いくら目を凝らしてみても、茶トラが見つめる方向にはブナ林があるだけで、私の目には何ら変わったものは映っていない。猫にしか見えない何かがあるのだろうか。


 私が「何をそんなに」と話しかけると野ネズミでも見つけたのか、すべて言い終わらないうちに猫は一目散いちもくさんにどこかへ駆けていってしまった。


 茶トラが興味を失ったキャップを拾って水気を切る。どうも猫の唾液まみれとなったそれをペットボトルへ戻す気になれない。放置はできないのでゴミとしてビニール袋へ入れておくことにする。


 猫も行ってしまったし、そろそろ出発するかと立ち上がった拍子に胸ポケットからスマホが滑り落ちた。やってしまったと思ったが、地面が土で画面が割れる心配はないと気づいて安堵あんどした。


 スマホを拾い上げて付着した土を払いながら画面が無事かを確認する。念のため電源を入れてみるとデジタル時計で二時十二分と表示された。三時くらいかと思っていただけに少し得したような気分である。

 

 電源を落としてスマホをポケットにしまおうとした私は、もう一度ボタンを押して画面を立ち上げ、かぢな駅では圏外となっていたアンテナが二本だけ復活していることに気がついた。


 ならばGPSも使えるかと地図アプリを開いたものの、電波が弱いせいか詳細がまるで表示されず、灰色一色の画面のままで周辺地図がロードされる気配は一向になかった。


 ここまで来ておいて急ぎで調べる用件もない。日が暮れる前に宿へ到着できればいいのだ。とりあえず電波が飛んでいることを確認できただけでもよしとしておこう。


 今度は落とさないようにとスマホをジーパンのポケットにしまってデイパックを背負い直した私は、水のほとんど残っていないペットボトルを片手に山道へと戻った。


 茶トラをかまっていたときには気にならなかった蝉の鳴き声が、休憩する前よりも一段とやかましくなったようだ。比例して先ほどより暑くなった気もするが、うるささと暑さが相関関係にあるはずもなく、不快感が増してそう錯覚しているだけなのだろう。




 どれくらい歩いたのか正確にはわからないが、何度かアップダウンを繰り返すとブナに混じってヤツデに似た大きな葉を持つ植物が道の両側に繁りだし、ついに木立のあいだから遠くを見通せなくなってしまった。視野をさえぎられたおかげで空間が暗くなったようにも感じる。


 私はなんとなく背後を振り返り、こんなに他の登山者に行き合わないものだろうかと、登山道に入ってから何度目かの同じ疑問を頭に思い浮かべた。


 まあ、駅へのアクセスが一日二本しかないバスだけなので、この時間帯に下山する人に会わないのは当然とも言える。おそらく、さっきすれ違った女性は他の停留所まで歩くつもりなのだろう。まだ日も高いし、駅までだって二時間ほど掛ければ歩けない距離ではない。


 ペットボトルに口をつけようと腕を上げかけた私は、ちょっと前に空になってしまったことを急速に思い出し、水がなくても大丈夫だという最前の自分の考えを改めさせられることとなった。


 無性に喉が渇いているわけではないが、ないとわかると欲しくなるのが人というもの。私は手に持ったペットボトルを目線の高さに持ち上げ、容器内に少しでも水が残っていないだろうかと未練がましく覗き込んでみた。水滴くらいは残っていると思っていたが完全にからである。


 都合よく湧き水でもその辺にないものかと探しながら歩いていると、右手前方に立て札らしき木片が見え、私はまさかと思いつつも自然と足を速めていた。ここからでは木片の背後は植物に隠れていてよく見えない。


 近くまで行くと木片はやはり立て札で、その背後だけ岩で組まれたほこらのようになっており、私が望んだように都合よく水が湧いていた。悪いことの後には良いことが起こるものさ。


 その場にしゃがんだ私は、流れ落ちる湧水ゆうすいの下でペットボトルを構えた。そういえば立て札には何と書いてあるのだろう。


 首を伸ばして確認しようとした刹那、ガサガサという音が近くの繁みから聞こえ、反射的に立ち上がった私は思わず持っていたペットボトルの飲み口を棍棒のように握り、いずこからか迫りくる何者かに対して身構えた。


「あれ、こんぬづわ」


 んだばかりの水がドボドボとこぼれ落ちるなか、ガサッとひときわ大きな音がなったかと思うと、私の正面左斜めあたりの薮を掻き分け、こさか氏と同年代くらいと思われる小柄な色黒の男が現れた。

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