差異
混沌加速装置
差異
「ねぇねぇ、しってるぅ?」
新鮮な空気を吸おうと私が外へ出ると、いかにも
「ねぇねぇ、しってるぅ?」
周りに他の子供の姿は見当たらない。ということは、どうやら私に問い掛けてきているらしい。何か面白いものでもあるのか、女の子はじっと地面に視線を注いでいるように見える。
「どうしたんだい」
私は女の子に近付いて声を掛けた。正直に告白すれば、私は子供という生き物が苦手だ。どう対処していいのかわからなくなる。
「パパはねぇ、えらいんだって」
まず、こうした子供特有の唐突さというか、会話の脈絡の無さに
「パパはねぇ、まいにちかいしゃにいって、はたらいてるんだって。だからねぇ、えらいの」
女の子は顔を上げずに地面を見たまま、舌足らずな口調でそう続けた。それならわかる。それより何をそんなに熱心に見ているのだろう。私は女の子の背後から地面を覗き込んでみた。
「何を見ているんだい?」
特別なものは何も見付けられず、とうとう我慢できなくなった私は、女の子に直接訊ねてみた。
「アリさん」
なるほど、確かに地面には蟻の行列ができている。門柱の辺りから始まっているらしいそれは、女の子の前を横切り
「アリさんもさぁ、えらいよねぇ」
私も子供の頃はよく一人でこうして、地面を這い回る小さな
「だってさぁ、まいにちはたらいてるもんねぇ」
子供に説明したところでわかるまい、と私は思ってしまった。実際に働いている蟻たちは全体の八割で、残りの二割は動いているだけだということを。大人はこれで理解してくれるだろう。子供に対してよりも大人に説明する方が簡単だとは、何とも皮肉な話ではないか。
「じゃあさぁ、パパとアリさんはさぁ、おなじだよねぇ?」
「そうだね」
女の子がどういう意味でそう言ったのか、私は深く考えもせず安請け合いしてしまった。彼女は垣根の方を向いたまま話しているので、私の位置からその表情までを読み取ることはできない。しかし、どうせ同じだ。人間社会においても、真面目に働いているのは全体の八割程度だろう。
「じゃあさぁ、ひととアリさんもおなじだよねぇ?」
それは違う、と私は
「違うよ」
「えー、でもさぁ、パパとアリさんはおなじなんでしょぉ。パパはひとだもん。なんでちがうのぉ?」
おそらく私はこういう質問が来ることを予想して、それで躊躇ってしまったのだろう。
「大きさが違うじゃないか」
いくら子供相手とはいえ、あまりにもお粗末な返答をしてしまった、と私は情けなくなるとともに少々後悔した。
「そうじゃないもん……」
女の子はふて腐れたようにそう言うと、行列からはみ出した蟻を指で潰し始めた。残酷さと純粋さは、もしかしたら紙一重のもの、あるいは表裏一体なのかもしれない。
「よしなさい。そんなことをするのは」
思わず私は女の子を叱っていた。すると女の子は首だけを捻って、ようやく私の顔を見上げてきた。なぜ怒られたのかわからないという、不思議そうな目をしている。
「なんでぇ? なんでダメなのぉ?」
秋の穏やかな陽光を反射して、まるで純粋さの象徴でもあるかのように、女の子の瞳はきらきらと輝いていた。私はその瞳に見つめられて、どうしようもなく目をそらしてしまいたい気持ちになった。
「可哀想じゃないか。蟻さんだって生きているんだよ。そんなことをしたら死んじゃうよ」
「しんじゃう? しんじゃうってなぁに?」
女の子はあどけない表情で、真っ直ぐに私を見つめ返してくる。果たして私は「死」という現象を、この子にうまく説明できるのだろうか?
「いいかい。死んじゃうというのは――」
視線を
「ほら、見てごらん。その蟻さんはもう動いてないだろ?」
私が蟻を指差すと女の子はゆっくりと視線を動かした。
「その蟻さんは死んじゃったからもう動けないんだ」
子供に説明するにはこれで十分だろう、と私は思った。なんやかやと小難しい言葉を用いたり、秩序立てて理論を
「でもさぁ、ねてるパパ、もううごかないよ?」
「え?」
「じゃあさぁ、しんじゃうのとねてるパパはさぁ、おなじだよねぇ?」
「それは――」
私は言葉を続けられなかった。死んでいることと寝ていることの明確な違いは何だ? 寝ている人間を見て「死んだように眠る」と表現したり、死んだ人間を見て「まるで眠っているかのようだ」と言ったりするではないか。そう考え出すと両者の境界線は
子供相手に私は何を……馬鹿馬鹿しい。眠っている人間は呼吸をしているではないか。
「違うよ。寝ているパパは息をしているだろう?」
「いき? いきってこれぇ?」
女の子は両手を口元に当ててハァーと息を吐いた後、クスクスと笑ってこう言った。
「おじさんさぁ、ほんとうはしらないんでしょぉ?」
虚を
「パパねぇ、いきしてなかったもん」
そのような縁起でもないことを耳にして、私は不愉快な気分になった。ここは一つ厳しく教え
「いい加減にしなさい。大人をから」
「ママがねぇ、こうやっておしてたんだよ。そしたらねぇ」
私の言葉を
「パパねぇ、ねちゃったの。ママがねぇ、いってたよ。パパはまいにちはたらいてるから、つかれてるんだってぇ」
突然の空からの襲撃に
「だからねぇ、ママはやさしいからぁ、パパにおやすみあげたんだってぇ」
潰されても潰されても次々とやってくる蟻たちは、潰される運命を甘受しているようにも見える。
「アリさんもさぁ、つかれてるよねぇ。だからねぇ、おやすみあげてるの。やさしいでしょぉ?」
女の子の純粋で残虐な行為に、いつしか注意することも忘れた私は、ただただ見入ってしまっていた。
「ねぇねぇ、パパとアリさんはさぁ、おなじだよね?」
差異 混沌加速装置 @Chaos-Accelerator
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます