感触

 眠気は、馬の背に乗っているうちに覚めた。青灰ヘルブラウの手綱を握る手の力も、確かなものになる。レオンは、並走する雪風ヴァイゼンと、そこに乗る妹を見た。リオーネは、しがみつくように鞍に跨っている。


 東へと続く街道である。木立に囲まれていて、少し脇に逸れれば、苔の生えた地面が馬の蹄の音も消してくれる。夜であれば、月明りから逃れることもできた。馬は、けやすいところを選ぶようにして走る。


 居室を押し包むような殺気は、いやでも感じ取ることができた。


 昼間には、修道院を出ることを考えていた。昨晩あったことを考えれば、修道院にいても安全ではないことは、容易に想像できたからだ。それで、馬具もすべて付けた状態で馬を休ませていたのだ。聖堂内の見分という名目で留められることがなければ、もっと穏便に出立できていたはずだ。


 だから、眠るつもりなど無かったのに、抗いようのない眠気が襲ってきた。おかしいと思ったのは、そのときである。色はともかく、臭いも何もない薬があるとは、思わなかった。異変に気づくのがもう少し遅れていたら、リオーネと眠っていただろう。そして、自分は殺されていたはずだ。眠気と同時に襲ってきた殺気は、間違いなくレオンに向かっていた。


 リオーネには枕に口と鼻を押し付け、煙を吸わないようにさせた。レオンには、荷を包んでいた布しかなかった。


 居室の外の廊下には他の人の気配もあって、それも刺客であるのは間違いなかった。屋外の敵を相手にすることは諦め、廊下の刺客との勝負に専念することにした。リオーネには短剣を隠し持ち、眠ったふりをしておくように言った。


 刺客は、ルカだった。腹はまだ痛む。彼の拳は、想像していたよりもずっと重かった。闇の中での争闘にもかかわらず、体捌きは凄まじいものだった。あれほどの体術を遣う相手は、レオンにとっても初めてだった。


 レオンは街道から森の奥に入り、そこで一度下馬した。リオーネは馬から降りると、耐えかねたようにその場で座り込む。


 馬は、おとなしく佇んでいる。夜間の森におびえる様子はない。リオーネがいるからだろう、と思った。ここまでけてくるにも、レオンはほとんど手綱を捌いていない。馬が道を選んだかのように思えるほどだった。リオーネがしきりに雪風ヴァイゼンに言葉を掛けていたからかもしれない。青灰ヘルブラウはそれを理解してあとを駈けたのだ。


 リオーネが、寝息を立て始めた。倒木に背を預け、うずくまるようにしている。レオンは、剣を抱いて眼を閉じた。


 黒い肌に赤い眼の男。青い炎に身を捩っている。その光景が、頭に焼き付いて離れなかった。


 何ひとつ、理解の及ぶものがない。


 獣が人に姿を変えた。剣で心の臓を突いても死ななかった。炎など、レオンが付けたわけではない。今になって考えれば、どれほど異様なことが連続して起こっていたかがわかる。


 木立の奥で、何か音がした。レオンは反射的にそこに眼を向ける。腰を上げ、しばらく注視していたが、何も現れない。またレオンは腰を下ろす。リオーネは、眠ったままだ。


 死んだ司教ファナティカは、リオーネに竜の子と言った。自分を救えとも言っていたが、彼女に何を求めていたのか。そういえば、リオーネはレオンが司教に駆け寄ろうとしたとき、必死にそれを止めてもいた。槍に貫かれるまで、司教の躰からは黒いもやのようなものが出ているように見えた。


 あれがなんだったのかと考えると、自然と、かつてウルグの森で出遭った獣たちに行きつく。あのときレオンの腕を貫いた者も、同じような気を発していたからだ。あのときも、自分は青竜軍アルメの一隊に命を救われている。


 運に助けられた。レオンは、それを強く感じた。それも、自分の運ではなさそうだ。


 リオーネは、身じろぎもせず眠っている。下は、湿った地面だ。荷から布を出す。レオンはリオーネのからだを、その上に横たえた。ほんとうに軽いからだだが、内側に秘めているものは、とてつもなく大きいものに違いない。


 木立から、月が雲を白く照らすのが見えた。月光は木の葉を照らしているが、レオンとリオーネのところまでは届かない。青の竜が創った月。レオンは立ち上がって、月明かりを浴びるところまで動いた。


 左胸に手を当て、眼を閉じる。竜の子という言葉が真に示すところは、まだ分からない。しかし、リオーネがもし竜の祝福を受けた娘だというならば、それを信じたかった。


 竜の加護を、どうか我が妹に。レオンは呟いた。そうしている間、月はレオンを照らし続けていた。


 翌朝、空が白んでくるころ、出立した。霧が出ている。花の季節ブルーメのはじめには、たまにこうした霧が立つことがある。朝はまだ寒かった。リオーネも、寒さで眼を覚ましたらしい。


 からだが冷え込んでいる。どこかに、集落を探したかった。地図を持っていたのだが、混乱の中でどこかに置いてきたらしい。


 星の位置は、夜間に確認している。レオンにも大体の方角は分かった。エベネから東に街道を抜けてきているから、そのまま東に行けば、どこかで集落に行き当たるだろうとは思っていた。マルバルク城の近くなのだ。


 レオンは薄い衣服だけを残し、他のものをすべて、リオーネに着込ませた。大きさは合わないが、暖かくはなるはずである。リオーネは何か言って固辞しようとしたが、それは聞かなかった。自分と彼女とでは、体力は比べようもない。


 陽が昇り、空気が暖かくなると、霧も晴れてくる。森の中も、様々なものが見えはじめた。視界の端々で、生きものが動くのが見えたりもする。害意のない獣が、自分達を見て逃げていくのが、なぜかレオンを安堵させた。


 水の流れる音がして、そちらに歩いた。音を聞くと、唐突に喉が渇きを訴えはじめる。


 行きついたのは、泉だった。自分たちのほか、何名か旅の者がいるのが見える。当たり前の光景ではある。しかし、レオンはまたそれで安心する。リオーネも、表情を柔らかくしていた。


雪風ヴァイゼン青灰ヘルブラウに水をあげましょう、兄上」


 リオーネが、二頭ともの手綱をいて泉の水辺に駆け寄る。自分のことよりも、まず馬のことを言うのが可笑しかった。しかし、ここまで逃れてこれたのは、間違いなくこの馬たちの力なのだ。レオンも、水を飲む青灰ヘルブラウの首筋を、何度も撫でた。


 水を汲み、自分の喉も潤す。味がすると思えるほど、うまい水だった。喉の渇きは、相当なものだったらしい。エベネの街で買っておいた食糧があれば、と思った。ほとんどの荷は、修道院に置いてきてしまっている。少し多く水を飲み、空腹を誤魔化した。


 レオンは、水辺の倒木にリオーネと腰掛けた。馬は、鞍も取って休ませた。どこかへと行くこともなく、おとなしく休んでいる。


 陽が高くなってきた。木立の中にいるからか、居心地はいい。風も少なく、ここに人が集うのも、よくわかった。こういう水場の近くには、人が住むものだ。もしかすると、村や街は近いのかもしれなかった。


「ルカ様は、ご無事でしょうか」


 足元に咲いていた小花を見つめ、リオーネがぽつりと言う。


「私、夢中でした。剣を持っていたから」


咄嗟とっさのことだ」


 ルカの腹を刺したことを、彼女は後悔しているようだった。しかしあのときは、ルカもリオーネの首筋に刃を突きつけていたのだ。


「俺が、ルカの持っている剣に気付かなかった。悪いのは、俺だ」


「いえ、そういうつもりでは」


「いや、おまえの判断は、間違っていなかったよ。俺は、助けられたのだ」


 レオンが本心でそう言っても、リオーネは首を振った。自分の右手を、何度か握ったり、開いたりしている。


「人を刺しました。感触が、まだ、ここに」


 レオンはリオーネの手に、自分の手を重ねる。


「父上の自警団に入ってすぐ、街に賊が入ってな。そのとき初めて、俺は人のからだを斬った。十年も前のことだが、今も憶えている」


 だから、その感触はきっと、これからも忘れられない。レオンがそう言うと、リオーネは何も言わず見つめ返してきた。


「剣は人を斬るためのものだと、父上はよく俺に言われた。剣を持つ者は、人を斬る者なのだ。おまえの判断は、勇気のいることだったろう。間違いではないぞ。今こうして、ここで生きて、俺と話ができているのだから」


 レオンは手を離すと、今度は自分の剣を鞘から抜いた。


「おまえは修道院でも、この剣を俺に届けてくれた。そればかりか、手に持って、魔物に立ち向かった。父上の“獅子の勇気”は、おまえの中にもあるのだな」


 これ以上、自分に言えることはなかった。リオーネは剣身を見つめ、何かを考えているようだった。


 抜き身の剣を見て、レオンの脳裏にはまた、あの青い炎がよぎっていた。短剣で獣を斬ったときには、そんなことは起こらなかった。この剣に、何かあるのかと思ったのだ。この剣は、父が獅子をたおした剣だ。他には何のいわくも付いていない。だいたい、何かを貫くことで火を発するような仕掛けなど考えられない。


「あの青い炎は、なんなのだ」


 思わず呟くと、リオーネが剣から視線を上げた。


「青い炎?」


「おまえも見ただろう。青い炎が、魔物のからだを焼くのを」


 リオーネが頷く。


「あの魔物は、“フィスト”と言うのですよね」


 それは、かつて父の部屋にあった書物で見かけた言葉である。修道院でさんざん書見をしたからか、彼女もそのことは知っていた。


「実在すると思うか。“フィスト”は書物の中、伝説の中のものなのだぞ」


 そう言いながらレオンも、もう“フィスト”の実在は認めざるをえないと思っていた。他に説明のしようがないからだ。あの獣が目の前で、人に姿を変えたときに、半信半疑だったものは確信に変わった。


「青の剣と銀の翼で、竜は魔を貫く。“フィスト”は瞳も魂も焼かれ、再び吠えること能わず。父の書物にも、修道院の書物にも、そうあったな」


「この剣が、伝説の青の剣なのでしょうか?」


 ほんの束の間、二人とも沈黙した。それから耐えかね、レオンが吹きだすと、リオーネも笑った。この妹も冗談を言うのだというのが、少しレオンには嬉しかった。


「まだ、調べねばならんことは、たくさんあるな」


 剣を腰のさやに戻す。レオンが立ち上がると、リオーネも立ち上がり、馬に駆け寄った。馬は、彼女が来るのを分かっていたかのように、自然に歩み寄っている。レオンは、この馬と妹の関係も、不思議なものだと思った。雪風ヴァイゼンだけでなく、青灰ヘルブラウも、あっというまにリオーネに懐いたのだ。


 その馬が、ふっと首を回し、遠くを見つめるようにした。直後、にわかに木立の向こうが騒がしくなる。何かが通り過ぎていくような音だった。青竜軍アルメだよ、と近くにいた旅人が言って寄越す。


「マルバルク城の?」


「そうだろうな。指揮官コマンダントが死んだって話、知ってるかい」


「ここに来るまでに聞いた」


「躍起になって、犯人探しでもしているのかね」


 軍の通行証はある。教会の追手がまだ諦めていないこともあるかもしれない。落ち着くまで軍に保護を求めることもできるかとは、考えていた。旅人が去ると、レオンは暫し考え込んだ。西、修道院の方に行くことはできない。北上しても地理が全く分からない。街道を南に向かっても、来た道を戻るだけだ。


 何かを求めるなら、東に行くしかない。リオーネに言うと、彼女も頷いた。


「東は、マルバルク城。その先に行けば、海まで行けるかもしれないな」


「海ですか」


 青い瞳が輝く。そういえば一年以上前、ノルンでの生活を送りはじめたころ、彼女は海を見たいと言っていたのだった。海までなどと、冗談で言ったつもりだったが、それも悪くないとレオンは思い始めていた。


「ベイル殿の通行証はある。保護を求めるのは難しいかもしれないが、地図だけでも見せてもらえるかもしれん」


 リオーネの謎を解く鍵は、間違いなく教会が握っている。しかしどこであれ、今はその教会に行くことは躊躇ためらわれた。


 霧などとうに晴れ、草地の露も乾いている。陽は高い。出立には良い天気だった。


 青灰ヘルブラウくつわをとる。雪風ヴァイゼンいて、リオーネもあとに続く。


 行こうか。レオンは幾分か穏やかな気持ちで言った。リオーネの返事は、明るかった。

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