episode7 生と死のはざまに
未だ若き獅子
目覚めるまでの間、何度も夢を見た。同じ夢である。
どこか、暗いところに自分は立っていて、なにかの流れるような音が聞こえている。流れているのは水のようでもあり、もっと重みのあるなにかのようでもあった。暗い足元は、狭まったり、拡がったりするのだが、その暗さはいつも変わらない。
足元が狭まると、決まって小さな揺れがあって、流れに足を踏み入れそうになる。揺れは小さく、心地よく、それに任せて、流れるものの中へと入っていきたくなる。しかしその流れるものには危うさが感じ取られて、いつも際どいところで踏み止まるのだ。
踏みとどまった先にある流れの色は、黒いとも、赤いともつかない色をしていた。レオンには、それがひどく不吉なもののように思えた。
そういうことが何度か繰り返されるうち、ふいに、足元の暗さが弱くなることがあった。白っぽくなるようで、それは光を受けてそうなっているのだとわかった。
光は、ときどき眩しいほどに自分を照らした。どこから自分を照らしているのかは、わからない。眩しすぎて、眼を逸らす。そうすると光は弱くなり、また、あの心地よい揺れがある。赤い流れに身を任せたくなる。それを、
やがて光の
光の先に、今いる場所より
そのときふと、レオンの脳裏に、妹の姿が浮かんだ。リオーネ。青く、見つめたものを
光が、より強くなった。白いのではない。輝いているのだ、と思った。
レオンは、足を踏み出した。暗い流れを越え、光のほうへと、突き進んだ。
そして、目を覚ましたのだ。いま、レオンは硬い寝台の上に腰掛けている。
頭は、いつまでもぼんやりとしている。見ていた夢が、まだ続いているような感覚だった。僅かな音が耳に入ってくる。部屋の外に、大勢の人がいる気配がした。ここがどこなのか、レオンは
男が、扉を開けて部屋に入ってくる。外の音が、そのときだけ大きく耳に響いた。
「気分は?」
壮年の、
「起き上がるとき、痛みは?」
「無い」
レオンはすぐに答えたが、ほんとうのところは、分からなかっただけかもしれなかった。
立ち上がろうとした。しかし、脚に力が入らず、それができない。口から、ただ息が漏れただけだった。
「立てやしねえよ」
「生きてるってだけで、
「妹を」
「なに?」
「妹を、助けに行かねばならないのだ」
男はレオンの言葉を聞いて、呆れたように顔を歪めた。その
「死にたいならそうしてりゃいいが、俺に手間を掛けさせておいて死ぬんなら、せめて
レオンは動きを止めた。
「手間?」
「東でも南でも、
「待て。いや、待ってください」
なぜか今になって、相手が年長者だということを、レオンは意識していた。
「
「なにを慌てているんだ、おまえ」
頭が急速に冴えていく。場所も、話している相手も、ようやくはっきりと分かってきた。レオンは、寝台の上で頭を伏せた。
「これは、大変な失礼をした。お名前は、なんと仰るのか」
「おい、失礼というなら、まず自分から名乗りな。俺は、おまえの名前も知らずに治したんだ」
男は、
「レオン・ムートと申す」
「そうか。俺はドミニクという、小僧」
「ドミニク先生。いま、戦と
「ああ。南の砦で開戦だと騒いでいるうちに、今度は東から“赤の国”のやつらがきたって話だ。ポルトは
戦争。レオンは、
「そんなもん、俺が知るか」
疑問をぶつけても、ドミニクという医者はうるさそうにするだけである。
「やれ薬だ
「軍医殿、なのですか」
「そうだ。おまえ、ここがどこか、分かっていないのか」
レオンが首を振ると、ドミニクはまた顔を
「ハイデルの軍営だ。まったく、ここで丸二日も眠り続けておいて」
言われて初めて、ここが軍用の部屋だということに思い至った。寝台はいくつもある。いまはレオン以外いないが、負傷兵の治療をするところなのだろう。
「ノルンに、帰らねば」
「すぐにでも出て行ってほしいものだがな、こちらとしても。まあ、いま帰らせれば死ぬだろうから、しばらくはここを貸してやるが」
ひどく、頭が痛んだ。戦のこと。父のこと。妹のこと。街に残した、部下のこと。
口に、何かが入ってきた。そして、水を飲まされる。口に入ってきたものは、苦かった。
「薬だ。呑み込んだら、眠れ。次に起きたら、近くの者に言って、俺を呼べ」
気付けば、寝台に横たえられていた。待ってくれ。言おうとしたが、声にならない。ドミニクの背を、ただ見送った。眠気に襲われ、レオンは
翌朝、ドミニクはレオンの
「もう、立ち上がれるようだな。体力だけは、大したものじゃねえか」
レオンは立ち上がって、窓から外を覗いた。
青い軍服の男たちが、方々で歩き回っている。荷車があちこちで
軍営は広く、目の前の広場の向こうには、
寝台に戻る。自分の足取りが
「こうしている間にも、妹や友に、危険が迫っているかもしれぬのです」
「それで。今のおまえに、なにができる。俺でも、おまえを殺せるぞ」
「私が死ぬ、死なないというのは、どうでもいいのですよ、先生。ただ、彼らのことが心配なのです」
「人は死ぬ。来るときが来れば、皆」
ドミニクは深い溜息とともに呟く。その言い方は、あまりにも医者らしくない、とレオンは思った。
「先生は、医者ではないのですか」
「医者だとも。おまえ、医者なら死人でも蘇らせられると、思ってんのかい」
レオンが
「人は死ぬ。青の竜の定めた寿命ってもんが、あるからな。助けられるのは、寿命を迎えていないのに、死のほうへ踏み込んでしまおうとしてるやつだけなんだよ」
おまえのようにな。そう言って腰を上げ、ドミニクが部屋から出て行く。レオンは、彼の言葉を
生きる者と、死ぬ者の境目。レオンは目が覚めてから、またそのことを、考え続けていた。マルセルとマルコ。それに、他にも大勢が死んだ。自分の、無茶な指揮のせいだ。今になって、それがよく分かる。助けられると、思っていたのだ。自分の力を、分かっていなかった。それで、死ななくてもいい仲間を、死なせた。それでも、寿命というもののせいなのだろうか。
また、一日を同じ部屋で過ごした。ドミニクに与えられる薬を飲み、水をたくさん飲んだ。
ドミニクという軍医は、ほんとうに忙しいようで、レオンの観察を終えると、すぐに部屋を後にする。外ではしきりになにか言葉が飛び交っていて、彼の怒鳴り声のようなものも聞こえた。
たった二日だが、レオンにはこの男の凄みが分かる気がした。口はこれ以上ないほど悪いが、間違ったことは言わない。それは、彼と話す医者や助手の態度を見ていればわかるし、なにより、自身の
二日目の夜、ノルンの街のことを、ドミニクは少し、話してくれた。領主の屋敷が――つまり、レオンとリオーネの屋敷が――襲撃されたようであると。この街から
行方の知れない隊長のことを、レオンは知りたかった。記憶が正しければ、アルサスという
そういう話をしている中で、
「あまりうるさいんで、持ってきてやったぞ」
目を覚まして三日目の、昼のことだった。ドミニクが、布切れを手に、レオンを呼んだ。レオンは、立ち上がって動かしていた
「ここの軍人が
「若造?」
「アルサス・シュヴァルツ。おまえの妹と同じ、行方知れずの
書かれていたのは、文字などではなかった。いくつかの線と、絵のようなものがあった。絵が何を表しているのかも、わからない。あまりに抽象的なのだ。ドミニクは、布を見つめるレオンを笑った。
「
ふたり。アルサスと、もうひとりいる。それが誰なのか、レオンはもう分かっていた。
胸のわだかまりが、ひとつ消えた。大きなものが消えた。
力が、
「先生、俺は
「もとのおまえのことなど、知らん。まあ、走って、馬に乗るということなら、十日以上はかかる」
「そんなにも」
「
それから、とドミニクはレオンの左の手を指差した。
「そっちの手が使いものになるまでは、もう少し」
剣が貫いた、左の掌。今も、力は入らない。それどころか、動かそうとするたびに、痛みが走る。それも、当たり前だった。指の先まで
すぐにでも出て行ってほしい、というドミニクの言葉が、脳裏を
「先生、俺がここにいて、役に立てることが、ありますか」
「ない。医も、薬も知らん。軍人でもない。ただの、役立たずの怪我人だ」
レオンは、その場で頭を下げた。
「お願いします。ここに、もうすこし置いてください。俺を治してください。先生でなければ、もとのようには治らない。そんな気がするのです」
もう一度、馬に乗り、剣を振るえるようにならなければ。リオーネが、生きている。一度は、護れぬまま気を失ったのだ。二度とあってはならなかった。自分では、この
「ほんとうの
頭上から、ドミニクの声が降ってきた。
「俺を舐めるな。医者は、患者を一度引き取ったら、治るか、死ぬまで、診る」
顔を上げると、もうそこにドミニクはいなかった。
「俺の言いつけを、すべて守れ。あとは、おまえの気力だ。それで、十日とかからず、治してやる」
それで、早く出て行け。吐き棄てるように言って、ドミニクは部屋を出て行った。扉が、けたたましい音を立てて閉まる。
レオンは、またその背を見送った。
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