地元民
まだ遠くにあると思っていたバスは意外と近くまで来ていたようで、ガタガタと踏切を通過する音が聞こえた方を私が見ていると、ハァーッと溜め息のような音を吐き出して駅舎の陰から広場へと姿を現した。
「バス、来ましたね」
振り返って老婆を見ると、彼女はもごもごと口もとを動かしながら私の顔を見上げていた。
私たちから二メートルも離れていない場所にバスが停車し、プスーッという炭酸飲料のプルタブを起こしたときのような音を立てて乗降口のドアが開いた。
「お先にどうぞ」
再び老婆に目をやると彼女は顔を正面に向けて、広告が横長に貼られているバスの胴の辺りをジッと見つめていた。私が口を開こうと息を吸い込んだところで老婆がもう一度、「きぃづげでなぁ」と念を押すように
私は動こうとしない老婆を不審に思ったが、もしかしたらバスを待っていたのではなく、家族の誰かが迎えに来るのを待っているのかもしれないと思い至る。
「それでは、お婆さんもお気をつけて」
そう言って私がベンチを離れ、バスの運転席に近い方にある乗降口のステップに片足をかけると、「お客さん」と
顔を上げると四十代くらいの不機嫌そうな表情をした運転手の男と目が合った。男の顔は眉毛が細く整えられ、牛の鼻輪を思わせるピアスが鼻の両穴から垂れ下がり、下唇の真下からもトゲのようなピアスが突き出ている。脱色された長い
「そご、降りっどごだがら、乗っどごに回っでぐれっが?」
普段はバスに乗る機会が滅多にないのでよく知らないのだが、私の地元で走っていたものと同じで、どうやら乗車口と降車口がそれぞれ別になっているタイプらしい。
「そんなに
そんなつもりのなかった私は「いえ、睨んでなんていませんよ」と言って、そそくさと後方にある乗車口へと向かった。
バスの中に頭を突っ込むとステップの途中に「整理券」と表示された発券機が設置してあり、下向きの矢印の書かれた取り出し口から、舌を出すような感じで白い紙片がチラッと飛び出していた。
「整理券をおどりくださーい」
バックミラー越しにこちらを見ているのか、運転席の方から事務的でぶっきらぼうな調子の声が飛んできた。
紙片を抜き取ってステップを上りきり、ざっと車内を見渡すと、運転席の背後あたりに三人の乗客が固まるようにして座っているのが見えた。私が乗車するのを
あまり気分のいいものではないが、私の地元でも
発券機のすぐうしろにある一人掛けの席に腰を下ろすなり、ガチャリと音を立てて目の前のドアが閉まった。やはりあの老婆は乗らないのかと窓から外を見ると、まだ彼女はさっきと同じ姿勢で車体の広告があるあたりへ顔を向けたままだった。
運転手の男が「しゃおう、れいっ」と意味不明な掛け声を上げたかと思うと、バスはゆっくりと動き出して右へカーブを切りはじめた。広場から左に折れて中央線も外側線も引かれていない道路へと出る。広葉樹の林の中に入り背後の駅舎が見えなくなると日光が
前の方に固まっている三人へ何となく目を向ける。何やらひそひそとやっているようだったが、そのうちひとりが立ち上がってこちらへ向かってくるそぶりを見せると、別なひとりがそれを制止するように手を伸ばした。
「ちょっ、こさかさん。バス動いでんのに立っだらダメだっぺよ!」
ミラーに映る車内の様子を見たらしく、運転手の男が顔を左へ向けて怒鳴った。道路は舗装されてはいるが補修が必要な箇所が多いようで、バスの車体は走り出してからずっとガタガタと不規則に揺れている。
「だぁいじょぶ、だぁいじょぶ。おめぇはしっがり前見でうんでんしでろ!」
こさかさんと呼ばれた六十代くらいの男が怒鳴り返す。白髪交じりの髪は短く刈り込まれ、首には手ぬぐいのような黒い布をかけており、汚れの目立つ白いポロシャツの袖からは太くはないが筋肉質の腕が伸びている。日に焼けた浅黒い肌が外で農作業をする姿を容易に想像させた。
運転手の男は「怪我しでも知んねぇがんな!」と
「おい。あんたぁ、どっがら来だ? とうぎょうか?」
こさかさんと呼ばれた男は揺れる車内をのしのしとこちらへ近づいてくると、上半身を私の頭上へ覆いかぶせ、身をひねって下から顔を覗き込むようにして訊ねてきた。少し変わった人だなと思いながらも、顔には出さないように気をつけて「ええ、そうです」と私は答えた。
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