青竜教会

 ばつというものに、どうしても馴染めなかった。


 そのことを自覚したのは、助祭ダコンに任ぜられてから、しばらく経ったころだ。修道士として毎日の務めを行っていたころの厳しさが、今度は息苦しさに変わった。同じような生活だろうという同輩もいるが、シュローヴにはまったく異質なもののように思えた。


 信仰とは別に、考えなければならないことが多すぎる。修道士であったころからそう思っていた。


 自分が物心ついたときから思い描いていた教会というものとは、何かが違う。とくに、司教ビショフ司祭プリストの振る舞いを見つめるたびにそう思った。教皇から認められたというには、あまりに俗なものを感じさせる。銭の匂いがした。性の匂いがした。修道士と、およそ口にはできないような関係を結んでいる者もいた。


 そして、ばつである。閥はいくつもあった。その頂点にいるのは枢機卿カルディナルと呼ばれる、ほんの一握りの聖職者である。どうやら、次の教皇に最も近いのは誰かということを、皆が推し量っているようだった。教皇は枢機卿カルディナルの中から投票で選ばれる。閥が作られるのは、票集めのためだと思われた。司教や司祭も、自分の支持する者が有力になればいいと躍起になる。だから教会の人間は、位が高くなればなるほど、そのことに執心した。


 教皇には、あるいは枢機卿には、より信心深く、より国のことを思う人間が就くべきである。シュローヴもそう考えている。興味が無いわけではない。しかし、それが誰であるかなどということにこだわって、教会の内部で陰湿な争いが起こるのは、どこかずれていると思った。よわい四十近くになっても、その感覚が消えることはない。そしてそういう者は、教会の内側では自分くらいしかいないのだった。


 いまシュローヴは、教皇の言葉を待っていた。青竜リントブラウ大聖堂の外庭である。集会の日だった。礼拝自体は日課であるが、月に一度教皇以下、大聖堂の信徒全員が集まる日がある。集まった信徒の数は一万人を超える。そして、登壇する教皇を、壇上で待っている男たち。こちらを向いて立つ男たちが、枢機卿カルディナルであった。教会を動かしているのは彼らだ。教会を動かすということは、この国を動かすということでもある。権力の塊が、目の前にあった。


 とにかく、息苦しかった。その感覚を、腐っているという一言で表した者がいた。ともに信仰と学問に励んできた友である。修道会での生活を送る中で、自然とできた友だ。生きること、信じることについて語り合い、何年も寝食を共にしてきた。


 その友はいつしか教会に姿を現さなくなった。忘れよ、と司教は言ったが、シュローヴには思い出の一切を忘れることができなかった。その言葉を発した司教の顔と一緒に、記憶に留め続けた。友が破門されていたと聞いたのは、数年後だった。


 腐っているという言葉のせいか、それともそう思うこと自体が招いたことなのか、シュローヴには判断ができない。思っているだけで罰を受けるというのであれば、自分も教会を追われて然るべきだが、そうなってはいない。ただ、自分の考えていることを言葉にするのはやめた。


 自分の思いを表せるのは、祈っているときだけになった。口から言葉として発するのは、もっぱら思ってもいないような美辞麗句であって、ほんとうのところではない。やがて表情も、感情とは別に作ることができるようになった。


 そうしているうちに、なぜか職を与えられるようになった。助祭ダコンとなり、今は司祭プリストである。ここでは、感情と言動を切り離せる者が高い位に就くことができるのだと知った。上の階級の者からは、おもねるのが上手い男だと思われているだろう。そう思われている方が都合のいいことが多く、シュローヴも周囲の思うままにさせていた。


 壇上に、紺碧こんぺきの衣をまとった男が現れる。壇上の枢機卿カルディナルも含め、信徒たちが歓呼と拍手でそれを迎えた。その声と音は屋外でも、空に響くほどである。


 教皇ハイメ三世が、手を挙げそれに応えた。それで、信徒はさらに沸く。シュローヴも教皇の登壇には、やはり胸が昂った。


「水と土の母、海と大地の主よ」


 しかし教皇の祈りの言葉が始まると、信徒たちは水を打ったように静まり返る。胸に掌を当て、同じように文言を復唱する。


「最後の子たるわれらに加護を、生命いのち飛沫しぶきを与えたまえかし、銀の風にて死を退しりぞけたまえかし」


 この文言を唱えている間は、ほんとうの自分であることができる。シュローヴは教皇の声に、そして自分の言葉に集中した。


 この世界を創った青き竜。その息吹は水の飛沫となって生命いのちをこの世に撒き、その羽搏はばたきは銀色の風となって撒かれた命を芽生えさせる。海を創り大地を創った竜は、いつか再びこの世界にあらわれ、赤き竜の撒いた死を打ち払うのだ。


 すべての生命いのちの母、世界を統べる伝説の竜。如何なるときも、あらゆる生命いのちを見守る神。それが、青の竜であった。


 聖典の文言を唱えた教皇は、すべての視線が注がれる中で再び口を開く。その声は、直截ちょくせつ胸に届いているかのように感じられる。


「嘆かわしいことだ」


 声には、沈鬱な色があった。


「隣国の友が、海を越えわが国にやってきた。しかし馬に乗り剣を携え、死の風とともにやってきた。風にあおられた火は、我らの戦士たちも、民をも焼いた」


 死の風。赤き竜の遺した風である。それが再び吹いたことは、シュローヴのように地位がある者でなくとも、皆が知っている。そして風が吹いたのと時を同じくして現れた、赤の国の異教徒たち。


「我らは信仰を異にする者同士。しかし言葉で結ぶことができたはずの友情が、いま剣でもって断ち切られようとしている。嘆かわしいことだ」


 南の街はすでにいくつかが焼かれ、教会直属の軍隊である青竜軍アルメの城がちている。異教徒はなおも国土を踏みにじるように暴れまわり、数えきれないほどの兵と民が命を散らせたという。


「今また、言葉で友情を結ぶため、われ青竜軍アルメの勇猛な戦士たちを、南の戦地へと送った。五万の戦士たちは、必ずやかつての友情を取り戻し、この国に安寧を取り戻すであろう」


 教皇が両手を拡げるのに合わせ、信徒たちが喊声かんせいを上げる。


「祈るのだ。すべての子に加護のあらんことを」


 教皇が話し終えるとまた歓声が上がる。その声を背に教皇が降壇すると、数名の枢機卿カルディナルがその後を受けて話しはじめる。ここからは、すべての信徒に向けて、議会で成された決定が伝えられるのだ。


 シュローヴなどの司祭や、以下の信徒たちは、議会の決定をここで初めて聞くことになる。それはまた触書となって、今度は教会の外、つまり民に向けて発表される。今日は、いくつかの祭事が戦時のため規模を縮小してり行われるという決議が伝えられた。


 集会はほどなくして終わった。信徒たちは思い思いに散っていく。昂奮こうふんした様子の者が多い。教皇の言葉は、自分だけでなく多くの信徒の心を温めるのだ、とシュローヴは思った。


「教皇猊下げいかはお心を痛めておられるな」


 同輩の司祭が、歩み寄ってきて言った。


「それはそうだろう」


「今年は鎮火祭ブレンスティークすらも、猊下げいか枢機卿カルディナル方のみで行うというし。戦などなければ」


 祭事が取りやめ、あるいは小さくり行われるようになったのは、実際のところ、今に始まったことではない。現下の戦争が起こる以前、シュローヴの憶えている限りでは五年ほど前から、すでにそういう話はあった。


 ただ、鎮火祭ブレンスティーク――火の季節ブレンネに、都の民もすべて参加の上で行われる、年に一度の赤竜を鎮める祭り――すらも縮小されたのは、今年が初めてである。


「猊下は、お心だけでなくお身体も痛めておられるのだろうか」


「滅多なことを言うな。なぜそう思う」


 そうでなければ、あらゆる祭事を控える理由がないからだ、とシュローヴが言うと、同輩は怪訝そうな顔をした。祭りは民の意気を高める。しかも赤竜を鎮める祭りであるのに、なぜ教皇と数名だけのものにしようとするのか、シュローヴには分からなかった。


 まずい話になるとでも思ったのか、同輩は首を振って話題を変える。


青の巨城ブラウ・シュロスにきた使節とやら、そなたは見たか。私は城から出てくるのを何度か見たが」


「あの、南から来たという? 私は城に行く機会が多くない。見られなかったな」


 嘘だった。実際は見たどころか、その使節のうち一人の武官と通じるところまでいっている。ただ、そのドロゼル・ナハトという武官は、自分と会うとき、青竜軍アルメの立場を捨てていると言った。だから、シュローヴも口外は一切しないと決めている。


 声を掛けたのはシュローヴからだった。今思えば、気晴らしにでもしようとしたのかもしれない。教会についての不満や疑念を、遠く南から来た一人の男に打ち明けるというのは、新鮮な体験だった。


 彼は、情報を欲していた。何のために教会の情報を得ようとしているのかは、いていない。そこまでは踏み込まないようにしている。ただ、だからといって誰にも言える関係ではない。あのドロゼルという武官がそうしているように、シュローヴもすべて隠したうえでの接近だった。


「援軍を急かしに参ったと言うが。どうせ戦うしか能のない者どもなのだ、異教徒くらい己で追い払ってほしいものだな」


 言葉には明らかな蔑みがある。都の、とくに聖堂の者たちには、そういうところがあった。


「まあ、そう言うな。マルバルクの城が陥落したというではないか。国のため、命を散らした戦士たちのことを思え」


「それはそうだ。一万ほどの兵力もない城だったと言うがな。しかしさすがに、五万の大軍には異教徒どもも恐れをなすであろう」


 五万というが、実際は戦地に向かうまでに、周辺の民兵や領主の兵士も合流するのだという。教皇の名で出された糾合の布告に、多くの者が応えたらしい。話に聞く限りでは、二万ほどの義勇軍がさらに加わることになっている。


「そういえば、そなたの弟子は? まだ巡礼ミスィオンから戻っておらぬのだろう。国の中ほどにもいるのではないか」


 シュローヴが頷くと、同輩は顔をしかめた。


「だから、巡礼ミスィオンなどもう辞めればよいと言っているではないか、シュローヴ。このごろは、もうそなたのような者しか弟子に課しておらぬぞ」


 そこまで言って、また同輩は口をつぐんだ。シュローヴの顔色が僅かに変わったのに気付いたらしい。適当な挨拶とともに、その場を立ち去っていった。


 どうでもいい意見だ、とシュローヴは思っていた。巡礼ミスィオンというのは国の各地を巡って布教に努めるとともに、国内の民の生活を知り、学ぶという修道士の修行の一環である。かつては修道士の勤めとしてすべての者に課されていたが、いつからか課されることが義務ではなくなった。


 シュローヴは、自分の弟子には必ずその勤めを課すことにしている。先刻のように時代遅れだと言われることが多い。しかし布教もさることながら、国の各地を巡って生き抜く力を身に付け、見分を深めることにはそれ以上の意味があると考えていた。今も十人ほどの弟子が、国内の各地を巡っている。


 旅は、決して安全なものではない。しかし人間に必要な力というのは、そういうことの積み重ねで身に付くものだと思えるのだ。だから、誰に何を言われても変えるつもりはなかったし、気にもならなかった。それは自分の、仕事における数少ないこだわりだと言っていい。


司祭プリストシュローヴ」


 そんなことを考えながら歩いていたせいか、自分のすぐ背後から声を掛けられるまで、人が近付いていることに気付かなかった。


枢機卿カルディナルハーマン」


 思わず、シュローヴはその場で硬直する。枢機卿カルディナルの内のひとり、ハーマン・シャールである。老人と言って差し支えないような男だ。


 この男のばつに、自分は属していると思われていた。そうなるように振る舞ったのはシュローヴ自身だ。当時の枢機卿カルディナルの中でも、最も取り入り易い者を選んだつもりである。別に、取り入ったからといって何かを得たいわけではなく、周囲からはぐれ者として見られるのを避けたかっただけだ。今も、階級が上の僧侶であるということ以外の感情を、この男には持っていない。


 何を話そうとしているのか、ハーマンの話す内容は取り留めのないものだった。ただ世間話をしたかっただけなのかもしれない。話題は、次第に戦のことになった。


「竜の加護と、その加護を受けた戦士たちがおる。南の砂にまみれた戦士にはできぬことも、彼らなら成すであろう」


 ハーマンが自分のことのように得意げな顔になるのを見ながら、シュローヴは別のことを考えていた。


 戦への楽観的な態度が気になる。もし、勝利をほんとうに疑っていないのであれば、祭りであろうと、何であれ行えば良いのではないか。南への応援について議決が遅れたのは戦況を楽観していたからなのかもしれないが、今になって本腰になったというわけでもなさそうである。どうもこの後に及んで、上層部の姿勢が見えない。


 なにか、探ってやろうという気持ちに、シュローヴはなっていた。


「しかし、このところ祭事はほとんどが行われておりませぬ。信徒も祭りごとがあれば、不安が少しは晴れるでしょうに」


 無論私も、という言葉を強調して加えた。


「何を言う。行われておるよ、猊下と我らのもとで」


「そうでしたか。いや、我らのような者には推し量れぬ大事があるのでしょう」


「そう思うか」


「それはもう。議会の皆様もご多忙であるかと存じます。そんな中、軍の出兵はまこと迅速で、英断でございました」


 ハーマンはちょっと表情を動かすと、シュローヴを手招きして歩き出した。後ろについたシュローヴに、彼は小声で話し続ける。


「そなた、まことにそう思うておるか。私だけに言うてみよ」


 声の調子が低くなっている。シュローヴは、ここが一歩踏み出すところかもしれない、と思った。


「それが、同輩の中には、知らぬこともまことかのように言う者もございますので。私も信用できることと、そうでないことをよく考えねばならぬと思うことが多いのです。枢機卿カルディナルに、このようなことは申し上げるべきではないと思うのですが」


 枢機卿カルディナルハーマンは歩みを止めない。シュローヴはそれに、ただついていく。


「よい、申してみよ。司祭プリストシュローヴ」


「いえ、小耳に挟んだことでございますが」


 よい、という言葉が、また聞こえる。ハーマンの顔は前を向いたままだ。


「畏れながら、南よりの使節が青竜軍アルメの増援要請に参ったとき、なかなか議決が下りなかったと伺いましたもので。議会で何やら大事を抱えていらっしゃるのかと推察いたしました。それに、このところの祭事の有り様など考えますと」


 シュローヴはそこで、ほんの僅か、口を閉ざした。


 枢機卿カルディナルについていくうち、自分がどこを歩いているのかわからなくなったからだ。見れば、ハーマンは扉に手をかけている。


 塔へと続く扉だった。いつのまにか、教会の東端へと歩いてきていたらしい。この先には、行ったことがなかった。いつだったか部屋を間違えて、扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていて開けられなかったのだ。それ以来、さしたる用もないので、ここには来ることもなかった。鍵が妙に頑丈な造りになっていたことだけは憶えている。


 その扉は開いていた。枢機卿カルディナルが開けたのかもしれない。


「それで、続きを申してみよ。そなたの考えを聞きたいのだ」


 振り返ったハーマンは、笑顔を浮かべていた。しかしシュローヴには、それが作られた表情であることがすぐに分かった。自分も、同じように表情を作ることができるからかもしれない。


「教皇猊下げいかのお心をわずらわせるようなことが、戦の他にあるのではないかと、私には思えてなりません」


 その答えが、この扉の向こうにある気がしてならない。ハーマンの応えはない。シュローヴはそこで、あえて一歩引き下がった。


「出過ぎたことを申しました。猊下はもとより枢機卿カルディナル方も、機知と果断に富まれた方々であることは、疑いようもありませぬゆえ。不肖の私には、気にかかってしまったのです」


 ハーマンが、頷いた。シュローヴは話しながら、その意味を量る。喋ることと考えることを分離させるのには慣れていた。


「教皇猊下にお目にかかり、枢機卿カルディナルハーマンにもお声掛けいただいた。私の気持ちも昂ってしまったのです。どうか、お赦しを」


 返答は、手だった。シュローヴの肩に、掌の置かれる感触があった。


「神に仕え何年になる、司祭プリストシュローヴ」


 また、考えた。ここから先を言うことで、どこか戻ることのできないところへ、自分は入っていくのではないか。ふと、そんな予感がした。ハーマンの問いそのものは、大したものではない。しかし肩に置かれた掌から伝わる重みが、その問いの重みも増しているように思われた。


生命いのちを授かったときより」


 掌が、肩から離れた。下げていた頭を上げると、すでに枢機卿カルディナルハーマンは目の前の扉を開け、中に踏み入っていた。そこで、自分を手招きしている。シュローヴは何も言わず、彼に続いて踏み入った。


 階段があった。塔の上層へ続くと、シュローヴが勝手に想像していた階段は、しかし下に降りていた。螺旋のようにくだる段のその先。階下は暗く、何があるのか見当もつかない。気のせいかそこから、冷たい風が吹きつけてきた。


 音がした。茫然と階下を見るシュローヴの背後で、扉が閉まった音だった。錠の落ちる音がする。ハーマンは一度だけシュローヴを見遣ると、ゆっくりと脇を抜けて階段を降りていく。


「そなたにこの国の歴史を教えよう、司祭プリストシュローヴ」


 シュローヴは、階段を降り始めた。

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