朱色の鬼姫

鹿(シカ)ちゃん

―序章   五色鬼の封印

深々と雪が降る中、冷気で悴んだ手はとうに体温を失っていた。

吐き出す息は白く、その場に佇んでいるだけで吹雪く風が肌を切り裂くような感覚が襲う。


「はぁぁぁぁぁ!」


視線の先は暗闇が広がる空中がある。

突如、双方から迫る無数の火玉が衝突し合い紫色の火花を散らし霧散していった。

京の都を一望できるほどの上空から落ちるように降りていく人物に対して、青色の火玉を繰り出した女はすぐさま人差し指と中指を手刀に模して軽く唇に触れる。

聞き取れないような小さな声で短縮された詠唱を唱えた。

途端、女の背後に無数の青い火玉が現れる。

地上に降り立った標的に向けてそれらは規律の取れた一斉射撃の矢のように発射され、男を襲った。


「ちぃぃぃぃっ」


女の間髪を入れない攻撃に不快感を露にする男は向かい打つ詠唱の時間が無いと判断すると右腕を振り上げる。

突如、赤い火玉が現れて青い火玉を向かい打つ。


「くっ、また無詠唱か…」


その様子を上空から女は忌々しげに呟き、目を眇めた。

この戦いが始まってからというもの再三に渡り、この無詠唱による『術』の発動により阻まれることがあった。

本来『術』の行使にはその『術』特有の詠唱が必要となる。

今しがた女が使用した短縮詠唱は『術』を出現させるに必要な詠唱を通常よりも遥かに短い時間に縮められるという代物だった。これを会得できる者は古今東西ありとあらゆる全ての術を会得した術師の中でも特に才能に溢れた一握りの天才にしか構築できない理論構造の産物なのだ。

しかし、男はこの理を無視していた。

何も無いところからの『術』の出現。

それについて女はこの戦いの中ずっと考え続けていた。

男が使用したのが『術』であるのならそれは内蔵式かそれとも貯蓄式か。あらかじめ自分の中で発動させた状態の『術』を持っていればほとんど時間がかからないというのが内蔵式、それに対して、大気の中に存在する『言霊』から『術』の構成要素を適宜引き出すことで詠唱の時間を限りなく零に近くするのが貯蓄式だ。否、どちらにせよ発現に対する時間差が存在する。男のように何の詠唱も無く発現することができるという条件に合致するものは女の中には無かった。

だとするならば、出せる答えは一つである。

もうそれは『術』ではない『何か』である。

「まったく厄介な能力だよ。一体どんな論理で動いているんだ?」

睥睨するように上空を見上げる男はその言葉に答えずに不敵な笑みを浮かべた。

「答えない、か…」

女の独り言に聞く耳を持っていないのか『術』ではない『何か』を行使する男は直線的で高速に射出された赤い火玉を寸分違わずに迫り来る青い火玉にぶつけた。それはもう幾度となく繰り返した過程である。その後の流れはこれまでと同じものだった。

衝突しあい相殺して、青色と赤色の火玉は一瞬、混ざり合って紫色の火花となり京都の空に消えていく。

女はその様子を見ることも無く、次の手を打つべく再び短縮詠唱へと移行した。

再び、背後に青い火玉が現れる。今度はさきほどの倍以上になるだろうか。数は五十にも及ぶ火玉が女の号令一下の元、男を襲った。

「無駄だ。その方法では俺を倒すことはできん!」

男は怒りを剥き出しにして叫んだ。

実力は互いに伯仲しているように見えた。

男は無詠唱がありどんなに不利な状況からでも即座に対応してしまう。

女は上空での戦闘に秀でているために男の攻撃を縦横無尽に回避するのだ。

双方は共に平安の時代を代表するにふさわしい術者だというのに、このような術比べはまるで児戯に等しかった。そして、何より男はもう幾度となく防戦を続けていることに辟易している様子だった。

「そんなことは分かっているさ。だが、もう少しだけ続けさせてもらうぞ」

女は言うや否やまた青い火玉を発射する。今度は曲線を描きながら男を襲う。意志をもったように左右から同時に飛んでいく。

男は瞬時に弾き飛ばすべきか、そっくりそのまま女に返すか考え、上空に浮遊する女を見た。

浮世離れした美しさをした妙齢の女性だった。黒色の長い髪を白い紐で束ね、唇には薄い紅を差し、青磁にも似た白い肌をしていた。身には周囲の銀世界と同じ白い狩衣を纏い、足には浅沓という井出立ちだった。

「ふんっ」

男は鼻を鳴らし、空中に浮遊している女を睥睨する。


男には女が狩衣を身に纏う姿が滑稽なものに見えていた。

それは女の姿は男とまったく同じ服装をしていたからだ。それが意味するところを知っている男にとっては尚のこと滑稽に思え、そして業腹だった。


「児戯に等しい小競り合い。不愉快だ。茶番に意味は無し。いい加減に本気を出せ。出さぬのなら幕を引くまでのこと」


男は迫り来る火玉の群を前に、大きく腕を振った。


無詠唱である。


男が火玉に向けて横薙ぎに腕を振ると火玉同士の方向が変わりお互いがぶつかり始めた。男の目の前でお互いの火玉が爆ぜる光景を目の当たりにして女は顔色を変えた。


「馬鹿な⁉」


他人の『術』に対しての介入などできることではない。『術』はその者が持つ独自の論理で構築された結晶である。それに外部から割り込んで変更するなど、例えできたとしてもこの激戦の中で解析などできるものではない。

爆炎の炎が上がり、辺りは黒煙が立ち込めた。


「いい加減に、俺を見下ろすのは気に食わぬ」


男は、スウ、と息を吸って


「“降りろ”」

「⁉」


男の声は、まるで耳元で鳴ったように聞こえた。

『言霊』である。

言霊による行動干渉に於いては向こうの方に分があるらしく、女は地上に急に引っ張られた。重力による落下に加えて何か大きなものに引きずり込まれるような感覚に全身の骨が軋むのを感じる中、女は瞬時にできる限りの火玉、計三発を男がいるはずの、薄れていく黒煙の奥に向けて放った。


「っ!」


男の苦悶の声が響いた。

どうやら当たったらしい。

落下の速度が弱まるのを確認すると地上にぶつかる寸前に停止して緩やかに地上に降り立つとこの戦いの中、初めて与えたダメージを見た。


「どういう理屈だ…? 今まで当たらなかったというのに…」


そのことに喜ぶことは無く、男は次に巨大な術を使う、と女は直感した。

どういう理由で攻撃が当たったのかは定かではないが、言霊を詠唱した時から男から容赦無いほどの能力の波動が漏れ始めている。大地はすでに毛細血管のように奔る命脈が禍々しくも不気味な赤色に光り出していた。

男の強力な『術』が干渉して鳴動しているのである。

男は間違いなく短期決戦に持ち込んでくる。

女はそう読んでいよいよ本腰をいれた。


夜の間しか動くことができない男にしてみれば当然の行動とも言えた。

いつの間にか雪は止んでおり、東の空には明けの明星がその輝きを映し出し、空は全体的に白みだしてきては平安の世を照らし始めていた。


もう時期、朝日が昇るのだ。


男には夜の間しか行動できないという時間の制約がある。

それが女の唯一の活路であった。

黒煙の中から男は覚束無い足取りで転がり出る。火玉を三発も食らったというのに狩衣の上半身部分が焼けて、焼け焦げた上半身を露出しただけである。


「やはり、これでも倒れないのか」


普通なら、高熱の熱源体である火玉を生身に食らえば骨さえ残らずに燃え散り、生き延びるなどとは考えないのだが、この男に対して女はどんな状況でも気を抜くことだけはしないでいた。無論、これくらいでは致死には至らないことも考慮していた。

だが、実際はどうだ? 

今までは攻撃が当たらなかったにも関わらず、偶然にも当たったことを女は熟考した。

(あれは偶然だったのか?)

(それとも、何か理由があるのか?)

(そもそも、あの男に対して偶然が介在する余地があるのか?)

外見は物理的に攻撃を受けているようで、黒く焦げた上半身は再生が始まっていることを除けば、見ようによれば既に死に体ではないか。

そう思うと女は止めと言わんばかりに火玉を繰り出す印を結んだ。

それを皮切りに、同時に、男は九字切りの印を結んだ。

女が結んだ印よりも遥かに高度な印だった。

男は、昨日の日暮れとともにこの戦いが始まってからというもの術を唱える時間すら与えられずに防戦を強いられていたわけだが、丑の刻を過ぎたあたりから女が繰り出す術のキレが少しずつだが落ちてきていたのを知っていた。

見れば、女の顔には無数の汗とともに疲弊の色が浮かんでいた。黒髪の毛先の方は術が解けているのか茶褐色が混じりだしていた。


「平伏セ」

それに比べて男の方は、外傷は無数にあれども疲労の色は見せてはいなかった。

「顕現セヨ」

喉を焼かれ咽頭を失った男は声なき声で叫ぶと足元の地面に触れた。

「十二天将ガ一ツ」

女に戦慄が奔った。

「『朱雀』」

突如、男の周囲に円形の陣が浮かび上がり大きな光を放った。

一面に積もっていた白銀の雪はみるみるうちに円形状に溶けていき、瞬く間にその部分だけ地面は乾いてしまった。

強い紅蓮色の光が周囲を包み込む。

これまでの頭の大きさほどの火の玉とは比べ物にならないほどの大きな光だった。

その光で周囲が一気に明るくなる。

地面に浮かび上がった五芒星の陣の中から、嘴が出現していた。鋭い嘴、獰猛な瞳、そして紅蓮色の翼を持った巨大な鳥であった。

それはまるで殻から這い出るように翼をばたつかせながら暴れていた。

朱雀と呼ばれた鳥が羽ばたいた余波により境内中にあった雪が溶けるのを女は見ることもなくその姿に釘付けになった。

羽ばたく熱波を顔に受け、髪の毛の先端が燃えるのも厭わず、声も出ないほどに見入っていた。


美しい、と素直に思った。

朱雀とは南方を守護する神獣。

鳳凰の姿を模した紅蓮色の鳥である。

伝承には聞いていたが実際にこの目に見ることができるとは思っても見なかった。


「朱雀ノ神炎ニ焼カレテ黄泉ノ世界ニモ行ケヌヨウニ魂ゴト滅却シテヤロウ」


男は勝利を確信するべく豪語した。

その強大な力は先ほどの火玉の比ではなかった。

雄々しき紅蓮色の鳳凰は字面の如く朱色の雀とは名ばかりに獰猛な性格をして、漏れ出す声は大地を揺るがしていた。

朱雀。

またの名を炎帝。

朱色の死をもたらす美しき怪鳥である。

それを前に太刀打ちできる者などいなかった。


そんな状況の中、女は不意に不敵な笑みを浮かべていた。

「…準備は整った! お前が『四獣』を召喚するのを待っていたぞ」

女は男の足元を見ると何かを決意した顔で隆起する地面にたたらを踏み、こぼれ落ちないように身を低くしがみつきながら叫ぶと先ほどよりも早く印を結んだ。

男の結んだ印よりも遥かに早く、それでいて男にはあの印には見覚えがなかった。

「無駄ダ、何ヲシヨウト朱雀ニハ勝テン!」

「果たしてそうかな? お前が今いる場所を見てみろ」


召喚の儀式は今まさに終えたのだ。

朱雀が出現すればもはやどんな小細工も通用はしない。

そのことは女も承知していた。

朱雀は女を燃やし尽くしたところできっと収まらないだろう。

このまま京が丸々焦土となるまで飛び回らんとする獰猛な鳥は女を視界に捉えてけたたましいほどの雄叫びを浴びせた。

雄叫びに呼応して、巨大な火柱が境内の地面から湧き上がり、社や建造物に引火し、すぐに焼け落ちてしまう。

そのため周囲はよく照らされていた。

なので、男はすぐに気がついた。

「ナンダ…これは?」

男は先ほどの火玉の攻撃を全て回復し終えた目で、何かが足元の地面に刺さっているのを見つけた。

小刀の先に白い紙のようなものが幾つも刺さっていた。

足元にある一つを拾おうとして、それが先ほどの爆炎に負けることなく地面に深く縫い付けられるように刺さっていることに気がついた。


「これは…護符か?」

それからは、微弱な、集中しないと感じ取れないような、それでいて、この戦いにおいて歯牙にもかけないような小さな力しか感じなかった。


「それは元々生まれながらにして能力に長けていたお前には必要の無いものだよ。そいつは、元は小さな『封』だ。大地の命脈と呼応するように私が少し弄ったやつをその辺りにあらかじめ仕込んでいたんだ。案の定、お前は地脈を活性化するような召喚をしたわけだ」

「『封』…だと」

『封』。

それは陰陽師なら最初の頃に習うものだと男は思い出していた。

清い半紙に『封』と一文字書いて折る。

それを布に入れておくと邪鬼を近寄らせないという呪いである。

一般にも浸透している簡易の祈り紙。

これのまたの名を『御守り』と呼び、市井の民はありがたがる。


この戦いを侮辱しているのか、男はそう言おうとして異変に気付いた。

いつの間にか、大地の鳴動は止み、先ほど前から隆々と立ち上っていた紅蓮色の火柱は苦しそうに弱弱しくなり、炎の怪鳥はその場に倒れそうになるのをのた打ち回っていた。ほとばしる火炎を口から吐き、熱の塊である灼熱の羽を周囲に撒き散らしながら羽ばたかせる。周囲の木々や建造物は鎮火し、煙が上がっている。

その様子に、男も狼狽を隠せなかった。

「貴様、何をした⁉」

完全に体勢を崩した朱雀は地面に倒れこむと鼓膜を劈くような苦しげな声で何度も鳴いた。その声は次第に薄れて行き、やがて朱雀の顕現が収まり、消失してしまう。

辺りに静けさが戻り、肌を照りつけた熱気は消え、冷えた風が頬を撫でる。

しまいには朝日が昇る前の仄かな暗闇が広がった。

「…どういうことだ。こんなことがあってたまるか!」

男は再び、九字の印を結ぶも反応がなかった。

こんなことがあるはずがない。

「ま、まさか…、この『封』は」

「そうだよ。その『封』は朱雀に使ったわけじゃない。術者であるお前に使ったんだ」

「人間に『封』が通用するものか」

その言葉を吐いた途端、男は背中に冷や水がかかる思いがした。

「おいおい、お前はすでに人間じゃないだろう? 常世と幽世の境界線を何度も行き来したお前にはこいつはとても効果があるだろうさ」

『封』

それは、邪鬼を近寄らせない御守りである。

言うが先が、自分のそばで何かが落ちたような音がした。

視線を這わせて見てみるとそれは男の左腕だった。

「ぐぅぅぅぅぅぅ!」

男は苦悶の表情を浮かべていた。

男は膝を折り崩れ落ちる。

激痛という感覚はすでに自分の体からは除去されていると思っていた。咄嗟に、右手で切断面に触れ回復を試みるも虚しく、左肩から根こそぎ落ちた。落ちた腕はみるみるうちに肉が落ち、骨になっていた。

それだけではない。

吹く風に髪は抜け落ち、肌は溶け、目玉が落ちる。

右腕などとうに骨となっていて、くっついているのが嘘のようだ。


音を立てながら腐り落ちる肉の臭いが周囲を包み、女の鼻腔に触れた。

女にはもう戦う意志がないのか腕を下ろして悄然と佇んでいた。

疲労が滲んだ顔には一滴の涙が伝っていた。


すでに勝敗は決したのだ。


「…痛みはあるか?」

しばらくして、女は問う。

その顔には幾ばくかの憂慮の色が浮かんでいた。

「いや、ないな。だが悔いはある」

「そうか」

男は答える。

もう骨しか残ってはおらず喉ももうじき溶け落ちる頃合いだろう。

肉はもうどこを見渡しても残ってはいない。

「万物の理を知ったと思っていた自分が憎い…」

「そうか」

「幽世の者に成り果てても、己の道を進めなかった自分が憎い」

「そうか」

「…俺は死ぬのか?」

「お前を殺しきることは私の力ではできないよ。それにもしも殺したとしてもお前は時間が経てば死者の国より舞い戻るからな。悪いが封印させてもらうぞ」


「そうか。また死ねないのか」


女は優しく、親しげに頷いて、静かに封印の詠唱を始めた。

「梨花にはまた会えないのだな…」

男は、女の懐かしい声に傾聴した。

「生半可な結界では俺は封印できんぞ」

「これはお前専用に編んだ新しい結界だ。こいつは厄介だぞ。少しはこれで時間を潰しながら頭を冷やせ馬鹿者」

「ほう、なら回復するまでの間、解読してやるとするか…して、この結界の名は?」

「名前は先ほど思いついた。『五色鬼の封印』という」

「…『五色鬼の封印』か。想像するあたりこれから先が思いやられるな」

「そうだな。まぁ、しばらくは上手いことやるさ」

詠唱も終わりを迎える頃、日の出は余すところ無く男を照らした。


そして、どちらかが言った。


「では、さらばだ。安部清明」

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