小熊

 男は「あぶねッ!」とつまずきそうになりながらやぶから山道へおどり出ると、「あれ、おどがしちまっだべか」と私の方を見ながらニヤッと半分ほど口を開き、ほとんど歯が残っていない顔で不気味な笑みを作ってみせた。


「クマが出だとでも思っだのけ? ああよ?」


 全体的に黒っぽい服装と肌をしているその男を、はじめは小熊か何か猛獣が出たのだと思って肝を冷やしたのは確かである。まだペットボトルを構えたままだった私は、気まずさを紛らわそうとして「あー、いやあ」と間延まのびした中国人のような声を出しつつ腕を下げた。


「そんなにおっがながっだけ?」

 

 ニヤニヤ顔で訊ねてくる男に、「ちょっと驚いただけですよ」と私が冷静をよそおって答えると、「強がってんじゃあねぇよぉ、ハァッ!」とよくわからないことを言われた。驚いた、と正直に答えたではないか。


「強がっているわけじゃなくて、ただ驚いただけですって」


「あー、ハァッ、ハァッ、ハァッ!」


 私が訂正するなり男は、「ハァッ、ハァッ」と一語一語を区切るようにして叫びだしたのだが、どうやら彼特有の笑い方であるらしい。


 一体何がそんなにおかしいのだと、少々むっとした顔で男を見返すと、「ハァッ、ハァッ」と笑いながら私の股間を力なく指差してきた。私は視線を己の下半身へ移してようやく事態を理解した。


 さっきペットボトルを逆手に持ったとき、汲んだ水が股間の辺りにこぼれてしまっていたようで、ジーパンにはちょうど漏らしたように見える濃紺の大きなシミができていた。


「うぢさ寄っでぎますが?」


 笑うのをやめた男が唐突に私を家へ誘った。


「いえ、結構です」


 男の意図を訊ねもせずに私は反射的に誘いを断った。親切心からの申し出だったのかもしれないが、今日はどうにも人との巡り合わせがよろしくない。バスに乗り合わせた地元の人たちや運転手に冷たくあしらわれただけでなく、下山する人にさえ無視されるような日なのだ。


「おどながションベン漏らしてんのわぁ、おがしかっぺよぉ」


 ああ、なるほど。予備のズボンを貸してくれるつもりなのかもしれない。


「いえ、結構です」


 同じ言葉を繰り返して私は男の誘いを断り、続けて「これ、ただの水なので」と補足したのだが、言った後で自分でも言い訳のように聞こえて後悔した。


「隠さなぐでもよがっぺよぉ。年とっどよぉぐあっがらぁ」


 私のことをいくつだと思っているのか、まだ尿漏れや頻尿ひんにょうを気にするような年齢ではない。老けて見られますけどまだ二十代です、と言い返そうとして思い直した私は、作り笑いをしながら「それは大変ですね」と適当に答えた。


「僕のはただの水なので、歩いているうちに乾くと思いますから。どうぞお構いなく」


 念を押すようにそう付け足して軽く会釈をし、もう一度ペットボトルに水を汲もうとその場にしゃがむと、「だげんども」と男はなおも食い下がってきた。私は聞こえないふりをして、ボトルの半分くらいまで水を汲んだところで味見をしてみようと口をつけた。


「それ、毒水どぐみずだがらぁ、飲まんほうがいいですよぉ」


 口に含んだ水をすべて噴き出して何度か唾を吐き散らした私は、「早く言ってくださいよ」と男を非難するように睨みつけ、「ちょっと飲んじゃったじゃないですか!」と自分が思ったよりも大きな声で怒鳴っていた。


「毒って何ですか? まさか、死んだりしませんよね?」


「だぁいじょぶだっぺ。死にゃあしねぇ」


 そう言って男は「毒水どぐみずぅ、飲んぢまっだかぁ」と独り言のように続け、「あー、ハァッ、ハァッ!」とクセのある笑い声を上げた。ほら、やっぱりそうだと、私は自分の勘が当たったことを己に誇った。毒を飲んだ者を前にして笑っていられるなど、とうていまともな人間の反応とは思えない。


どぐ抜ぎのクスリ、飲んどぎますが?」


 少しでも体内に吸収される毒を減らそうとして、ぺっぺと唾を吐き続けていた私に男が訊ねてきた。今さっきまともな人間ではないと思ったのは早計だったらしい。




「あの、先ほどはすいませんでした」


 山道から外れた藪の中を男と連れ立って歩きながら、私は最前の非礼を詫びた。暑さのせいでイライラしていたのもあるが、排他的を通り越して失礼なの地域住民に対し、わずかではあるものの私が好ましくない感情を抱いてしまっていたこともいなめない。


 結局のところ毒水を飲んでしまったのは私自身の不注意であったにもかかわらず、今日の出来事を通して私が地元民に負の感情を抱いていたことで、あたかも彼らにだまされて毒を飲まされた被害者のような錯覚をしてしまっていた。


 バスの中で会った連中といっしょくたに考えてしまっていたが、この男と他の住民は関係ないし、思い返せばむしろ彼は毒水のことを教えてくれようとしていたのではなかったか。


「ああ?」


 私の少し前に立って藪を掻き分けながら進んでいた男は、そう言って立ち止まると振り向いて「なんですかぁ?」と訊き返してきた。


「先ほどは怒鳴ってしまってすいませんでした」


「ああ、ベづにいいですよぉ」


 前に向き直って再び藪の中を進みはじめた男の背中へ、今度はそのままでも聞こえるように大きめの声で「毒って聞いて慌ててしまって」と正直に小心者であることを告白したのだが、これといった反応はとくに何も返ってこなかった。藪のガサガサいう音や蝉のジージー鳴く声に掻き消されてしまったのだろうか。


 聞こえなかったのならそれでもいいかと、男への言い訳などすぐにどうでもよくなった。そんなことよりも、自分の体内に取り込まれてしまったであろう毒物の方が気になって仕方がない。男は「死にゃあしねぇ」とは言っていたが何の保証もないのだ。たとえ死ななくとも無事で済むのかはなはだ疑わしい。


 そもそも、毒水なのにほこらまつったようになっているのがいけないのだ。あれではいわれのある神聖な水と勘違いしてもおかしくはない。それに危険なものなら注意書きを、とそこまで考えてあの立て札がそうだったのかと思い至る。やっぱり全部おれの不注意じゃないか。

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