第2話 私の弱味は、春子の強み
「……え」
静寂の後、私が満を持して発した声。
「……えええ?」
どうしてあんたがここにいるの、とか、そんなところに居ると危ないよ、とか、いやいや、不法侵入で通報するね、とか、その他諸々言いたいことはいっぱいあれど、こういうときに限って上手く言葉が出てこない。
気づけば私は、春子の腕を引いて校舎の中に引きずりこんでいた。
「……えええ」
校舎の灯りに照らされて、春子の顔がなんの表情も示していなかったこと、それなのに黒目がちな両目から、はらはらと涙が落ちていたことに驚いて、再び間抜けな声をあげる。
それにしても、どうしたものか。自殺しようとしていた女を拾ったは良いけれど、誰に保護してもらうのが正解なのだろう。警察? でも、そんなことをしたら、ただ死ぬためだけに母校に無許可で侵入したという理由で春子は責められるかもしれない。そんな面倒な話、あるか? 病院? 精神科に連れていこうか? 閉鎖病棟で見張っていて貰えれば、彼女は自殺しないかも。でもそれって、意味ある?
不思議なのは、このとき私の中で「ハルが死にたいのなら、好きにさせれば良くね?」という考えが浮かばなかったこと。――あとで冷静になって考えてみれば、私と春子はその程度の仲でしかなかったのに。
「原田先生ー、東棟の見回り、終わりましたよ」
下の階から声が聞こえる。東棟の見回り担当だった三島先生は、今年からこの学校で勤め始めた、国語科の男性教師。
「……ありがとう。すぐ終わるから、先に職員室戻ってて」
今の春子の姿を見られるわけにはいかない、と直感的に思った――いや、見られるわけにはいかないというよりも、こんなボロボロの春子を男に見せるなんてとんでもない、という私の勝手な完璧主義な価値観、美学の一種がそれを許さなかった、といったところか。
「……いい? ハル。これから、私の家に帰ろう。ここから先、学校の職員にあったら、私と待ち合わせをしていて、早く着いてしまったから私が迎え入れたことにするからね」
再会して30秒で、私は必死だった。どうしてこの女のために、この私がヒヤヒヤしなければいけないのか。それなのに、当の春子はというと、相変わらずの無表情っぷりで私の後を着いてくるのであった。お前だよ、お前のせいだよ、お前がどうにかしろよ。頭いいんだから、ここからの打開策、考えてくれよ。
「原田先生。……その方は」
ほら! どうするよ。
「教頭先生。……あの、ハルは」
私の致命的な欠点。それは、いざというときに全く口が回らなくなってしまうことだった。緊張、焦り、怒り。こういった感情は、私の言語野を眠らせてしまう。
しかし、こういう状況に強いのが、また、春子なのであった。
「佐伯先生。……教頭先生になられたんですね。覚えていらっしゃいますか? 私、永野です」
「永野さん! もちろん、覚えていますとも。原田ちゃん……原田先生と同級生ですもんね、もう卒業して十年以上? 早いものね」
佐伯先生は、私たちが中学三年生の頃の担任だった。春子を覚えていない担任なんて居ないだろう。彼女は典型的な優等生、成績もトップ常連だったのだから。
「永野さんは、これまたどうしてここに?」
ヤバいって。
「今日、実はミウと待ち合わせしてたんですよ。……でも、あまりに遅いから迎えに来ちゃって。それで、外は寒いからってミウが入れてくれたんです。先生、ダメですよ。ミウを働かせすぎちゃ」
冗談まで交えて、それっぽく纏める能力が高すぎて笑えてくる。……と思ったものの、よくよく考えてみれば、これはさっき私が必死に考えた苦しい言い訳以外の何物でもなかった。
そう、どんな無理な言い訳や理屈、詭弁であっても、春子が口にしたというだけで、妙な説得力が加わるのだった。
人が居なくなれば、春子は先程までの無表情に戻る。これ、本当に助けて良かったのだろうか、なんて思いつつ、私は業務日誌を簡単に済ませ、春子を連れて中学を後にした。
「あ、ご心配なく。私ね、社会人になってから一人暮らししてるから、親に遠慮する必要はないよ」
わざと明るく声をかけようが、彼女はなにも言わない。なんだこいつ。
中学から、ドアツードアで約30分。23区内の某所に佇むアパートの一室が、私の帰る家。社会人三年目に突入する直前に移り住んだので、少し金銭的に余裕があった。そのため、1DKの少し広めの間取りになっているのが、本当に救いだ。……ここなら、なんとか春子を泊めることができるかもしれない。
「では、いらっしゃい」
「……お邪魔します」
とりあえず、こういった状況においても、ちゃんと挨拶をする辺りは、さすが春子といったところ。基本的に、育ちが良いのだ。
しかしドアを閉めた瞬間、私は考えを改めるのだった。
――ぴしゃり、という乾いた音。
――頬に走る、ぴりりとした痛み。
しかも、そのどちらもが過去に経験した記憶のあるものだった。
春子のビンタは、まあまあ痛い。そのことは十年以上前に、しみじみと感じたことだった。
「ミウのせいよ! ミウが、あんたがハルのことを助けたりするから、死ぬのが怖くなっちゃったじゃん。――どうしろっていうの? ハル、会社も辞めたし、持ち物だってほとんど処分して、貯金の入ったカード類は遺書と一緒に実家に置いてきた。今日のために準備してきたのに、あんたのせいで台無し」
笑えてくる。死ぬつもりだったくせに、律儀じゃん。残された人にかかる手間、20代の三年弱で稼いだなけなし(と思われる)のお金をどうするか、なんて考えられるほど冷静なら、逆によく死ぬ気になったな、なんて。
私は、黙ってキッチンへと向かった。コップに一杯の水を汲む。
そして、それを春子の顔面にぶちまける。なんなら、このシチュエーションだって、いつだったか、似たような経験がある。――あの日と同じように私を睨む。しかしこいつ、どうして毎回マトモに水を浴びるんだよ。ちょっとは避けろよ。
「るっさいわ! どうせ死ぬつもりだったんだったら、イチイチ他人に突っかかるんじゃねーよ、死にたがりの中学生か? 第三反抗期来てんのか? 私だってもう社会人なんだよ、拾ったもんくらい自分でどうにかできるって勝算くらいなけりゃ、こんなことしないっつーの。……あと、いい年こいて自分のこと『ハル』って言うのやめろよ、フッツーにウザいから」
普段はあまり口が回らないくせに、春子に対して物を言うときだけ、悪口のレベルが高くなる。――私も私、中学生の頃から変わってねーわ。先生や、生徒たちが見たらびっくりするだろうな。彼氏は、たぶん全然驚かないだろう。
「……だって」
そうして、春子は泣き崩れた。だって、の後に言い訳が続くことはなくて、私はただ、彼女が美しい涙を落とすのを眺めるだけだった。
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