私はそれぞれお礼とお詫びの言葉を男にげ、飛び出していってしまった中村の後を追って急いで山道へと戻ってみた。どこからか叫び声だけは聴こえてくるものの、その発生源である狂人の姿はどこにも見当たらない。


「中村さーん!」


 酩酊めいてい状態の中村に呼びかけても無駄かもしれないが、これで戻ってきてくれれば闇雲やみくもに探しまわる必要はなくなる。


 それにしても、中村のさっきのあれは何なのだ。きじの首がねられたときでさえ食べ物のことで浮かれていたというのに、一体何がきっかけで奴はなどと口走ったのだ。


 呼びかけに対する中村の反応はなく、ただ蝉の鳴き声に混じって悲鳴のような絶叫が聴こえるだけで、それが我々が辿ってきた分岐点へ戻る右側の道からなのか、それとも緩やかなカーブを描いてまだ先へと伸びている左側の道からしているものなのかは判断がつかない。


 右手の道を少しだけ引き返し、悲鳴の大きさに変化が感じられないのを確認した私は、叫び声が聴こえなくなって完全に中村を見失ってしまわないよう、逆側の道を目指して小走りで山道を駆け戻った。




 カーブの外側を歩いてなるべく遠くを見通そうとしていた私は、目印となる中村の奇声が唐突に止んだことに気がつき、再び「中村さーん!」と大きな声で呼びかけて傾斜のきつくなってきた下り坂を急いだ。


 まさか崖から転落したのではあるまいななどと縁起でもないことを考えていると、またもや看板も標識もない三叉路さんさろの分岐点に差し掛かった。


 どうしてこの地域の自治体はこうも部外者に対して不親切なのだ。これは行政の怠慢ではないのか。体制へのいきどおりを感じながらも、私は直感で右側の道を選んで坂を下っていった。


 そのうち顔の周りにまとわりつく小虫が増えてきて、都会の排水溝のような生ゴミ臭が漂ってきたのを感じた私は、たまらずシャツの袖で口元を覆いながら先へと進んだ。近くに下水が溜まっていたりゴミが投棄されていたりする場所でもあるのだろうか。


 丈の高い雑草が密生したところをまわり込んでみると、灰緑はいみどりの水をたたえた小学校のグラウンドほどの小さな沼に出た。沼のほぼ中央には孤島のような卵型の岩が湖面から突出しているのが見える。


 沼のほとりに生えている樹木のひとつには、『この先には沼があります』と当たり前の言葉がプリントされた金属製の看板と、そのすぐ下に『危険 います!』と重要な部分が抜けたようになった手書きの木製看板が釘で打ちつけられている。余白がないので色褪いろあせて文字が消えたわけではないらしい。


 こんな意味のない看板を設置するのに使う金や暇があるのなら地図や道標も立ててほしいものである。だいたい、下の看板は『出ます!』や『落ちます!』のあやまりではないのか。池や沼にいて危険とくればワニぐらいしか思いつかないが、それは海外の話であって日本の山奥になど棲息しているはずはないのだが。


 鼻で呼吸をしていないのにも関わらず、口から取り込んだ空気の凄まじい異臭が喉の奥から鼻腔に流れ込んでくるのを感じ、私は何度か咳き込んでから気持ち悪い残りに思わず嘔吐えずいた。


 沼全体はほぼ半分くらいがで覆われており、水面から浮き上がったものは干からびて黄緑色おうりょくしょくに、また水面直下のものは溶けたようになって濃緑色のうりょくしょくにと、ところどころ濃淡の違ういびつな緑が広がっている。湖水の富栄養化が進んでいる証拠だ。悪臭と小虫の発生源はここで間違いない。


 もしや中村は勢い余ってこの腐臭を発する沼にダイブしてしまったのではないだろうか。とりあえず、見える範囲の水辺には誰かが足を滑らせたような形跡はないし、助けを求める中村の腕も湖面からは伸びてはいない。沼から突き出ているものといえば、ほとりの木々から落下したらしいちた枝くらいなものだ。


「中村さーん!」


 片手で飛び交う小虫を払い払い、もう一方の手で鼻をつまんだままくぐもった声で中村を呼びつつ、木立のあいだをひとつひとつ覗き込みながら沼のほとりを歩いていた私は、一本の樹木の陰に隠れるようにして建つ神社本殿のミニチュア版のような石でできた小さなほこらを見つけた。


 祠は古いだけでなく手入れもされていないようで、傾いて崩れかかっている屋根はそばに立つ樹木と同じように苔むしており、全体も風化によって丸みをびたような具合になっている。供物くもつが置かれるべき場所には黄色味がかった白っぽい小石が散乱しているだけで他には何もない。


 さすがにこの匂いでは誰もここへは寄りつかないだろうし、こんな臭い場所に祀られている神様だっていい迷惑だろう。


 私は祠の前を通りすぎてそのまま沼のほとりをぐるり一周して元の場所へ戻ると、視界のどこかに中村の姿がないか目をらして探し、もう一度「中村さーん、どこですかー」と何度目かの呼びかけをしてからその場を引き上げた。




 先ほどの三叉路へと戻り、やや上り気味の坂となっている残りの道を早足で歩いていた私は、途中の草むらのなかに『この先』とだけ書かれたふちの錆びた看板が立っているのを見つけた。続きの部分があるとすれば、おおかた『行き止まり』といったところだろう。


 少しずつ道幅が狭くなってきているし、やはりこの先で道が終わっていて中村もそのどん詰まりで立ち往生しているのではないか。それとも、さっきのような沼や崖といった自然のトラップの餌食えじきとなってしまったのだろうか。


 中村の声がしないことで嫌な考えが優勢になりつつあった私は、返事を期待してではなくむしろ己の不安を払拭ふっしょくするために、ほとんど祈るような気持ちで「中村さーん!」と不憫ふびんな同僚の名前を叫んでいた。

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