忍者
提灯の明かりに浮かび上がる右手のドアを数えながら廊下を戻る。宿内には虫の鳴き声だけが響いており、変わらず人の気配はなく、先ほどのような唸り声も不審な物音も聴こえない。
祭りの最中だというのに
私は五つ目のドアの前で足を止め、ノブを握ったところで鍵が開いていることに気がついた。出るときに施錠したはずなので、もしかしたら女将が来て開けっ放しでいってしまったのかもしれない。
まだ中にいて驚くはめになるのも嫌なので、「女将さん、そこにいるんですか?」と声を掛けながらドアを開けてみたのだが、返事もなければ誰かが出てくる様子もない。
提灯を前方に突き出して部屋の中を照らしてみる。やはり誰もいない。テーブルの上の料理もさっきのままだし、菓子皿の下に隠した財布もきちんとある。コンセントに繋がったスマホを見ると、すでに四十パーセント近くまで充電されていた。
十分な充電量ではないものの、このままただ闇を見つめながら食事をするよりも、音楽を聴くなり動画や写真を見るなりしたほうが気が紛れると思った私は、充電器を外したスマホを持ってテーブルの前へと腰を下ろした。
動画サイトを見ることはできないので、本日撮影した写真でも確認しようとメディアのフォルダを開く。
高崎駅で買った鶏めし弁当にはじまり、車窓から撮った田園風景、かぢな駅のプラットホーム、かむらた山の登山道入り口、緑豊かなブナの木立、タマコが水を飲む姿といった今日一日の思い出がスマホの画面を流れていく。
タマコは不運だったななどと考えていると、写真に混じった動画ファイルが画面に現れて私はスワイプする指を止めた。
再生ボタンをタップした私は、「ほら、これ、見てくださいよ」と興奮気味に喋る己の声が耳に入り、自分の声というものはいつ聴いても気味が悪いなと顔を
「ああ? クモどカエルだっぺよ。べづに珍しぐもねぇ」
「この辺にはよくいるんですか? こんなに大きなクモ、初めて見ましたよ」
「アシダカなんちゃあ、そごらじゅうによぉぐいるわ」
「そうなんですね。でも」
聴くに耐えかねて箸を持ったままの手でシークバーのスライダーを右へと動かす。あとで音声を編集で消そう。背後の蝉の声もろともになってしまうのが惜しいが仕方がない。明日の昼間、
指を離すなり「ごと持っでぐっかなぁ」という一二三氏の間延びした声が流れてきた。ここで彼が台所へと立ち、直後にタマコが睨み合いに
注視していると左下からタマコが飛び出し、一瞬にして蜘蛛の姿が消える様子が映った。残された二匹の蛙は逃げもせずにじっとしている。画面が大きく揺れて被写体が消え、「んだよ、あぶねぇな」という一二三氏の声がし、私が「すいません」と謝る声が聴こえた。
揺れていた画面がすのこ状の
鳥肌が立った私は再生を止めてスマホを伏せ、今のが忍者ごっこをする子供の
何も口に運ばないまま持った箸をテーブルへと戻し、代わりにビール瓶を掴んで残っていた中身をすべてグラスに注ぐ。もっと動画をよく観て確認してみるべきだろうか。しかし、そんなことをして何になる。
一二三氏は忍者ごっこをする子供たちだと言い、私の登山靴だってなくなっていないのだから、これ以上何かを調べる必要などないではないか。きっと好奇心を満たしてもろくなことはない。
ビールが八分目まで注がれたグラスに口をつけ、半分ほど飲んで蝋燭の炎に
「何だぁ?」
画面の外にいる一二三氏の声を聴きながら縁側を見ていると、板の隙間を通して
会話は聴きたくないので音を消して動画の再生を続ける。黒い物体の動きに合わせて再び画面右上に登山靴が現れ、私は思わず身震いしてもう一度スマホを伏せた。縁側の下からわずかに見えた手らしきものが真っ黒だった。季節的に手袋は考えられない。
何も入っていないグラスを手に取り、底に残ったビールの
伏せていたスマホの画面を裏返し、影があった辺りの縁側を見てみたが、いくら目を凝らしてみても黒い物体はもう再生を続ける動画のどこにも映ってはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます