仔牛

「ところで、先ほどからずっと美味しそうな良い匂いがしてますよね」


 赤鬼のあとを追いつつ右手の焚き火へ目を向けると、最前の広場にあったものと同様、井形に組まれたたきぎの上に何かが横たえられているのが見えた。


 こちらも空き地のようになってはいるがたいした広さはなく、そばで誰かが火の番をしている気配もない。ただ私が気づいていないだけで、さっきのシュウちゃんと呼ばれた男のようにその辺の暗がりから見ているということも考えられる。


「仔牛の丸焼きとかですか?」


 おこぼれを期待しているように聴こえてしまっただろうかと、私は言ってしまってから後悔した。食欲が阻害されているだけで空腹である事実は変わっていないのだ。たとえ言葉の端々に欲望が見え隠れしてしまったとしても仕方がない。


「いや、あの、別に食べたいという意味ではなくて、好奇心でお訊ねしただけなんですけどね。ずいぶんと大きい肉のかたまりだなぁ、と思って」


 なにやら言い訳のようになってしまった。自分で言うのもなんだが言葉を重ねるほどに嘘臭く聴こえる。語るに落ちるとはよく言ったものだ。


「それと、この独特の匂いはハーブとか、おこうでも焚いてるんですか?」


 やはり何を言っても無駄かと思っていると、「おめぇが知るひづようはねぇ」と前を向いたまま赤鬼が答えた。好奇心で訊ねただけなので、知る必要がないと言われればそれまでである。これ以上この話を掘り下げても赤鬼を怒らせるだけだろう。


「いえ、おっしゃりたくないのなら、それでいいんですけど」


 祭りの話題は無視され、神社のことではぞくののしられ、周囲に漂う匂いに関する質問も駄目では赤鬼と何を話せばいいのだ。それともこれはあんに黙っていろという彼の意思表示なのだろうか。




 腕時計もスマホのバッテリーも切れてしまっているので今が何時かはわからないが、山道に入ったのが二時前後だったことから考えて、少なく見積もってもかれこれ五時間は歩きまわっているはずである。


 完全に飲まず食わずではないとはいえ、さすがにもう無理をしてまで赤鬼と喋る気力は残っていない。


 こんなに歩く羽目はめになるとは聞いていないぞと心の中で悪態をいた私は、そこでふと、車掌の言葉を聞いてからずっと胸の奥底でおりのようにわだかまっていた違和感の正体に思い至った。


 思い返してみれば、車掌が二十分ほどで行けると言ったのは『かぢな駅』から登山口までのことであり、そこから『みだまや』までの所要時間には触れていなかった。山に入れば宿にはすぐ着くだろうと私が思い込んでしまったのは、二十分という言葉に引っ張られて勝手な解釈をしたせいに他ならない。


 顔の高さで炎を上げる篝火かがりびの数を頭で数えながら、急な傾斜へと変わってしまった坂道を無言で歩いていた私は、前方の林の途切れ目から覗く空がだいだい色に染まっていることに気がついた。おそらく山の上から見えた集落の明かりで間違いないだろう。


 開けた場所へ出れば宿まであと少しなのではないかという期待と、一刻も早く休みたいという欲望が私をき立てはするのだが、とうに体力の限界を迎えているせいで気持ちばかりが前に出てしまい、肝心の足の方はもつれたようになってうまく動かすことができない。


 それでもどうにか残りの坂道を進んでいた私は、広範囲を照らす暖かみのある明かりを目にしたことで、ようやく暗がりから抜けられるという安堵の気持ちが胸に満ちていくのを感じていた。


 集落へと近づくにつれ、上空の闇を舐める炎の火先ほさきが見えてきた。さっきの二ヶ所で燃えていた焚き火とは違ってやけに大きな炎が上がっている。


 それにまた肉の焼ける匂いと例の薬品臭が強くなってきた。赤鬼から訊きだすことはできなかったが、肉の臭みを消すために香辛料だか香草だかを一緒に焼いているといったところだろう。


 坂を上りきった私は足を止め、視界に飛び込んできた眼前の光景に目をみはった。


 足元のすぐそばからはなだらかな下りの傾斜がはじまっており、斜面のあちらこちらに篝火とおぼしきが不規則に散らばっていることで、暗くとも地形がすり鉢状の窪地のようになっているらしいのがわかる。


 問題は夜空を染めている炎が焚き火などではなく、窪地の底の部分に建つやぐらのようなものから上がっていることだ。赤鬼を見やったが平然としている。あの巨大な火が目に入らないはずがない。


 私は斜面をくだっていく赤鬼のあとを追いながら、目の前で起きている事態がうまく飲み込めず、「あの、あそこの建物、燃えてますけど」と間の抜けたセリフを口走っていた。


「それがどうした、あぁ?」


「どうした、って。あれ、火事じゃないんですか?」


 櫓の周りには数人の人影らしきものが見えるのだが、とくに慌てたり消火活動に駆けまわっている様子はなく、まるで花火に見惚みとれる見物客ででもあるかのように炎の周りにたたずんでいるだけである。


「あっ、もしかして、前夜祭の」


「せんさぐすんぢゃねぇよ。くんのいやしい余所者よそもんがぁ」


 赤鬼は振り返るなり私を怒鳴りつけ、「なんであいづはこんな」と何かを言いかけてやめ、代わりに「おめぇ、が?」と訊ねてきた。


「ひどりみ?」


 意味がわからず私が鸚鵡おうむ返しに訊ねると、赤鬼は「ハッ! 訊ぐまでもねぇが」と言って前へ向きなおり、櫓の方へと斜面を下りていってしまった。

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