第2話 夢で逢えたら
真っ暗な世界、深海のような光という存在が忘れられたような完璧な暗闇。
しかし不思議と恐怖はなく、むしろ穏やかな気持ちに包まれる。
なにも考える必要がない。
真っ暗な世界と体が同化し、現実世界から切り離され、背景として世界を見つめている。
そんな深淵の世界に綻びが見え始める。
音だ。
聞き馴染みはあるが、歓迎をしていないそんな音が徐々に、だが確実に僕の世界を破壊し始める。
僕の世界は簡単に崩壊し、僕は分離され、一人のちっぽけな人間に戻る。
人間に戻ったところで、僕の思考はハッキリしてくる。
「(そうだ、起きなくては。)」
僕は瞼を開く。
見覚えのある天井と目が合う。
「あれ、僕は天使と会っていたはず……」
辺りを見回す。
昨日の夜を引き継いだ僕の部屋は、なにも変わることなくそこにあり、何一つとして変化は見受けられなかった。
「ああ、夢か……」
良いことしたからポイントが溜まって願いが叶う。
今時幼稚園児でも喜ばないようなベタな設定に、僕は心から期待をしてしまっていた。
落胆しながらも僕は仕事に行く準備を始める。
昨日と違い、今日は余裕がある。
朝食を作り、顔を洗い、スーツに着替え僕は外へ出る。
昨日準備しておいた資材ゴミを片手に持ち、ドアを開く。
ドアになにか張り紙が貼ってあることに気付く。
『ありがとうございます。助かりました。』
昨晩、お隣さんに資材ごみの日を伝えた感謝の返信が張り紙でされていた。
お隣さん気付いたみたいでよかった。
僕はその張り紙を丁寧に折り畳み、スーツの内ポケットにしまいこむ。
イヤホンを耳に入れて、音楽プレーヤーの電源を入れる。
僕はパンクロック系のバンドを選び、曲を流す。
軽快な音楽と僕の足取りは比例することはなく、重く歩みは遅かった。
僕は仕事を始めて3年目になった。
とりたててやりたい仕事でもない仕事を、何のためにやっているのかもよくわからず作業のようにこなしている。
そんな毎日にいつも嫌気がさしている。
何かが変われば、そんな願望を常に思いながら、変わらない日常に溜息をつきながら過ごす毎日。
「はあ。」
大きな溜息をひとつ吐き出してから、覚悟を決め、再び歩き出す。
会社に着くと、昨日の朝とは違い、人もまばらで雰囲気も穏やかだった。
「おはよー、今日は遅刻しなかったんだね。」
振り向くと、先輩の八嶋さんがそこにいた。
八嶋さんは今日は茶色い髪をポニーテールにして、いつもと変わらないハッキリとしていて、綺麗な目で僕を見上げていた。
「さすがに、二日連続はないですよ。」
「木田くんならやってくれると密かに期待してたんだけどなー。」
「勘弁してください。」
「そうだ。木田くんコーヒー飲む?入れてきてあげよっか?」
「え……いや、申し訳ないんでいいですよ。むしろ僕が八嶋さんの分も入れてきますよ。」
「えー、いいよー。あっ!じゃあ一緒にコーヒー入れにいこっか。」
「え……あ、じゃあ、ご一緒させてもらいます。」
八嶋さんは軽く俯き、嬉しそうに笑った。
給湯室で八嶋さんは手際良く二人分のコーヒーを入れる。
「はい、どうぞ。あっ!ところでなんだけどさ。繁水さんが言ってたことってほんとなの?」
「あ、ありがとうございます。えっと、どの話ですか?」
「昨日遅刻して朝来た時に、女でも作って癒してもらえーって言われてたじゃん。あれって彼女はいないってこと?」
「ああ、はい。残念ながら彼女いないんですよ。」
「そっかー。じゃあ、私が癒してあげよっか?」
「……」
唐突の流れに思考が追い付かず、僕はなにも言えなくなってしまう。
八嶋さんはただ黙って僕の目を見つめて、僕の答えを待っていた。
「そ……それは、どういう意味ですか?」
僕は声が裏返りながらもなんとか答える。
「どういう意味って、言葉のまんま。」
僕はまた答えに窮してしまう。
長考し苦し紛れの一手を打っても、すぐにまた攻められる。
まるで将棋の名人と素人が将棋を指しているようだった。
「おはよさーん。お!木田!ちゃんと来てんじゃん。」
給湯室に突然現れたのは、先輩の繁水さんだった。
「そりゃ二日連続はしませんよ。また繁水さんにいじられるし。」
「おっ!て事は俺が昨日いじったおかげで今日起きれたって事だな。じゃあ俺のおかげだ。なんか奢れ。」
「嫌ですよ。別にいじられずとも遅刻しないで来ますし。」
「まあ奢るのはいつでもいいからなー。てか八嶋ちゃん今日は朝から元気ないね?生理?」
「繁水さん、そういうのセクハラなんで訴えますよ。」
「おー、怖い怖い。さーて仕事しますかなー。」
繁水さんはそのまま給湯室を後にしようとする。
まずい。このまま二人きりになったら、物凄く気まずい。
「あ、繁水さん、待ってくださいよー。」
僕は繁水さんを追いかけるように給湯室を出る。
八嶋さんがどんな表情をしていたかは分からなかったが、なんともいたたまれない気持ちになった。
始業開始のチャイムが鳴り、午前中の仕事が始まったが、僕は全くと言っていいほど仕事が手につかなかった。
八嶋さんとの朝の出来事が脳裏に焼き付いて離れない。
あれはどういうことなんだ。禅問答のような問いが頭の中をグルグルと駆け巡る。
僕は結局午前中の仕事の1/3も片付けられずに、正午のチャイムを聞くことになってしまった。
八嶋さんからの視線を感じたが、僕は逃げる様に自席を立ち、隣の部署の海東のもとへと向かった。
「おう、今日は早いなあ。」
いつも通りのマイペースな海東に僕は安心する。
「今日はイタリアンだろ。そら気合いもはいるだろ。」
「ああ、そういえばそうだったな。」
海東は僕の苦し紛れの言い訳も、特に気に留めない様子だった。
僕らは会社を出て、例の、東条さんが入っていったイタリアンへと足を踏み入れる。
店構えもオシャレで、初めて美容室に行くときの様な緊張感が全身に巡ってくる。
海東は素知らぬ顔をして、イタリアンのドアを開く。
店内は意外に広く、若い女性客やカップルなどが多く入っていた。
天井が高く、インテリアの一つ一つもデザイン性が高くお洒落な店内だった。
僕がキョロキョロと辺りを見回していると、モデルでもやってるのかと思うほど綺麗な顔をした、ウェイターさんが僕たちを席に案内してくれた。
ウェイターさんは今日のランチメニューなどを丁寧に説明したのち、深々とお辞儀をして席を後にする。
僕はようやっと落ち着きを取り戻し、海東に話し掛ける。
「やっぱ、こういうところは緊張感がやばいな。」
「お前、緊張しすぎ。別に普通の飯屋だろ?しかしこんな小洒落たとこで飯食ってるやつらは承認欲求の塊なんだよ。味なんかどうだって良くてこんなおしゃれなとこでご飯を食べるあたし素敵って思いこんでるバカどもだろ。」
「海東・・・・・・・お前声が大きいよ。」
「誰も聞いてやしねぇよ。自分に酔ってるからな。それよりこのスパゲティすげぇ高けぇな。こんなんサラリーマンの食える値段じゃねえよな。」
海東はメニューを小馬鹿にしながら注文を考えていた。
僕は雰囲気にのまれて、メニューどころではなかった。
「まあこの一番安いランチセットでいいか。どうせ高いやつ食っても安いやつ食っても舌が肥えてないから一緒だろうしな。」
「じゃあ僕も同じのにするわ。」
「よしっ!すんませーーーーん。店員さーん。」
海東は居酒屋と同じテンションで、ウェイターを呼ぶ。
周りの人たちが僕らのテーブルに目をやる。
間違いなく僕らは場違いな存在だった。
「この、ランチセットを2つで。」
海東はなにも気にしない様子で注文を済ましていた。
「てかここってタバコ吸えねぇのかな?」
「入口に禁煙って書いてあったよ。」
「マヂかよ。昼休みにタバコ吸えないとか地獄かよ。」
僕は特にそれには答えなかった。
「そういや。東条さん今日はいないみたいだね。」
「ん?ああ。まあ毎日はいないだろ。」
「そうかーお近づきになろうかと思ったんだけどな。」
「無理無理。同じ店で飯食ってお近づきになれるなら俺は芸能人のいるレストランに張り込みをするね。」
「まあそうなんだけどさ。あ、そうだ。」
僕はわざとらしくいま思いついた話みたいに、話を切り出す。
「これは友達の話なんだけどさ、職場の女の先輩に自分は彼女がいないんですって話をしたら、私が癒してあげよっか?って言われたんだけどこれってどういう意味かな?」
「なにそのAV。夜のオフィスで激しく乱れるOLモノか?」
「おい。真面目な話なんだよ。」
「そらもうそのままの意味だろ。彼女になってあげよっか?って意味だろ。」
「やっぱそうだよなー」
「その女の先輩っていくつくらい?」
「27歳かな。」
「ああ。じゃあやっぱそうだ。女は25すぎるとエロくなるからな。そら寂しい夜が続いて職場の後輩にムラッときたってとこだろ。」
「え。そういうもんなの?」
「ああ。俺の読んでるエロ情報雑誌に書いてあったぞ。」
「その情報は正しいのかよ。」
「まあとにかくそんなおいしい話ねぇんだから乗るっきゃないだろ。そう友達に言っとけ。」
「お、おう。」
しばし沈黙があり、タイミングを見計らったかのようにウェイターが注文を運んでくる。
パスタとサラダとスープがついたランチセットが僕らのテーブルに綺麗に配置される。
「意外にボリュームありそうだな。舐めてたわ。」
「たしかに。」
僕たちはランチセットを無言で食べ始める。
店内にかかるおしゃれなクラシックが、耳に心地よく入ってくる。
いつも行く定食屋のFMラジオとは雲泥の差だ。
こういうお店でランチをするのも悪くないな。
僕らは優雅な食事を楽しみ、食後のコーヒーで一服を済ませる。
「悪ぃ。ちょっと小便いってくらぁ。」
海東が席を立つと、僕は店内に流れるクラシックを聞きながら、窓の外を眺めていた。
外はいつもの見慣れた風景が広がっている。けれど今日はその風景も穏やかな顔を見せていた。
「あの。すいません。」
「ふぇっ!?」
優雅な気分に浸っていたところに急に話しかけられたので、僕は驚いて変な声を出してしまう。
振り向くとそこには肩までかかる艶やかで綺麗な黒髪に色白で目鼻立ちがハッキリした、まさに美女という女性が立っていた。
そう。僕の会社のアイドル東条さんだった。
続く
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