盗人

 強烈な汗臭い匂いで目が覚めた。首の付け根の辺りが痛む。どうやら動画を観ていて胡座をかいた姿勢のまま眠ってしまったらしい。テーブルに置いた蝋燭がだいぶ短くなっている。


 左手に握られたスマホの電源ボタンを押すと十時十八分と表示された。宿に着いた時間がわからないので定かではないが、おそらく数十分から一時間、もしくは長くて数時間ほど微睡まどろんでしまったといったところだろう。


 それにしても、と私は酸っぱい匂いに顔をしかめて鼻の下に手の甲を当てた。詰めていたトイレットペーパーが消えている。息苦しさを感じて寝ているあいだに取ってしまったのかもしれない。空気の通りが良いとはいえないが、とりあえず鼻血は止まったようだ。


 短時間でも寝たおかげで眠気はとんでくれはしたものの、代わりに中途半端に目覚めたせいで気怠けだるい感覚が身体にし掛かっている。料理は半分以上も残っているがとても食べる気が起きない。それなりに時間が経っているはずなので、そろそろ食事を下げにきてもいい頃合いだ。


 短くなった蝋燭の火を新しいものへと移して立ち上がり、部屋の隅や高い位置を照らして内線電話がないかを探す。障子の他にあるのは、その向かい側に立てられた寝具が入っているとおぼしきふすまだけである。


 私は少し考えてやはり調理場まで行って酒をもらってこようと思い、動画を観たせいでバッテリー残量が減ってしまったスマホを充電器へ戻すと、持っていた蝋燭を提灯の中へ立てて再び部屋を出た。


 どういうわけか、廊下には先ほどよりも湿った暖かい空気が漂っており、まるで浴場の脱衣室にでも入ったかのように蒸している。部屋の中で匂った汗臭さもより強くなった。昼間の熱気が建物内にこもっているだけではないように思う。


 今度はトイレの方向とは逆の、玄関へと通じる右手の廊下を進む。たとえ調理場が見つからなくとも、玄関近くにあるはずの帳場へ行けば誰かしら従業員がいるだろう。


 民宿というわりにはそこそこの広さがあるようだし、この規模の宿泊施設を赤鬼と女将のたった二人で切り盛りしているとはちょっと考えられない。自分の部屋がある右手側だけでなく、左手側の壁にもドアが並んでいるところを見ると、相当数そうとうすうの客室があるように思える。


 左側を照らしながら歩いていると壁が途切れて上りの階段が現れた。上階も客室なのだろうか。赤鬼が自分の持ち家らしき発言をしていたので、はじめは民家のような建物を想像していたのだが、感触としては一般的なそれよりもずいぶんと大きい。


 二階に調理場というのはありえないだろう。それに赤鬼や女将のプライベートな居住空間の可能性もある。下手に踏み込んで赤鬼にどやされるのはごめんだ。


 階段を通りすぎ、さらに二つのドアをやりすごすと再び左側の壁が消えた。玄関ではないかと見当をつけて辺りを探る。


 右手奥に私が腰掛けて靴を脱いだ式台があり、それに沿って空間を横切ると下駄箱にぶつかった。いくつものスリッパが並んでいるが客の物らしき靴の類は見当たらない。宿内が静かなのは、やはり全員が外出しているからというわけだ。


 下駄箱の左側はまだ奥へと廊下が続いているようで、もしや汗臭い匂いと湿気は調理場からではないかと思い至った私は、人がいればどこでも構わないと臭気から顔を背けながら歩みを進めた。


 足を踏み出すなり、すぐ右手に帳場らしき小さなカウンターがしつらえられているのを見つけ、誰かいないかと提灯で中を照らしつつ「女将さーん?」と声を掛けてみた。しばらく待ったが返事も物音も聴こえない。


 客の世話があると言っていた女将が外へ出かけるはずはないので、おそらく建物内か敷地内にはいるはずである。


 提灯を奥へ突き出してみると、正面の壁にはキーボックスが掛かっており、カウンター上には先ほど私が書いた宿泊者名簿の紙が置かれているのが見えた。他にも同じものと思われる紙が何枚か重ねてある。


 誰もいない帳場付近をうろつくのは何だか盗人のようでばつが悪い。私は調理場を探そうと嗅ぎたくもない匂いを辿って廊下のさらに奥へと進んでみることにした。


 一体何を調理すればこんなにも汗臭い匂いが出るのだ。臭み消しとやらは使っていないのだろうか。温泉の匂いを消しておきながら、この不快な異臭を放置できる感覚がわからない。入れ忘れでないのなら使いどころを間違えている。


 温泉というものはあの硫黄臭があってこそであり、それを消してしまっては風情がないではないか。もっとも、入浴する前から鼻での呼吸を止めていた私としては、たとえ硫黄臭がしていたのだとしても知るよしもないのだが。


 提灯を左右に振りながら歩いていると、再び右側にドアのない戸口が現れ、中を確認するまでもなく異臭の発生源がここであるとわかった。ぐつぐつと湯の煮える音が廊下にまで漏れている。調理をしている人に頼んで匂いをどうにかしてもらおう。


 提灯よりも先に頭を突っ込んで覗いてみたのだが、行燈あんどんやランプの橙色の明かりは見当たらず、いくつもの青白い光が床の高さ辺りに揺れているだけだった。コンロの火が反射しているにしては位置が低すぎる


 サウナのような湿気と熱気が顔面にかかって思わず廊下に避難した私は、深呼吸をゆっくりと大きくしてから、調理場にもう一度頭を入れて「すいませーん。どなたかいらっしゃいますかー?」と声を掛けてみた。


 あまり大声を張り上げたつもりはないのに、思った以上の反響が聴こえて私は慌てて口をつぐんだ。一度口から出てしまった言葉は何をやっても戻らないので意味はない。


 返事がないので誰もいないらしい。どうしてこの集落の住民はみな、使っている火のそばから離れるのだ。火災に対する危機管理がなっていない。ひょっとすると、食材か器具でも取りに奥のほうへ行っているだけなのだろうか。

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