青の巨城

 月下、自分を見下ろす人影を、ドロゼルは注視した。


 特殊な任務を帯びる以前から、人間の観察が好きで、じっと人を見る癖があった。この仕事を受けてからは、さらにその眼が洗練されていくのを、ドロゼルは我が事ながらはっきりと感じていた。


 たとえば背格好、声だけでは、男と女の区別は付けない。髪や目、肌の色で出身や生い立ちをはかることもしない。目を付けるのは、違う部分だった。人間の個性というものを見極めるときは、眼や指先の動き、仕草などをよく見た。その結果として老若男女の別が判るというだけなのである。


 目の前で黒い衣を纏っているのは、まず間違いなく男だった。そして一人だが、こちらを圧し包んでくるような気配がある。軍人が発する気ではない。かと言って、そこらの民のようでもない。自分と同じようなものか。


 そこまで考えて、ドロゼルは長い息を吐いた。心気を研ぎ澄ませていく。殺気を持った敵であることは間違いがない。まず迷っていることよりも、そこへの対処だった。


 剣はまだ抜かない。短い剣だった。どんなところでもすぐさま抜き、振るうことができるよう、特別に打たせた剣である。


「いい眼だ」


 また、影が言葉を発した。それが、異様な近さで聞こえた気がした。


 肌にあわが生じる。ドロゼルは地をうように、姿勢を低くした。刹那、頭上を何かが掠めていく。自分の髪が、それで幾分か千切られるのを感じた。


 そのまま転がり、抜剣する。位置が入れ替わる。構えた。構えたところに、風が迫る。相手の剣だった。受ける。次々と穂先が迫る。六合目。ドロゼルは力の限りに剣を弾いた。


 相手との距離が、それで僅かに開く。呼吸の間を、短いものにする。からだの中で血が巡っていく。


 ドロゼルは地を蹴り、横に跳んだ。路地に駆け込む。相手が追ってくる。月の光を建物が遮っていく。路地は闇の中だった。相手が自分を追う音は、離れない。


 来い。ドロゼルは足を止め、追ってくる敵に向き直った。


 迫る剣。月光の閃きもない。しかし見える。さばく。次の一振りが来るまでに、ほんの僅かな間断があった。躊躇ためらったらしい。


 黒い衣の揺れ、剣先の向き。それを振るう腕。それだけではない。相手の立つ地面、蹴る小石。石の壁、置かれた壺や調度品。すべてがえる。


 暗闇は俺の戦場だ。ドロゼルは、闇の中であれば常人よりも遥かにものがえるという自信があった。


 頑迷な軍人であった父が、しつけと言ってよく自分を邸宅の地下室に放り込んだからだ。の一切入らない部屋。ときには一月ひとつきもそこから出されないことがあった。ドロゼルにとって、幼少の頃の思い出といえば、ほとんどが暗い地下室の光景である。


 来い。また、念じた。闇の中で、俺を斬れるか試してみよ。


 ドロゼルが念じるのと同時に、また剣が振るわれてきた。速い。かわすよりも、受けることに、ドロゼルは集中した。身の短い剣は、相手の素早い剣の振りにも十分対応できる。


 左右から剣が迫る。そのすべてを受け、ドロゼルは数歩、踏み込んだ。短剣を突き出した。しかし貫いた、という感触があったのは先端だけで、相手は黒衣をひるがえし、ドロゼルから一気に距離を取った。


 相手も、視えている。自分と同じくらいに夜目が利くらしい。ドロゼルは不意に笑みがこぼれるのを自覚した。初めての感覚だった。


 闇の中で生きる者同士、斬り合うか。心中で語りかけた。


 途端、ふっと相手の気配が膨らんだ。膨らんだのではなく、増えた。気付いた瞬間、ドロゼルは上体を大きく後ろに逸らしていた。目の前を、刃が通過する。二人目。いたのか。


 二人ではなかった。さらに殺気が増える。三人、四人。まだいる。すべて、自分に向く殺気である。音も立てずに忍び寄ってくる。


 路地の闇を背走する。黒衣と剣がいくつも向かってくる。すべて受けたが、相手の最後の一振りに、体勢が崩れた。膝が折れる。剣。迫ってくる。


 しかしそれは、ドロゼルを貫く前に、眼前で停止した。別の剣が、それを受け止めている。今度は自分の背後で、音もなく気配が膨らむのを、ドロゼルは感じた。部下だった。ドロゼルの背から飛び出すように、次々と敵に襲い掛かっていく。


「残さず殺せ」


 五名ほどの部下が現れたとき、ドロゼルはもう体勢を立て直し、敵中に斬り込んでいた。突き出されてくる剣を弾き、素早く突き返す。黒衣の一人を、今度は確かに貫いた感触があった。声もなく相手が崩れ落ちる。跳び越え、さらに二人の胸を貫いた。


 周囲では、部下が残った敵を一人残らず殺していた。敵は、全員が声も出さないままにたおれたようだ。剣同士がぶつかる音が消えると、路地には何もなかったかのような静けさが戻った。


「片付けろ」


 部下たちが、無言で黒衣の屍体したいを運んでいく。数はちょうど十であった。そのうちのひとつに近づき、ドロゼルは黒衣をいだ。見たことのない顔だった。その衣で、剣に付いた血を拭う。


「隊長」


 静かに、部下の一人が歩み寄ってきた。ヤン・クラーという若い部下で、ドロゼルは彼に副隊長のような役割を与えていた。手には、敵の持っていた剣を携えていた。


「見ろ」


 屍体したいから眼を離し、ドロゼルも落ちた剣を拾い上げた。同じ剣である。形も作りも同じで、短い。そして、刻印や飾り彫刻のようなものは、一切が排除されていた。他のすべての剣を調べても、同じである。ヤンはそれでドロゼルの意を得たように頷く。


 長さ、細さ、剣に施された印などを見れば、どこで作られた剣なのかは、だいたいが判る。これには、その手掛かりになりそうな特徴がない。それは逆に言えば、どの組織にも属していないか、こちらの知り得ない組織のものだということだった。


 この都の闇に生きているのは、自分たちだけではない。それくらいのことは、都に入る前から承知の上である。命を狙われるということは、むしろこちらが得ようとしているものに近づいている、ということでもある。


「鍛冶屋から辿たどれるか」


「やります」


 ヤンは頷くと、身をひるがえし小路に消えた。変装と声真似が非常に巧みな男である。情報の収集能力は極めて高い。ドロゼルを除けば、この部隊に最も適性を見せた兵士と言えた。


 そのヤンも含め、部下の動きは良くなってきている。争闘の気配を敏感に感じ取れるようになっているし、集合と離散も速やかにできている。街の隅々に散っている部隊は今のように、何かあればすぐに集まり、また散り散りになる。何もないところから湧くように現れ、何もいなかったようにまた、街の中に姿を消すのだ。ドロゼルの理想にはまだ遠かったが、組織されて二月ふたつきほどの部隊としては、なかなかのものになっている。


 南の“青の壁ブラウ・ヴァント”からこの神都ブラウブルクまでの行軍を調練として活かしたのも、ある程度は効果があったのだろう。森や原野、荒れ地、集落と、場所を問わず駆けたり、潜んだりしながら進んだのだ。人の間に紛れることは勿論、自然の中に溶け込むことも、ますます巧みになってきている。


 敵は十人、こちらは六人だったが、殲滅せんめつも徹底できている。先刻戦った部下の中に、殺しを躊躇ちゅうちょした者はいなかった。刹那の迷いが自分だけでなく仲間の命を奪うということは、常に言い聞かせてある。敵だけでなく味方の命も、時と場合によっては切りてろとも言ってあった。


 戦うときは集団、死ぬときはひとりというのが、この部隊の掟なのだ。そこで迷いを見せる者は、この先もふるいにかけ、部隊から外すつもりだった。


 誰かの声がした。ようやく、周囲の民家でも騒ぎに気付く者が現れたようだ。灯りが点いて、窓から周囲を見回す者もいる。喧嘩か何かだと思っているのか、兵士を呼ぶ声も聞こえた。争闘の跡はすでに部下たちが消している。ドロゼルも、すぐにその場を後にした。


 翌朝、青竜軍アルメ本部に向かった。軍服を身に付けている。南部からの使者としてのドロゼルは、すでに本部への自由な出入りを許可されていた。番兵も自分の姿を見て敬礼するだけである。


 本部の城は、何もかもが巨大で、膨大な建物だった。石造りの建物の中は陽光と燭台で明るくなっているが、冷たく硬質な印象を与えられる。遥かに高い天井も圧し掛かってくるような重さを感じさせた。


 擦れ違う軍人は、武官も文官も身形が整っていて、戦時中の軍人といった様子ではない。立ち止まって挨拶を寄越す者も、ドロゼルがどこかの異国からやってきた者であるかのように、戦の様子をきたがる。ドロゼルはそれに応えるたび、鼻白むような気分になった。こんな者どもと自分が同じ軍服を着ているというのが、信じられなかった。会話もほどほどに、すぐ歩き出す。


 軍本部は、この都では“青の巨城ブラウ・シュロス”と呼ばれることが多い。何度も出入りし、歩けば歩くほど、それには得心がいった。居館が連続し、東西南北に巨大な塔を構えている。さすがに一月ひとつきもいれば憶えることはできるが、廊下は永遠に続くのかと思うほどに長く、部屋の数は限りがないと思えるほどに多かった。いまドロゼルは書庫を目指しているが、そこへ辿り着くのにも随分歩かなければならない。


 派兵の上申という任務はすでに終わっているが、中部での戦が落ち着くまでは、都への滞在を許されている。城の中は堂々と歩くことができた。南の“青の壁ブラウ・ヴァント”への連絡も許可されているが、裏で得た情報は、軍の連絡手段を使って伝えることはない。この城から伝令の鷹を飛ばすのは、五日に一度と決めていた。内容も当たり障りのない事務的な報告に終始している。


 書庫は、西の塔の上層のほとんどを占める、これもまた巨大な造りになっていた。ここまでの建物と違い、ひっそりとした静けさがあった。


 西の塔は学術院と呼ばれる学者の集う場が併設されていて、軍のものと併せれば、そこに置かれている書物の数はとてつもない量になっていた。ほんとうに天まで届くのではないかと思わせるほどの蔵書である。歴史、軍学から呪術的な内容のものまで、おそらく記録において、ここにない書は大陸のどこを探してもないだろう。


 張り巡らされた回廊を歩く。灯りは淡く焚かれている程度で、薄暗いままだ。書物が燃えないように気を付けているのだと思われた。幾人もの軍人がドロゼルと同じように、様々な書を手に取って読みふけっている。


 ぽつりと、書棚の前に佇んでいる男を見つけた。同じように近くの棚を物色していると、持っていた書をドロゼルの眼に見える位置に戻し、立ち去っていく。ドロゼルは、その書を手に取った。古びた表紙を捲ると、折られた紙が滑り出てくる。それを持って書棚から離れる。


 この城の中で、ここ四月ほどの内にあった、軍内部の大きな動きを調べさせていた。先刻の男は武官や文官、学者、紙を運ぶ業者など、何通りも姿を変えてここに通い続けている部下である。


 紙に書かれていることは二つあった。一つは有事における特別な措置として、軍議における議決の方法が大きく変わったということだ。伝達用の小さな紙である。当然、詳細は書かれていないが、要するに元帥マルシアルエーリッヒ――青竜軍アルメの頂点に立つ指揮官――を含めた数名の意見の優先度が大きく上がったということらしい。


 今回の派兵において、軍の内部での決断は早かったとシュローヴ司教が言っていたのを思い出す。この情報を信じる限りでは、ほとんど元帥マルシアルの独断で、少なくとも有事に軍部だけは、容易に動かせるようになっているのだ。


 もう一つは、本部の指揮官コマンダントの内、一名が大きく昇進したというものだった。指揮官コマンダントの名はヨハン・ベルリヒンゲンという。


 ドロゼルもその名は知っていた。街で見送った五万の遠征部隊の、総指揮官に任命されていたのがこの男だったからだ。当然、援軍要請をしたドロゼルは、軍議で顔を合わせている。叩き上げの主戦派らしく、根っからの軍人気質の男だという印象を受けた。


 名家出身の元帥マルシアルとは折り合いが悪かったが、その軋轢を超えて此度こたびの戦の総指揮官に抜擢されたのだという。


 二つの情報は、頭の中ですぐには繋がらなかった。まだ情報が欲しい。ドロゼルは紙を読み終えると、丸めて呑み込んだ。内容は頭に入れている。


 また回廊を下り、塔を出る。喧騒が戻ってくる。軍人たちが行き交う中を、外へと向かう。


 疑問なのは、軍の出兵要請を教会が一度は拒んだということである。青竜軍アルメは青竜教会の下部組織だから、教会に拒否権があるのは頷けるが、国が侵略の危機にある時にまでその権利を行使する理由があるのか。


 軍と教会に何らかの軋轢があるか、教会に何としても軍を出動させたくなかった理由があるか。いま得た二つの情報が、これらの疑問とどう結びつくのか。


 やはりもう少し情報が欲しい。教会側の変化は、シュローヴからさらに引き出すしかない。礼拝に行くだけならともかく、ほんとうに欲しい情報は、教会に属する人間にしか得られないからだ。


 軍の事情をいま以上に知るためには、どうするべきか。


 ドロゼルが考えたとき、背中に刺すような視線を感じた。即座に振り返る。後ろを歩いていた何人かの軍人が、驚いた様子で足を止めている。彼らが困惑した表情でその場から去った後には、先程までと変わらぬ様子で軍人たちが行き来しているだけである。


 昨夜に感じた気配と似ていた。闇から忍び寄ってきた、あの刺客たちの気配。


 ここは“青の巨城ブラウ・シュロス”。青竜軍アルメの本部にも、あのくらい闇に生きる者が跋扈ばっこしているらしい。


 虎穴に入るか、俺が。


 ドロゼルは気配の去った廊下をじっと見つめ続けた。石の城は、光を呑み込むほどに巨大で、重い。

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