火鳥

 赤鬼の言うが気になった私は、前方で燃える炎を見ているせいか『火取り見』や『火鳥見』などの漢字をあててその意味を考えていた。もしかすると私に火の番はできるかと訊いたのかもしれない。


 それにしても、訊くまでもないはいいとして、いやしいなどという形容詞をつけてまで余所者よそもの呼ばわりするのはあんまりではないか。知らぬふりをしておきながら、赤鬼は仔牛の丸焼きのくだりにしっかり耳を傾けていたようだ。


 仔牛の丸焼きでふと奇妙なことに気がついた。肉の焼ける匂いはどこから漂ってきているのだろうか。


 やぐらの他に大きな炎は見当たらないのだが、かといって、いくらなんでも建物ごと燃やすようなスケールの大きいバーベキューなど考えられない。そんなことをする人間がいるとすれば、豪快なイメージのあるアメリカ人やロシア人ぐらいなものだろう。


 辺りには耳をろうさんばかりの蛙の合唱が響き渡っており、幼少時代を過ごした自然に溢れた茨城の田舎を私に思い出させた。夏の風物詩ともいえるこれも都会で耳にすることはない。


 このまま櫓の所まで下りていくのかと思いきや、数歩先で赤鬼は唐突に身体の向きを変え、今度は左の暗がりへ向かって進みはじめた。赤鬼にならってわざわざくだって曲がるよりも斜めに直進した方が早い。


 近道をしようと左足を踏み出すやいなや、私はバランスを崩して横ざまに倒れ、耳元で大きな音がしたかと思ったときには左半身が生温なまぬるい液体にかったようになっていた。


「なぁにやっでんだ、おめぇ?」


 赤鬼のあきれたような声を聴きつつ、顔に当たっている植物らしきものを払いけて半身はんみを起こした私は、横を向いて唾を吐き散らしながらゆっくりと立ち上がった。


「ったぐ、鈍臭どんくせぇやづだなぁ」


 どうやら田んぼに落ちたらしい。教えてくれなかった赤鬼に文句のひとつも言ってやりたいところだが、足元に注意していなかったのは私自身の落ち度でもあるし、どうせ何を言おうとまともに取り合ってはくれまい。


 そもそも、篝火かがりびの位置が高すぎるのが悪い。これではかえって足元が見えないではないか。


 暗くてよくわからないが衣服が泥塗どろまみれになってしまっているのは間違いないだろう。身体の汚れは温泉で洗い流せばいいとしても替えの服など持ってきてはいない。あるのは下着類だけだ。宿に浴衣ゆかたぐらいは用意されているかもしれないが、帰りに着ていける服がないのは困る。


「だがら、おれのあどについでいっつったっぺよ、あぁ?」


 そんなこと言っていただろうか。どちらにせよ、ここで言ったの言ってないだのと不毛な論争を始めても何の解決にもならない。


 私はただ「はあ、そうですね」と力なく言って愛想笑いをし、自分が足を滑らせたと思われる場所まで手探りで進み、畦道あぜみちらしき斜面をよじ登って草叢くさむらの上へと転がりでた。いつの間にか舗装された道路ではなくなっている。


「あの、温泉があるって聞いたんですけど、まだ入れますか?」


 立ち上がりながら赤鬼に訊ねてみた。浴場の開放時間というものが宿によって決まっているはずである。期待していって温泉に入れないではたまらない。


「あ? 誰だっで入れっぺよ」


「いや、そうではなくてですね、何時までいているのかと思いまして」


「あぁ? いづでも開いでらぁ」


 つまり、二十四時間いつでも利用できるということだろうか。下手したら入浴を断られるかもしれないと思っていたのだが、さすがにそれは考えすぎだったようだ。


「それはありがたいです」


「入っでも鈍臭ぇのは治んねぇぞ」


 赤鬼はそう言って、ぐひひと気味の悪い笑いを漏らし、「いづまで突っ立ってんだ、行ぐぞ」と私をうながすなりさっさと歩いていってしまった。やはり私を待つ気はないらしい。それから、最後の一言は余計である。


 肌に張りつく濡れた下着の感触に気持ち悪さを感じつつ、田んぼに落ちるのは二度とごめんだと思った私は、篝火に照らされる赤鬼の後頭部を目印に彼の辿ったルートに従って慎重に足を運んでいった。




 燃えさかる櫓の炎を右手に見ながら進んでいると、畦道が終わってまたもや舗装路へと変わったらしいのが地面を踏みしめる感触から伝わってきたが、それでも私は注意をおこたらずに赤鬼の真後ろにぴたりとくっつくようにして歩いていた。


 田んぼを抜けてもなお周囲の薄暗さは変わらず、篝火の炎がまばらに散らばっているだけで、街灯も民家の電灯と思しき明かりもいまだひとつとして見当たらない。


 集落に電気が引かれていないのではなく、わざと点灯していないのだろう。私だって馬鹿ではない。櫓も篝火も明日の祭りに関係しているらしいことぐらいはわかる。祭りの期間に電気を使ってはいけない仕来しきたりでもあるに違いない。


 そんなことを考えながら歩いていた私は、スマホのライトを点けていたらシュウちゃんやこの赤鬼に何を言われたかわからないなと思うと同時に、果たして宿でバッテリーの充電をさせてくれるだろうかと不安になってきた。


「あの、お訊ねしたいことがあるんですけど」


 どうせ無視されるだろうとあまり期待せずに声を掛けたのだが、赤鬼は軽く首をひねるようにして私を振り返り、「あんだよ」とぶっきらぼうな調子で返事をしてすぐに前へと向きなおった。田んぼに落ちたのを切っ掛けに警戒を緩めてくれたのかもしれない。


「宿で充電ってさせてもらえますか? スマホのバッテリーが切れてしまって」


 赤鬼からの返答はなく、しばらく無言の時間が続いたことでスマホという単語が通じなかったのかと思い、携帯電話と言い直そうと私は再び口を開きかけた。


「おら、着いだぞ」


 私は赤鬼の言葉で反射的に顔を上げてはみたものの近くに篝火がないせいで何もわからず、視界に広がる真っ暗な虚空こくうを見つめただけですぐさま視線を戻したのだが、ついさっきまでそこにあったはずの後頭部はすでにどこかへと消えてしまっていた。

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