幸せな世界へ、愛と共に

風見 坂

幸せな世界へ、愛と共に

 重く、鈍く、冷たい衝撃が、身体全体を駆け巡る。

 普通なら気を失う程の痛みが、一瞬襲いかかり、波のように引いていく。

 視界は赤く染まり、全身の感覚が消えてゆく。

 時間がとてもゆっくり流れているように感じながらも、耳に入る声はいつも通りの速さ。

 男のものか女のものか分からないような悲鳴が辺りに響き渡り、意識が途絶える。

 最後に目にするのは、多くの人の恐怖と驚愕に染まった顔。


***


 あったはずの未来。

 それが無くなった時、たいてい多くの人が声を揃えて言う。

 ――若いうちから可哀想に。

 ただ、これが自殺だった時、発言は変わってくる。

 ――勿体ない。

 ――飛び込みとか迷惑だしやめてくれ。

 ――死ぬことないのに。

 こんな発言は、自殺した子が生きていた頃、どんな生活をしていたか知っている人にのみ許されるべきではないかと、私は思う。

 確かに迷惑なのは分かる。

 それでも、自害しようというのなら、今まで散々傷ついてきたというのなら、最後は一瞬で終わりにしたいだろう。

 これから生きていたら良いことがあるかもしれない、だから勿体ない、と言うのも分かる。

 だからといって、そんなあやふやで微かな希望に縋るなら、いっそもう、自分の手で地獄を終えてしまいたいと願うだろう。

 私は、隣に座る女の子に同意を求めた。


「はは、確かにそうかもね」


 彼女は肩を揺らして笑いながら、続ける。


「なら、私達もそうしよっか」


 彼女の瞳を覗くとそこは、ほんの小さな光と真っ暗な闇に覆われていた。

 ほとんど感情を失った眼。

 私と同じ、虚しい眼。

 そこに宿る小さな光が私だったらいいな、なんて、柄にもなく考える。


「関係ない人に迷惑かけちゃうけど、人生で最初にして最後の、正真正銘、一生に一度のお願い、聞いてもらおう」


 彼女の言葉に首肯し、私は身体を起こした。

 辺りを見渡しても、平日の昼間から大公園の芝生の上で寝転がっている学生なんて、私たち二人くらいだ。

 高く昇った太陽が、暖かい光で包み込んでくれる。

 隣に寝転がった彼女も身体を起こし、伸びをした。


「でも、電車より楽な死に方無いかな……?」


 そんなのがあるなら、その死に方を選びたい。

 二人して、数分間頭を悩ませたけど、結局思いつかなかった。

 高所からの飛び降りは、失敗したら大怪我だけ負って死ねない。

 海への飛び込み、つまり溺死は、窒息の苦しみを味わいながら、自分の意思で海の中に居続けなければいけない。

 首吊りは、神経が麻痺して苦しくないって言うけど、やっぱり息が出来ないうちは苦しいような気しかしなくて嫌だ。

 他にも、色んな方法を思い付きはするけど、どうしても電車が一番楽な気がする。


「日付は……いつにしようか」


 彼女は少し楽しそうに首を傾げて悩む素振りをする。

 ただ、私は知っている。

 彼女の中で、その日は既に決まっている。

 あの日と同じ、八月一日。

 去年のその日に、私と彼女は、運命の糸に結ばれた。


***


 当時の彼女の目には、僅かな光さえなかった。

 ただただ黒く、深い闇を抱え込んだ目からは、見た目と相まって、一種の魅力を感じた。


「……あっ、あの……ごめんなさい…………」


 背後で快速電車が通過していく。

 通過によって引き起こされた風を身体に浴びながら、掻き消えそうな彼女の言葉を、私の耳はしっかりと受け取った。

 謝る彼女の声は、震えていて、怯えているような雰囲気であるにも関わらず、どこか淡々としていて、機械的だった。

 私が無理に引き攣った笑みを作り、大丈夫だと伝えると、少しほっとしたような様子になった。

 続けて彼女は、ハッとしたように掴んでいた私の腕を離した。

 数秒間どぎまぎしたかと思えば、彼女は私に例の目を向けて、突然、言い放った。


「その、あの…………わ、私と一緒に死にませんか」


 朝にしては遅く、昼にしては早い時間帯。

 快速の止まらない駅に、人は少なく、彼女の発言を耳にした人は、私以外いなかっただろう。

 耳を疑うことは無かった。

 彼女の目が、私と同じ匂いを発していた。

 考えるより先に、私は頷いていた。

 だけど、彼女は目を瞑っていて、かと思えば急にあたふたしだした。


「ごめんなさい、私、変なこと言って……」


 彼女が何故そんな話を私に持ちかけたのかは容易に想像できた。

 同じ匂いのする彼女も、私と同じ、死にたいと願っている。

 そして今、彼女は、

 今度は、しっかりと声に出して、先程の提案に対する同意を伝えると、彼女は驚いた様子になった後、一切上がる気配のなかった口角を、僅かに上げた。


「ほんとに、いいの?」


 いつも乗っている普通電車が入ってくるアナウンスを聞きながら、私は頷いた。

 先程から、ほぼ変わることのなかった表情が、ハッキリと笑顔に変わった。

 綺麗な長い黒髪と、綺麗に整った美しい顔に、目を奪われた。

 それ以上に、笑顔になって尚、光を宿さない目に、心から惹かれた。

 この日から、私たちは[友達]になった。


 数日後、まだ夏休みの時、彼女と会うことになった。

 特に何をするでもなく、ただ会うだけ。

 その日に、私たちは互いの事情を教え合った。

 私は生まれた頃からの辛い日々だったけど、彼女のは、過去にあった幸せが根こそぎ奪われて、私に近い状況に落とされるというものだった。

 そのせいで、希望を失い、ただ機械的に生きるようになってしまったらしい。

 学校でも、綺麗でありながら虚ろな為に、いじめの対象にされてしまった、との事だった。

 本人曰く、綺麗じゃないらしいが、誰がどう見ても女優レベルの美しさを持っている。

 昔の明るい頃の彼女は、さぞ輝いていて、夢のような生活を送っていたのだろう。


「死ぬまでに何したい?」


 互いの事情を明かしたあと、彼女は唐突にそんなことを聞いてきた。

 真夏の暑い陽射しが、公園のベンチに座る私たちの肌を焦がしていくのを感じた。

 ただ、何となく、海に行きたいと思った。


「海かぁ……いいね。一緒に行こっか」


 そう言う彼女の顔は、太陽の光が眩しくて見えなかった。

 ただ、頬を伝う雫が、陽光を反射して輝くのだけが、目に付いた。

 それが涙だと気付くのに、数秒の時間を要した。

 彼女が、泣いている。

 その事実を理解出来なくて、そのまま更に数秒、隣に座る彼女の顔の方を見つめていると、視線に気づいたのか、彼女は目元を擦りこちらを向いて、少し首を傾けた。

 やはり、強い日差しが見事に顔を隠していて、ハッキリと見えないけれど、多分、照れ隠しのように苦笑しているんだと思った。


「ごめん、急に……なんか勝手に、涙が……」


 理由は聞かずとも、大体想像がつく。

 過去の、幸せな頃の、海での思い出でも想起したのだろう。

 彼女からの心中の提案を受けた時と同じように、考えるより先に体が動いた。


「えっ…………」


 胸元から、戸惑いの混じった、くぐもった声が聞こえてくる。

 頭を撫でてあげると、彼女はそのまま、何も言わずに私に抱きしめられた。

 私の履いていたズボンだけが、にわか雨にあったように濡れた。

 ただでさえ暑い夏の昼前に、熱い陽光に照らされながらこんなことをするものだから、汗が出てくる。

 それでも、そんなことを気にすることなく、数分間、私たちはそうしていた。


「ズボン、ごめんね……」


 少し離れ、また元通り、隣り合わせに座り直してから、彼女が顔を伏せて言った。

 別に、気にする必要は無い。

 私には、彼女の気持ちは分からない。

 だけど、だからこそ、直感を信じて、彼女の為になることをしてあげたかった。


「ありがと」


 そういう彼女の顔は、やはり、眩しい太陽のせいで見えなかった――


 それからというものの、私たちは度々連絡を取り、そこそこの頻度で会う仲にまでなっていた。

 幼い頃から親の虐待を受け、感情を捨てていたのに、学校でも虐められるようになり、負の感情を思い出し始めた私。

 幼い頃はとても幸せな家庭の中で育ち、未来に光を見ていたにも関わらず、突然暗闇の中へ突き落とされ、感情を捨てた彼女。

 どこか似ているようで、実際大きな違いを持つ私たちだったけど、二人を繋ぐ糸は、確実に硬く、固くなっていた。


***


 ほんの約九か月前のことを思い出して、随分と変わったなと実感する。

 私が自殺しようとしたあの日、彼女の中の、蓋をされた感情が、少し漏れ出た。

 そこには、負の感情だけじゃなく、正の感情も含まれていて、私に光を見せてくれた。

 私は――きっと彼女も――今年の八月一日をゴールにして、互いに支え合って、ようやくここまで来れたんだと思う。

 公園の芝生の上で、隣に座る彼女の方に目を向けると、やっぱりそうだよね、と言わんばかりに、彼女は頷いて見せた。


「八月一日。この日が私たちの最後の日。そして……」


 彼女はそう言うと、かつての約束を、再び口にした。


「八月一日に、一緒に海に行こうね」


 そう言う彼女の目には、確かに光が宿っていて、その光が、私を幸せな世界へ導いてくれる気がした。


***


 そして、長いようで短い、辛くも、幸せを感じられる三ヶ月を過ごして、今日、八月一日。

 私たちは朝から近場の海に向かった。

 夏休み真っ只中の海には人が沢山いて少し気が引けたけど、彼女と一緒だと思うと、何も怖くなくなった。

 痣や傷は、そもそも目立つ場所には付けられてなかったから、ラッシュガードを着たら隠せた。

 痣や傷による痛みも、日頃から慣れていたから、気にもならなかった。

 だから、気兼ねなく彼女と遊べた。

 特に何をするとか決めてなかったけど、一緒に泳いだり、砂遊びをしたり、海水をかけあったり、海の家で焼きそばを食べたり、とにかく色々した。


「楽しいね」


 眩い太陽に照らされながらも、それ以上に輝く笑顔を、彼女はしていた。

 私には、そう見えた。

 自然と私の口角も上がって、笑顔になる。

 すると突然、何を思ったのか、彼女が私に抱きついてきた。


「ありがとう。ホントのホントにありがとう」


 唐突な‘’ありがとう”という言葉に、どう答えたら良いのか分からなくなって、狼狽えた。

 ただ、夏の暑さとか関係なく、彼女の温もりはとても暖かくて、とても優しかった。

 私も抱きしめ返す。

 時刻は夕方に近づいてきていた。

 まだまだ沢山いる他の人達は、それぞれが楽しそうに過ごしていて、私達の事なんてこれっぽっちも気にしていないようだった。


「あの日、会えてよかった。今、とっても幸せ」


 私もだよ。

 そう伝えると、彼女は私の顔を見て、笑った。

 ただ、その笑顔にはどこか陰が見えた気がした。

 勘違いかもしれないけど、どこか確信めいたものも感じていた。


「どうしたの?」


 知らぬ間に困ったような表情をしてしまっていたらしく、彼女が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 私からすれば、その言葉は私のモノだ。

 何かあるなら、彼女には気兼ねなく言って欲しい。

 そう思った。

 ただ、そんなことは私に言えるはずもなく、ただ、何ともないとだけ、言った。

 すると彼女は、少し笑みを戻して、言ってきた。


「初めての海、どうだった?」


 驚いた。

 海に行ったことがないことは、言っていなかったはずだ。

 そんな私の考えを読んでか、彼女はまた笑って、こんなことを言ってのけた。


「考えてること、分かりやすいんだもん。今だって驚いてたの丸わかり」


 人生最後の日に初めて知った。

 もしかすると、彼女の前だから素直な自分が、素直な気持ちが、表情になって出てるのかもしれない。

 きっと、そうだ。

 そう思い始めたら、何となく嬉しくなった。

 彼女が私の中で、ちゃんと特別な存在になっているんだと、そう感じられた。


「やっぱり笑顔が一番だよ」


 両手で私の顔を挟む彼女は、嬉しそうにそう言う。

 気づけば、私の顔に笑顔が浮かんでいた。

 去年のこの日、嬉しい、幸せ、楽しい、といった良い感情達を、彼女から貰った。

 私からは、一体何をあげられたのだろう。

 彼女の目に宿る、小さかった光は大きくなっていて、それが私の贈り物だったらいいなと、そう願う。


「そろそろ時間だね」


 私達は今日この日、心中する。

 改めて心の中で復唱して、思う。

 寂しいな。

 ちょうど一年前なら、そんなこと思わなかった。

 この気持ちは、彼女がくれた、現世へのしがらみ。

 だからこそ、二人で一緒に死ぬ。

 普通に、並大抵に暮らしている人達からしたら、理解できない、理解されない考えなのは知っている。

 ただ、理解してもらおうなんて考えていない。

 私にも、もっと彼女と遊びたい、一緒にいたいという想いはある。

 それでも、この事実は変えられない。

 私達は今日この日、心中する。


「少し寂しいね」


 私の顔を見て、何か悟ったんだろう。

 彼女も同じ気持ちだったんだと、理解する。

 彼女の言葉で、さっきの陰りのある笑顔が頭に浮かぶ。

 あの時も彼女は、寂しいと感じてくれていたんだろう。

 それがなんだか嬉しくて、幸せで、愛おしくて、悲しかった。

 この世への執着を、私が彼女に与えてしまっているようで、胸が痛んだ。

 私がしがらみを作るのはいい。

 私が命を惜しむのはいい。

 ただ、彼女には、最後まで幸せな気持ちだけでいてほしかった。


「行こ」


 無理に作った笑顔で彼女が歩き出す。

 傾き始めている太陽が彼女を照らす。

 そこに出来た影が、嫌に黒く、長く伸びていて、ますます私の胸を締付ける。

 彼女のために、死ぬのを辞める。

 そんな考えが頭に浮かんで、消えた。

 きっと世間的に正しいのはそっちなんだろう。

 でも、私達の中での正しさはきっと、そうじゃない。

 死は私達の救いだ。

 例え私達が互いに励ましあって、幸せを与えあっても、それ以上の苦しみが襲ってくる。

 今までの人生で痛いほど理解している。


 色んなことを考えながら彼女と歩いていると、気づけばもう、私達の終着点にいた。

 彼女が笑顔をこちらに向けて、言った。


「寂しいけど、嬉しい」


 あっけに取られていると、さらに彼女は続ける。


「去年のあの日、この提案に乗ってくれて、そしてそれが実現するんだと思うと、とっても幸せ。本当にありがとう」


 駅には既に、海から帰る人達で溢れていた。

 今から私たちがすることを知らずに、それぞれが楽しそうに話している。

 そんな喧騒が、彼女の言葉に呼応して、波のように静かに引いていく。

 そんな感覚に囚われながら、最後の彼女の言葉に耳を傾ける。


「私ね、輪廻転生信じてるんだ。きっと来世では一緒に幸せにいてれるよね」


 視界が唐突にぼやけ出して、頬に何かが伝っていくのを感じた。

 ただ、そんな中で、今までで一番の笑顔を作って、頷く。

 彼女も、目に涙を浮かべて、満面の笑みを作って、それが綺麗で、美しくて…………


「……っ!?」


 気づけば私は彼女の唇を奪っていた。

 初めは驚いた様子の彼女も、抵抗することなく私を受けいれてくれた。

 周りの人達のことなんて、頭の片隅にもなかった。

 10秒ほどの口付けの後、電車のアナウンスが鳴り始めた。

 海岸沿いを駆け抜ける特急のものだ。

 この電車が、私達を幸せな世界に運んでくれるモノだ。

 彼女と顔を見合わせ、笑顔で見つめ合い、本当に最後の、別れの軽い口付けをして、そして…………

 特急が入ってきた線路へと、二人で飛び込んだ。


***


 重く、鈍く、冷たい衝撃が、身体全体を駆け巡る。

 普通なら気を失う程の痛みが、一瞬襲いかかり、波のように引いていく。

 視界は赤く染まり、全身の感覚が消えてゆく。

 時間がとてもゆっくり流れているように感じながらも、耳に入る声はいつも通りの速さ。

 男のものか女のものか分からないような悲鳴が辺りに響き渡り、意識が途絶える。


 去年の想像と違ったのは、最後に見るものだった。

 最後に目にするのは、最愛の人の笑顔だった。


***


 死ぬまでの僅か1秒にも満たないであろう間に、走馬灯を見た。

 人生の9割以上が辛いものだったにも関わらず、走馬灯として出てきた記憶達は、直近一年の、彼女との思い出だけだった。

 自殺を止められた日、二人で事情を明かした日、ショッピングモールに遊びに行った日、初めてプリクラを撮った日、初めて映画というものを見た日、他にもどれもこれも素敵で、大事で、一生の宝物と言える記憶だった。

 最後幸せな気持ちで死ねて、嬉しいと感じた。

 彼女もそうだといいなと、願った。


***


 目を開けると、綺麗な雲ひとつない青空が広がっている。

 暖かな太陽が私達二人を照らし、心地よい風が吹き付けて来る。

 隣を見ると、心地良さそうに、笑顔で眠る彼女。

 ふと、身体を起こすと、彼女が目を覚ました。


「ごめん、起こした?」

「大丈夫だよ」


 眠そうに目を擦りながら身体を起こす彼女は美しくて、眩しくて、綺麗だ。

 彼女を見ていると、思い出す。


「最近夢を見るんだ」

「どんなの?」

「綺麗な女の子と、心中する夢」

「私もそれ見るよ」


 彼女の言葉に驚きつつ、何となくそんな気もしていたからか、嬉しくなる。


「前世の記憶ってやつかな」

「多分ね」

「今幸せ?」

「あの頃も、今も、一緒にいてる間はずっととっても幸せだよ」


 それを聞いて、遠い過去の、暗い世界に生きていた自分に、そっと心の中で伝える。

 彼女も幸せな気持ちで世を去れたみたいだよ、と。

 そして、望み通り来世では、また彼女と巡り会って、幸せに暮らせているよ、と。

 届くことの無い胸中の言葉たちは、空を見上げると同時に、もうここにいない私の元へと届いた気がした。

 隣に座る彼女と笑い合い、手を繋いで、二人で空を仰ぎ見る。

 今日も綺麗な太陽が、輝いていた。

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