4. バラバラ

 自宅に帰ると、冴良の靴が玄関に転がっていた。いつもは丁寧に並べられているのにと引っかかりながら上がり框に足をかけると、冴良が仁王立ちして現れた。

「このバカ!」

 投げ込まれたランドセルがしたたかに鼻面を打った。油断しきっていた。鼻の中で何かが切れる嫌な音がした。

 ランドセルは床に落ちてノート類を吐き出した。赤い線で汚れていて、一瞬鼻血のせいかと疑う。よくよく見ればペンで「暴力反対」と書かれていた。手に取ってみると、それが一番穏当な落書きだとわかった。

 顔を真っ赤にした妹が語るには、学校の中でも僕の動画が有名になってしまったらしい。暴れている僕のことを誰かが冴良の兄だと明かしてしまい、危険人物の身内である冴良は、それ相応の仕打ちを受けることになってしまった。

「誰が余計なことを」

「知らないよ。それより、私は何も知らなかったんだけど」

 冴良の表情はすっかり崩れていた。鼻を赤くした泣き顔は、父に離婚を告げたときの母の顔によく似ていた。あれ以来母が泣く姿は見ていない。僕自身は、ほとんど泣いた記憶がない。泣いたら妹たちのように真っ赤になるのだろうか。

 鼻血がおさまってきて、詰め物だったティッシュを取り出し、丸めて屑籠に捨てた。妹はまだ鼻をすすっていたが、呼吸はだいぶ落ち着いてきた。

「とにかく私は何も悪くない」

 冴良は小さなこえで繰り返していた。

「もちろん、そうだよ。全部お兄ちゃんのせいだ。ごめん」

 謝る言葉をいくら重ねても、沈鬱な空気は埋められそうになかった。

 リビングの窓の外はすっかり夕焼けに染まっていた。開けっぱなしだったカーテンを閉める最中、向かいの棟の明かりをしばらく見つめた。夕方になっても、点っているのは半分くらいだ。部屋の広さは僕たちのと変わらないだろう。そこで繰り広げられている生活はどうなのだろうか。薄汚れた灰色の壁に区切られた中庭のしなびた樹木を見ていると、幸せな家庭などどこにもないような気がしてくる。

「散歩してくる」

 いたたまれなくなって、そう言った。冴良は冷たい目を向けてきた。

「夜遊びする人は悪い人だよ」

「ただ歩いてくるだけだって。ご飯には戻るから」

「誰もぶたないでね」

 冴良は真剣な顔をしていた。あまりにもまっすぐで、心苦しくなった。そのような目を向けてくる人は、今となっては冴良しかいない。

「うん」

 そういっても、冴良は眉間のシワを解いてはくれなかった。


 外は気怠げな空気が充満していた。密度の濃い夏の匂いの中で、風だけが柔らかかった。

「君は妹には甘いんだね」

 リリィが僕のすぐ横で蜉蝣かげろうのように浮いていた。月光を受けて、うっすらと輝いて見える。

「そうかな?」

「攻撃されてもやり返そうとしない」

「ああ、うん」

「家族だから?」

 首を傾げたリリィの青白い首筋が垣間見えた。

「たしかに冴良は家族だけど……家族でも、憎み合う人はいるよ」

 そんなことをつい言いたくなった。

「そういえば冴良ちゃん以外は家で見かけないね」

「母さんはこの前見ただろう」

「うん。あんまり似てなかったね。お父さんは?」

「いない」

「死んだの?」

「生きてるよ。離婚した。親権が母に移った」

「そっか、ごめんね」

「別に。もう五年前の話だよ」

 当時の僕は中学一年生、冴良は小学一年生に入学するときだった。父と母が夜中に大きな言い合いをして、次の日の朝には僕らは母と一緒に外に出ることになった。母方の祖父母の家にしばらく寝泊まりし、数日後には今暮らしているアパートに引っ越した。

 父が別の女性と関係を持ったのだということは、母ではなく、アパートで暮らす同級生から教えてもらった。好意ではなかっただろう。僕がどう反応していいのかわからないでいる様を楽しんでいる様子だった。あれから一気に僕の学校中に広められていった。名前は思い出せないけれど、教えてくれたときの光景は頭に刻まれていて、まだ消えそうになかった。

「生きてるのに、バラバラなのね」

 リリィは呟いた。珍しく、鼻で笑うこともなかった。

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