伏虎
二千の兵士の中でも、頭一つ抜け出た体躯だった。
男は、身の丈ほどはあるのではないかと思えるような大剣を肩に担ぎ、兵たちの中で声を上げている。調練である。いまは、歩兵同士のぶつかり合いだった。自ら先頭に立って、押し合いの熱量を量っているようにみえる。
朝靄が晴れてすぐの調練であった。
調練の場は、それほど広いわけではない。青竜軍が練兵場として使っていた場所を、拡大して使っているのだ。ベルキウスは、離れた崖の上から調練の様子を眺めていた。一千の大隊が、段を入れ替えながらぶつかっている。遠くには、海も見える。
練兵場の拡大のため、いくつかの建物は取り壊した。それでも騎馬隊が縦横に
際立って大きい体躯の男は、先頭に立ちながら、声を飛ばし続けている。調練だからなのか、それとも男が何かしているのか、武器と
兵の数は増え続け、五万を超えた。うち歩兵が三万、騎兵が二万。このポルトという街に滞留できる数としては、限界である。
五万の兵の充足。それが、次の攻勢に移るひとつの基準だった。
あとひとつは、季節である。
次なる目標は、北西。いよいよ、青の国の内陸に進軍する。海岸線を攻め上がることは、難しい。この街を
眼下のぶつかり合いは、一方的なものになりつつあった。大剣の男の指揮する部隊が、ぐいぐいと側面から押していく。もう一方の隊はやがて押し包まれるように陣形を崩していった。流れからそうなったというのではなく、明らかに力の差で圧し潰している。溜めていたものを、解き放ったという感じであった。
どこかで
男が一通り話し終えたようで、何人かが気絶した兵士を担いで駆け去っていった。それだけでなく、残った他の兵士も、整然と兵舎の方に戻っていく。調練は、終わりのようだった。いつもなら、このあと練兵場の中を駆けるか、武器の稽古がある。指揮していた男の姿もない。
背後から馬の
「おぬしの平手打ちは、決して受けたくない。改めて思ったぞ、グラウ」
グラウ・ティグリスは、馬上で不敵な笑みを浮かべている。下馬すると、ベルキウスの傍に立った。
「兵士の中には、たまに倒れないやつもいる。見どころのあるやつがな」
男は岩のような大きさの手で石を掴むと、崖から放る。ベルキウスでは絶対に届かないようなところまで、それは飛んでいった。
つまり、国の英雄なのである。ベルキウスとは齢も近く、階級も同じだが、軍人としての実績でいえば格が違っている。前線にいたいという理由で拒んでいなければ、
「しかし、もう
「まあ、海がそこにあるからな。北はこれより、もっと寒いぞ」
「いずれ我らの国になるのだ。慣れておかねばならんということか」
その言葉に、ベルキウスは頷いた。そうだ。この国はいずれ、自分たちのものになる。そしてその
「今しがた、伝令がやってきた。マルバルクの
マルバルクは、ここから北西の湿地帯にある砦である。ポルトの街から“
さらに悪いことに、その南には、ハイデルがあった。南部随一の城郭都市である。駐屯している青竜軍は精強。指揮しているのは、ベイル・グロースという、これもまた有能な
海岸線でなく、この街から内陸を通り首都を目指す道は、いくらでもあるようで、実際のところは限られている。南が山が続き、北は湿地が多い。速やかな行軍が可能な道筋は、数えるほどなのだ。そして、どの道筋を選んでも、マルバルクかハイデルの軍が防衛可能な位置にいる。
青竜軍の城砦の配置は、的確というしかない。こちらとしては、いずれかを潰さなければ、“
だから、真先にハイデルの壊滅を狙った。暗殺である。しかしそれは、失敗した。驚異的な快復を見せたベイル・グロースは、いまもう陣頭指揮に戻っているという。
マルバルクのほうは、うまくいった。早朝に届いたのは、その報せだった。
「
「それだ、ベルキウス。
グラウが顔を寄せてきて、ベルキウスは僅かに気圧された。
黒い獣と、それらと交わした盟約については、将軍以上のものであれば皆が知っていることだ。それは、戦に血道を上げるこの男も変わらない。彼と同様に快く思わない者が多数いるのも分かっていて、ベルキウスも、その点については同じだった。
グラウは、じっとベルキウスの瞳を見据えてくる。そこに、ベルキウスは言い知れぬ深さを見た。
「この国を亡ぼすのは、俺たちの悲願であって、やつらのためではない。あのような連中の手など借りずとも、いずれここまで来ていたはずだ。
南部の平定をほぼ一手に担っていた分、北で青の国とやり合うことはまったくなかった。この男からすれば、長い雌伏を強いられていたようなものなのだろう。軍人として為すべきことをしてきた一方で、やはり腹立たしくも思っているようだった。
「わざわざ南の果てから海を渡ってここまで来たのだ。人とも獣とも知れぬ連中に合わせ、機を逃すなど」
グラウの率いる軍は、赤竜軍の中でも群を抜いた精強さがあった。長い時間をかけて鍛え上げてきた、直属の兵である。五万のうち一万がそれで、うち四千ほどは麾下として従えていた。この四千については、軍の中でも最強と言ってもいいくらいの強さを誇っている。さきほど、鍛えられたはずの赤竜軍の兵がいとも容易く崩されたのが、証左だった。
「
「マルバルクの指揮官は死んだのだろう。ハイデルのベイルはまだ、戦場に戻ったばかりではないか」
「しかしな」
「おい、ベルキウス。あれを見ろ」
ベルキウスの言葉を遮り、グラウは南の断崖を指差す。そこには、ただ岩の壁があるだけだ。
「何が見える」
「岩の、壁」
「そうだ。いや、違う。壁だよ。青の壁だ。
彼が何を言おうとしているのか、ベルキウスには分かっていた。グラウの言う通りだ。赤竜軍の総帥である、
「なぜ俺たちだけがここに寄越された? これ以上言わせるつもりか。知略だけで
陽が昇ってくる。朝の陽だった。陽光は、断崖を影もできぬほどに照らす。
グラウの言うことを、ベルキウスは頭の中で繰り返していた。無論、分かっていることである。今攻めれば、“
しかし、神の加護を得られるのか。ここは青の竜の土地なのだ。その危惧だけが、ベルキウスの決断を遅らせていた。
「戦では、自分で機を見定める。攻めるときは攻める。俺は、攻めに攻め抜いて南の蛮族どもに
海から風が吹く。まだ、暖かい風ではない。
「
グラウの眼は陽光を受け燃えているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます