2.疼き

 雲雀の声が耳の奥を刺激する。カーテンの向こう側は明るい。春の陽気だった。匂いは遮断されていても、若干汗ばむ気温にそれを感じた。

 痛む頭に逆らえず、柔らかな布団に顔をうずめて、ようやく落ち着いた。口も鼻も埋めてしまう。息苦しさは気にしない。動くことの方が気怠かった。

 目を閉じれば、赤い残光がまぶたの裏に散りばめられていた。

 何回も、同じ夢を見ていた。夢は選ぶことができないから、推測でしかないけれど、きっかけは数日前の出来事だろう。


 その日、僕の机の上に百合の花瓶が飾られていた。登校時にそれをベランダに片付けて、潜めた声を極力聞かないようにして日中を過ごした。放課後になって、忘れ物を取りに教室に戻ったら、ちょうど百合の花瓶がまた僕の机に置かれるところだった。主犯の留岡が僕を見つめて笑った。取り巻きたちも僕の出方をうかがっていた。

 夢の中の僕とは違い、現実の僕は何もしなかった。刃渡り十五センチのダガーも、腐った触手の化け物も、もちろん現実にはいない。嘲笑われていたことだけが本当だった。耳に障るあの声だけが、いつまでも脳裏に残って、夢の中にまで響いている。


「お兄ちゃん」

 閉めきったドアの向こうから妹、冴良さえらの声がした。

「今日は学校行かないの」

 小学六年生の冴良は、人懐っこい。両親からも、親戚やご近所さんからも評判が良い。僕とは比較にならないくらい生きやすいはずなのに、傲慢ごうまんさの欠片も感じさせないから、いよいよもって本当の妹なのかも疑わしい。毎日朝には元気が有り余っている様子だけれども、あいさつをするときに、無理やり扉を開けては来なかった。

「ごめん」

責められているわけでもないのに、とっさに謝罪するのが、僕の癖になっていた。

「わかった」

 冴良が廊下を歩いていく。足音は遠くなる。母はすでに仕事だろうから、この家からは、誰もいなくなる。


 意味もなく布団でもだえているうちに、学校はもう始まる頃合いだった。八時四〇分からショートホームルーム。それまでに席に着いていないなら欠席と見做される。学則は思い出せても、もうどうしたって間に合わない。

 机の百合を見たあの日から、風邪を引いたことにしていた。いじめのような目にあっていることは誰にも言わない。それは中学生のときから、自分の中での決めごとだった。

 最初のうちは律儀に休みの連絡をしていた。しかしそれも昨日からしなくなった。担任教師は話の分かる人だ。やる気のない高校生の一人を無理矢理授業に連れ出すような面倒事は背負い込まない。彼はおそらく僕のことをいない者として、スムーズに扱ってくれるだろう。

 布団が湿り気を帯びてくる。汗のせいだ。一丁前の生き物らしく、身体が起き始めている。なにもやることはないというのに、勝手に身体が活発になっていく。人間は歩いて動いて回るものだという意識が全身に広がっていく。そんな意識から僕は遠くありたいのに、どうにもそうは許してくれない。

 居心地の悪くなった布団から抜け出して、自棄になってカーテンを引き、朝日を全身に浴びる。気持ちが良いというより、想像以上に暑い。わずらわしい。もう眠れない。

 街並みが見えた。遠くの方には山が見える。あれから遠ざかることはできない。街から離れた先に言ってみたいと思っていたのに、そのための切符を今はてばなそうとしている。受験勉強から逃れた先に待っているのはなんなのか全然リアルにイメージできない。

 僕の家はマンションの一室だ。窓の外には別の棟が三つ、ドミノのように立っている。かつての新興住宅地の中心だったこのマンションも、今ではあちこちに塗装のがれが目立ち始めている。この団地よりも背の高い建物はないけれど、目立った自然も近くにはない。

 時計はショートホームルームが終わる時刻を指していた。もう登校への意欲は湧かなかった。

 胸の内側がまだ微かに疼いている。

血を流したことすら最近ではあまりない。それなのに、あの夢のなかにあった化け物の姿はすぐに思い浮かべられる。つたの侵食に負けつつあるマンションで区切られた青空よりも、あの夢の中の赤黒い空の方が、僕にはずっと近く感じられた。今、僕が目にしている場所こそが、張りぼてのようにも感じられた。

 妹が残してくれた朝食を早めに食べ終えると、長袖の紺のブラウスを羽織り、黒いスキニージーンズを履いた。手提げ鞄には学習道具を入れておく。汚れの目立たない身なりと、歩く場所にさえ気をつけていれば、案外補導はされないものだ。

 外に出てみると、風のお陰か、暑さは和らいだ。葉桜の木々に見送られて、僕は駅へと向かった。

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