青竜教会
そのことを自覚したのは、
信仰とは別に、考えなければならないことが多すぎる。修道士であったころからそう思っていた。
自分が物心ついたときから思い描いていた教会というものとは、何かが違う。とくに、
そして、
教皇には、あるいは枢機卿には、より信心深く、より国のことを思う人間が就くべきである。シュローヴもそう考えている。興味が無いわけではない。しかし、それが誰であるかなどということに
いまシュローヴは、教皇の言葉を待っていた。
とにかく、息苦しかった。その感覚を、腐っているという一言で表した者がいた。ともに信仰と学問に励んできた友である。修道会での生活を送る中で、自然とできた友だ。生きること、信じることについて語り合い、何年も寝食を共にしてきた。
その友はいつしか教会に姿を現さなくなった。忘れよ、と司教は言ったが、シュローヴには思い出の一切を忘れることができなかった。その言葉を発した司教の顔と一緒に、記憶に留め続けた。友が破門されていたと聞いたのは、数年後だった。
腐っているという言葉のせいか、それともそう思うこと自体が招いたことなのか、シュローヴには判断ができない。思っているだけで罰を受けるというのであれば、自分も教会を追われて然るべきだが、そうなってはいない。ただ、自分の考えていることを言葉にするのはやめた。
自分の思いを表せるのは、祈っているときだけになった。口から言葉として発するのは、
そうしているうちに、なぜか職を与えられるようになった。
壇上に、
教皇ハイメ三世が、手を挙げそれに応えた。それで、信徒はさらに沸く。シュローヴも教皇の登壇には、やはり胸が昂った。
「水と土の母、海と大地の主よ」
しかし教皇の祈りの言葉が始まると、信徒たちは水を打ったように静まり返る。胸に掌を当て、同じように文言を復唱する。
「最後の子たるわれらに加護を、
この文言を唱えている間は、ほんとうの自分であることができる。シュローヴは教皇の声に、そして自分の言葉に集中した。
この世界を創った青き竜。その息吹は水の飛沫となって
すべての
聖典の文言を唱えた教皇は、すべての視線が注がれる中で再び口を開く。その声は、
「嘆かわしいことだ」
声には、沈鬱な色があった。
「隣国の友が、海を越えわが国にやってきた。しかし馬に乗り剣を携え、死の風とともにやってきた。風に
死の風。赤き竜の遺した風である。それが再び吹いたことは、シュローヴのように地位がある者でなくとも、皆が知っている。そして風が吹いたのと時を同じくして現れた、赤の国の異教徒たち。
「我らは信仰を異にする者同士。しかし言葉で結ぶことができたはずの友情が、いま剣でもって断ち切られようとしている。嘆かわしいことだ」
南の街はすでにいくつかが焼かれ、教会直属の軍隊である
「今また、言葉で友情を結ぶため、
教皇が両手を拡げるのに合わせ、信徒たちが
「祈るのだ。すべての子に加護のあらんことを」
教皇が話し終えるとまた歓声が上がる。その声を背に教皇が降壇すると、数名の
シュローヴなどの司祭や、以下の信徒たちは、議会の決定をここで初めて聞くことになる。それはまた触書となって、今度は教会の外、つまり民に向けて発表される。今日は、いくつかの祭事が戦時のため規模を縮小して
集会はほどなくして終わった。信徒たちは思い思いに散っていく。
「教皇
同輩の司祭が、歩み寄ってきて言った。
「それはそうだろう」
「今年は
祭事が取りやめ、あるいは小さく
ただ、
「猊下は、お心だけでなくお身体も痛めておられるのだろうか」
「滅多なことを言うな。なぜそう思う」
そうでなければ、あらゆる祭事を控える理由がないからだ、とシュローヴが言うと、同輩は怪訝そうな顔をした。祭りは民の意気を高める。しかも赤竜を鎮める祭りであるのに、なぜ教皇と数名だけのものにしようとするのか、シュローヴには分からなかった。
まずい話になるとでも思ったのか、同輩は首を振って話題を変える。
「
「あの、南から来たという? 私は城に行く機会が多くない。見られなかったな」
嘘だった。実際は見たどころか、その使節のうち一人の武官と通じるところまでいっている。ただ、そのドロゼル・ナハトという武官は、自分と会うとき、
声を掛けたのはシュローヴからだった。今思えば、気晴らしにでもしようとしたのかもしれない。教会についての不満や疑念を、遠く南から来た一人の男に打ち明けるというのは、新鮮な体験だった。
彼は、情報を欲していた。何のために教会の情報を得ようとしているのかは、
「援軍を急かしに参ったと言うが。どうせ戦うしか能のない者どもなのだ、異教徒くらい己で追い払ってほしいものだな」
言葉には明らかな蔑みがある。都の、とくに聖堂の者たちには、そういうところがあった。
「まあ、そう言うな。マルバルクの城が陥落したというではないか。国のため、命を散らした戦士たちのことを思え」
「それはそうだ。一万ほどの兵力もない城だったと言うがな。しかしさすがに、五万の大軍には異教徒どもも恐れをなすであろう」
五万というが、実際は戦地に向かうまでに、周辺の民兵や領主の兵士も合流するのだという。教皇の名で出された糾合の布告に、多くの者が応えたらしい。話に聞く限りでは、二万ほどの義勇軍がさらに加わることになっている。
「そういえば、そなたの弟子は? まだ
シュローヴが頷くと、同輩は顔を
「だから、
そこまで言って、また同輩は口を
どうでもいい意見だ、とシュローヴは思っていた。
シュローヴは、自分の弟子には必ずその勤めを課すことにしている。先刻のように時代遅れだと言われることが多い。しかし布教もさることながら、国の各地を巡って生き抜く力を身に付け、見分を深めることにはそれ以上の意味があると考えていた。今も十人ほどの弟子が、国内の各地を巡っている。
旅は、決して安全なものではない。しかし人間に必要な力というのは、そういうことの積み重ねで身に付くものだと思えるのだ。だから、誰に何を言われても変えるつもりはなかったし、気にもならなかった。それは自分の、仕事における数少ない
「
そんなことを考えながら歩いていたせいか、自分のすぐ背後から声を掛けられるまで、人が近付いていることに気付かなかった。
「
思わず、シュローヴはその場で硬直する。
この男の
何を話そうとしているのか、ハーマンの話す内容は取り留めのないものだった。ただ世間話をしたかっただけなのかもしれない。話題は、次第に戦のことになった。
「竜の加護と、その加護を受けた戦士たちがおる。南の砂に
ハーマンが自分のことのように得意げな顔になるのを見ながら、シュローヴは別のことを考えていた。
戦への楽観的な態度が気になる。もし、勝利をほんとうに疑っていないのであれば、祭りであろうと、何であれ行えば良いのではないか。南への応援について議決が遅れたのは戦況を楽観していたからなのかもしれないが、今になって本腰になったというわけでもなさそうである。どうもこの後に及んで、上層部の姿勢が見えない。
なにか、探ってやろうという気持ちに、シュローヴはなっていた。
「しかし、このところ祭事はほとんどが行われておりませぬ。信徒も祭りごとがあれば、不安が少しは晴れるでしょうに」
無論私も、という言葉を強調して加えた。
「何を言う。行われておるよ、猊下と我らのもとで」
「そうでしたか。いや、我らのような者には推し量れぬ大事があるのでしょう」
「そう思うか」
「それはもう。議会の皆様もご多忙であるかと存じます。そんな中、軍の出兵はまこと迅速で、英断でございました」
ハーマンはちょっと表情を動かすと、シュローヴを手招きして歩き出した。後ろについたシュローヴに、彼は小声で話し続ける。
「そなた、まことにそう思うておるか。私だけに言うてみよ」
声の調子が低くなっている。シュローヴは、ここが一歩踏み出すところかもしれない、と思った。
「それが、同輩の中には、知らぬこともまことかのように言う者もございますので。私も信用できることと、そうでないことをよく考えねばならぬと思うことが多いのです。
「よい、申してみよ。
「いえ、小耳に挟んだことでございますが」
よい、という言葉が、また聞こえる。ハーマンの顔は前を向いたままだ。
「畏れながら、南よりの使節が
シュローヴはそこで、ほんの僅か、口を閉ざした。
塔へと続く扉だった。いつのまにか、教会の東端へと歩いてきていたらしい。この先には、行ったことがなかった。いつだったか部屋を間違えて、扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていて開けられなかったのだ。それ以来、さしたる用もないので、ここには来ることもなかった。鍵が妙に頑丈な造りになっていたことだけは憶えている。
その扉は開いていた。
「それで、続きを申してみよ。そなたの考えを聞きたいのだ」
振り返ったハーマンは、笑顔を浮かべていた。しかしシュローヴには、それが作られた表情であることがすぐに分かった。自分も、同じように表情を作ることができるからかもしれない。
「教皇
その答えが、この扉の向こうにある気がしてならない。ハーマンの応えはない。シュローヴはそこで、あえて一歩引き下がった。
「出過ぎたことを申しました。猊下はもとより
ハーマンが、頷いた。シュローヴは話しながら、その意味を量る。喋ることと考えることを分離させるのには慣れていた。
「教皇猊下にお目にかかり、
返答は、手だった。シュローヴの肩に、掌の置かれる感触があった。
「神に仕え何年になる、
また、考えた。ここから先を言うことで、どこか戻ることのできないところへ、自分は入っていくのではないか。ふと、そんな予感がした。ハーマンの問いそのものは、大したものではない。しかし肩に置かれた掌から伝わる重みが、その問いの重みも増しているように思われた。
「
掌が、肩から離れた。下げていた頭を上げると、すでに
階段があった。塔の上層へ続くと、シュローヴが勝手に想像していた階段は、しかし下に降りていた。螺旋のように
音がした。茫然と階下を見るシュローヴの背後で、扉が閉まった音だった。錠の落ちる音がする。ハーマンは一度だけシュローヴを見遣ると、ゆっくりと脇を抜けて階段を降りていく。
「そなたにこの国の歴史を教えよう、
シュローヴは、階段を降り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます