、壁は潔癖な白色、窓から見える景色は病室で見た記憶にある青空だ(そしてそもそも自宅の寝室に窓など無い)。


 今際の際に差し掛かった千恵子を巡る印象深い風景がパッチワークの様に組み合わされたちぐはぐな風景。明悟は、今自分は夢を見ていると理解出来たが、理解しているにも拘らず、自身の中には当時の妻と対峙していた際の心象が蘇っていた。


 胸が締め付けられるほど穏やかな眼差しを向ける千恵子の傍に歩み寄り、明悟は何かを語り掛けようとしたのだが、この時ある事に気付く。自分の姿だ。自分は今、変身している。それも、高校に入学したばかりの現在の姿ではなく、6年前の姿、未だ『鶴城栄美』の面影が色濃く残っている姿だ。


 病床の千恵子が微笑みながら弱々しく両腕を広げている。そんな彼女に対峙する明悟は戸惑っていた。自分は今、何者なのか。『誰』として千恵子に接すればいいのか分からなくなっていた。

 千恵子は、自分がこの姿に変身できる事は知っていたはずだ。しかしそんな現(うつつ)との整合性など今ここでは役に立たない。目の前の千恵子が明悟を何者と思っているのか、自身の夫だと理解しているのか、それとも孫娘の栄美だと思っているのか、断定が出来ないのだ。明悟であると理解しているのなら問題は無い。しかしもし栄美だと思い込んでいた場合、自身の正体が露見してしまうと、千恵子という人間を支えている最後の支柱のようなものをどうしようもなく傷付け、破壊してしまうのではないかという恐怖があった。どうしてそんな事を気にしてしまうのだろうか? これが夢の中の出来事であるというのは間違い無い事だし、何より千恵子はもうこの世にはいないというのに。


 少女の姿をした明悟は努めて神妙な表情を作り、千恵子の両腕の中に身体を沈めた。酷く弱々しい力で抱擁される。明悟も、力を籠め過ぎない様に細心の注意を払って抱擁し返す。千恵子の、力を籠めれば壊れてしまいそうな弱々しい躰を、子供特有の高めの体温で満たしていくような感覚を覚えて



 

 そこで明悟は目を覚ました。多分、居た堪れなさに耐えられなくなって。


 まだぼんやりとした意識の中で、今ここが『いつ』なのか、そして自分が『何者』なのかを解けた糸を紡ぎ集めるように思い出していった。


 掌を持ち上げ、視界の中に掲げる。


 皺だらけの筋張った掌だ。今は変身していない。


 思考がハッキリしていくにしたがって、先程見ていたはずの夢の内容が、吐き出した煙草の煙の様に拡散して、輪郭を無くして消えていく。もう内容がぼんやりとしか思い出せない。多分千恵子が出てきていた、激しい動きは無く、病床の。


 内容はハッキリ思い出せないが、自身の汚点を見せつけられる、酷く息苦しくなるような感覚だけは頭にこびり付いていた。背中の寝汗が酷い。


 枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。午前4時58分。起床時間の2分前である。体内時計の精密さに感心させられる。目覚まし時計のアラーム機能を先んじてオフにした。

 明悟は寝床から無理をして身体を引き剥がす様にして起き上がった。戻り得ぬ記憶を断ち切る様に。




 寝間着からジャージの上下に着替えた明悟は、まだ暗い最小限の視界しかない中、仏間に向かった。仏間の蛍光灯を付け、眩しさに一瞬目を細めながら、仏壇に、その中心に立てられた妻の千恵子の顔をしっかりと見据えてから、手を合わせた。最早内容はおぼろげだが、夢の中に千恵子が現れた事を報告した。多分ろくでもない夢だったはずなのだが、まぁ、現れてくれた事には変わりない。


 しばし手を合わせた後、仏間の照明を消し、廊下に出て、暗い板間を迷い無い足取りで進み、昨日の夜に使った隠し扉を開きエレベーターを利用し、昨日とは逆に地下通路からIKセキュリティの資材倉庫へ向かった。……資材倉庫の地下部分は体育館程の非常に巨大な空間になっている。だがそれは額面通り『資材倉庫』として利用されている訳では無く、魔素体及びシフト・ファイターの研究・運用試験をするために利用されている。IKセキュリティがシフト・ファイターを擁している事は口外されていないし、ましてやIKセキュリティ及びその親会社、藍慧あいけいグループの中核企業『藍慧重工』の会長である鶴城明悟が少女に変身するなどという事は当面口外される予定は無い。資材倉庫の名を冠した秘密の研究棟なのだ。


 地下通路突き当り、地下ドームへと続く階段の踊り場へのドアの前で明悟は足を止めた。ドアに、紙が張られている。



 魔素体固定中

 安全を保障できないのでドーム内でのランニングは控えられたし  駒木より



「……」

 手書きの、明らかに明悟に対して用意された置き手紙である。


 朝の運動は明悟の日課の一つである。ただ現在の明悟は対外的には身体を悪くして隠居して養生しているという話になっているので、朝のランニングを屋外、屋敷の外で行うのは差し控えたい。なので、造ったはいいが常に利用されている訳では無い地下空洞をグラウンド代わりに使用していた。

 ……寧ろ本来の使われ方をしているという事だ。無論、運動場を奪い取られて文句を言う道理など無い。

 ランニングはしばらく諦めねばなるまい。明悟は踵を返し自宅へ戻った。


 エレベーターを登って自宅へ。寝室の畳の上でストレッチをする事にする。いつもならランニングの前後に行うそれを、いつも以上に念入りに反復して行った。一挙一動での筋肉への刺激と、蓄積していく疲労を深く意識しながら決められた手順をおざなりにならない様になぞる。


 変身前の状態、老人としての自身の肉体を動かす感覚をしっかりと把握しておく必要があるというのは研究チームの言。シフト・ファイター『鶴城薙乃』に変身した時と本体である『鶴城明悟』とでは、身体的なスペック、シフト・ファイターか否かを差し引いても、年齢・性別と何もかもが違う。少女・薙乃として変身している時の感覚で老いた身体を動かすととんでもない負荷が掛かる場合がある。普段から身体を動かす事で、通常時の自身の限界を把握し、本体(つまり老人の方の明悟)の基礎体力も維持する必要があるのだ。

 ……また、逆の意味合いもあるとも言える。つまり、通常の自身の肉体を意識する事で、『鶴城薙乃』としての在り様を強く意識し、少女としての所作を御座なりにしないようにするという効果だ。


 腕時計のアラームが鳴る。朝の運動の終了時間を知らせるものだ。そろそろ高校へ行く身支度をせねばならない。


 適度な汗と疲労感を帯びた身体で浴室に向かい、脱衣所でジャージのジッパーを開き、懐の内ポケットに入れていた瑠璃色の意匠が施されたコンパクトを取り出した。それを棚の上に置かれている『着替え』の傍に一時置き、ジャージと肌着を脱ぎ始める。

 衣服をすべて脱いだ後、改めてコンパクトを手に取り、それを開く。持ち上がった蓋の方には鏡が、底の方には昨日同様に蒼く発光していたが、昨日の夜に開いた時よりも溢れる光はずっと強く、掌から溢れるようだった。……コンパクトから溢れる光の明るさは、『変身』後に収束可能な魔素の量、即ちどれだけの時間『鶴城薙乃』に変身していられるかを把握する指標になる。光の勢いから夜更けまでは変身していられるだろうと見て取れた。


 光の量を確認した後、刹那、自身の肉体の動悸を意識し、自分が平常心を保てているかを再認識した。……別に、これから行う事に際して自分が冷静かどうかなど何も関係は無いのだが、どうしても自分の『平常心』を確認せずにはいられない。これから自分が行う事を、無感情に、動揺する事も妙な意味付けを行う事も無く淡々と実行出来ているかを。


「シェイプ、シフト」


 裸体の老人は女性物のコンパクトを手に、努めて無造作に、しかしハッキリとそう口にした。


 途端、老人の身体は瑠璃色の炎に包まれる。


 そして炎は一瞬で消え、そこに立っていたのは裸体の少女、鶴城薙乃である。


 シャワーを浴びる前に薙乃の姿に変身する理由は、使用しなければならない洗髪剤の量にある。明悟の姿で髪を洗った後変身し、老人の密度の少ない頭髪から少女の豊かな黒髪に変異すると、頭髪上のコンディショナーの成分が薄く引き伸ばされ、頭髪の保護が不十分な状態になってしまうのだ。薙乃側の髪の毛を短く切りそろえれば登校前に変身して洗髪をせずに済むのではないかと提案してみたが、研究チームと秘書から即時猛反発を受けて現状に至る。


 変身した直後は、急に激しい動きをしてはいけない。肉体のバランスが大きく変わっているので、先程までの鶴城明悟の肉体の重心から鶴城薙乃の重心位置をイメージし、身体の軸を意識的に移動させなければならない。本来の自分の感覚を残したまま薙乃の身体を操作すると、バランスを崩して前のめりに倒れてしまいかねない。日々のストレッチや運動により双方の肉体のスペック・バランスが如何に違うのかを常に意識し、素早く切り替えられるように訓練する必要があるのだ。


 薙乃の身体の重心は明悟のそれよりかなり前方にある。なので、明悟の姿の時より意識的に背筋を張って行動せねばならない。身体の重心が前方にある理由、それは、まあ、胸元に鎮座する一対の脂肪の塊のせいなのだが。


 女子高生・鶴城薙乃として生活する際、そのあらゆる行動・所作の中において、その平均的なサイズを大幅に上回る乳房が、物理的な質量を持って常にその存在を主張し続ける。歩いたり激しい運動をするたびに、本当に両胸が上下に揺れるのを始めて意識した時は冗談では無く戦慄を感じた。……70年以上男として生きてきた中で決して体験した事の無かった圧倒的な胸の重みと共に自身の『変身』を深く意識させられるのは、甘い匂いを放ち上半身をくすぐる美しい黒髪だ(逆に、本来の自分の姿に戻った直後は、自分の加齢臭に驚かされる)。これらはある種の『枷』なのかもしれない。それらを意識するたびに、自分が救いようも無い不埒な大罪人だと思い出させるための責め具。


 瑠璃色の光を放つコンパクトを閉じ、それを自身の胸元に押し付けた。コンパクトは溶けるように薙乃の身体に沈み込み、消えてなくなった。どういう訳だか、この変身に使用するコンパクトは薙乃の体内に収納出来る。


 シャワーを浴び、身体の汚れを落とす際は、努めて淡々と、自分の身体の構造など意識しない様に、『作業』として遂行する。

 必要最小限の洗浄を手早く済ませた明悟は、浴室を出て、脱衣所にてタオルで身体を拭く(あくまでも作業として)。それを終えると次には着替え。研究チームの女性陣と秘書による入念な打ち合わせの結果選定された、シンプルだがささやかなフリルで飾られた濃紺のショーツを穿き、揃いのブラジャーに胸が収まる様に調整しながら身に付ける(両脇から中央に寄せてブラ紐の張り具合を調整する。自身の眼下に凶悪な胸の谷間が構築される作業をあくまでもあくまでも淡々と行う)。

 ショーツの上に黒のスパッツ(無論、女性用)を穿き、灰色のキャミソールを着て洗面台の前に立つ。ドライヤーを手に取り、モーター音とともに発せられる熱風に黒髪をなびかせて、残った水分を飛ばす。


 明悟は鏡の向こうの、憮然とした表情でドライヤーを使う下着姿の少女と目を合わせた。


 客観的に言って、美しいと思う。


 女性的な蠱惑的な曲線の中に少女のしなやかさを残した身体、端正な顔立ちと切れ長の眼は、恐らく多くの者が目を見張るだろう。それは男だけでなく女性でさえも惹き付ける、絶対的な造形美でさえあるのではないかと思わせる程。


 明悟は、この美しい自身の擬態を目にする度、胸を締め付けられる思いがする。これは可能性なのだ。自身の孫娘、『鶴城栄美』が手にするはずだった可能性。栄美の成長した姿だったかもしれないモノなのだから。自らの孫娘の輝かしい未来を奪い取って今の自分がここにあるという考えが、どうしても拭い去れないのだ。

 無論、それは正しい認識では無い。しかし6年前のあの時、自分が何もしてやれなかった無力な大人だった事は動かし様の無い事実なのだ。やはり、この美しい姿は枷なのだろう。


 ドライヤーを止め、黒髪に手櫛を通す。ちゃんと渇いている。


 明悟は、自責の念を振り払った。自分は『鶴城薙乃』を演じるのだ。薙乃が薙乃自身の身体に違和感を持つなど不合理だ、違和感など抱いていない風に振る舞わねばならない。己の数多の罪を弁護する気は無い。そしてそれを理由に立ち止まる良心も贅沢も、もはや自分は捨ててきたのだ。


 ……出来る事を少しずつやるしかない、自身を叱咤した明悟は棚の上の着替え、白い長そでのブラウスを手に取った。背広のワイシャツに似た着心地のそれに袖を通し、長髪がブラウスの内側に入り込まない様にかき上げてからボタンを留める。

 次に濃い灰色と黒のチェックのプリーツスカート。脚を通して腰まで引き上げ、ブラウスの裾をスカートの内側に押し込み、腰のチャックを引き上げホックを止める。


 再び鏡をチェック。扇情的な身体の曲線はある程度隠され、肌の露出も急激に減り、鏡で自身の姿を見る際に感じていた燻るような罪悪感もいくらか緩和された。しかし、鏡の中の少女の魅力が失われたのかと問われればそんな事は無く、逆に制服姿により、女子学生の凛とした可憐さが最大限惹き立てられていた。


 ……この姿が自身の孫の現身である事はさておき、『鶴城薙乃』の容姿を自覚する度に明悟は戸惑いを覚える。こんな美しい姿に成長してしまった少女というのは普段一体何を考え、どういった在り方で世の中と向き合っているのだろうかと、明悟にはそれが全くイメージできない。七十歳過ぎの老人である明悟は、孫ほど年齢の離れた少女(というか孫そのもの)に性的な興奮を抱く事は最早無いが(ただ、シャワーや着替えの際は、居た堪れない気持ちでいっぱいになる)、若い男、男子の同級生達がこの制服姿の薙乃を視てどのような感情を抱くかは嫌と言う程理解出来る。


 いや、多分、美しく生まれたからといって、それが特別であるという事は有り得ないのだろう。どのように生まれてもただ長々と自分の人生が続くだけなのだ、人は誰しも自分の生き方しか知らない。ただ、今の容姿、怜悧な相貌としなやかな黒髪、豊満かつしなやかなプロポーションを隠そうとしても隠し切れていない潔癖な学生服姿の美少女が世界に(というか男共に)与える影響力の絶対性を、それをただ長い人生で客観視していただけの老人鶴城明悟がそれを手にしてしまった事で戸惑ってしまっただけなのだ。多分これは抱く事すら不合理な疑問。自らの容姿に疑問を抱かずただのびのびと自身の人生を謳歌する栄美の姿が目の前にあったなら、明悟はただその眩しさに目を細めるだけだっただろう。そうすれば、『美しく成長した少女の世界観』などというモノを苦労して想像する機会など有り得なかったはずだ。そんな疑問を持つ事が出来ない点はほんの少しだが寂しくはある気がするが、確実に今よりずっと健やかで尊い日々を送れていたのは間違い無い。


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