夜山に飄風

 再び、残った兵を小隊に分けた。


 また、夜間の行軍である。しかし、今度は敵国の街へ向かうのではない。“青の壁ブラウ・ヴァント”への帰途だった。城をったときと同じように、百名以下の小隊を組む。


「では、われらは先発するぞ、ギルベルト」


 騎馬隊を率いてきた大隊長オフィツィアドロゼル・ナハトが、部隊に指示を出していた。


「敵部隊があれば即座にわれらが応戦するが、このところは、獣も多い。気を付けてくれ」


「それは、俺も聞いている。それより、目印を忘れてくれるなよ、ドロゼル」


 ギルベルトが言うと、ドロゼルはにやりと笑った。元は、城の警備兵にすぎなかった男らしい。部隊を率いるようになって、瞬く間に大隊長オフィツィアまで登り詰めたのだという。腕は立つし、部隊の指揮は巧みである。何より夜目が利き、夜間の戦闘には、おそろしく強い。この糧道りょうどうを断ち切る作戦の指揮を任されたのも、夜間に山を抜ける必要があったからだ。この度の進軍も、ギルベルト達よりずっと速かった。


 騎馬隊が、山の道を抜けていく。夜の闇に溶けるように、すぐに最後尾も見えなくなった。敵国内である。火を焚くことなどできない。速くけすぎると、馬蹄ばていの音が響く。必然、行軍はひそやかなものになる。それでも、ドロゼルの隊は十分に速かった。


 打ち合わせた刻限を待って、ギルベルト達も進発する。百名ずつ、静かに歩いていいく。夜の森の中に、兵士たちの姿が消えていく。最後に、ギルベルトの小隊も出た。


 月の明かりを頼りに、歩を進める。足音は微かなもので、風もない。静かな夜だ、とギルベルトは思った。これだけ静かなら、山のふもとを敵軍がけていても気付けるのではないか、とも思える。


 月と星の位置を見ながら山中さんちゅうを歩く。一本の太い木の前で、ギルベルトは足を止めた。傷付けられたような跡がある。それを、指でなぞった。先発隊が、木に付けた印である。ひざまずいて足元をよく見ると、草が、何度も踏まれて折れた跡も見つけることができた。


 また、石積みも残されている。不自然に、他の石の上に積まれた小石が、各所にあった。これを辿れば、迷うことなく城に戻ることができる。


 楽ではないが、順調な行軍である。先刻、十分じゅうぶんに兵たちも休息を取った。夜の山中ではあるが、ギルベルトも含め、足取りは重くなかった。


 もちろん、警戒は怠らず、常に斥候せっこうを出し続けている。こちらと同じように、赤の国の軍が山中に兵を潜めていることも、考えられるのだ。騎馬隊が見逃した可能性もある。何も不安がないわけではない。緊張は、部隊から抜けてはいなかった。


 月の位置が高くなっていく。ただ、中天にもかかっていない。この調子なら、夜明けには“青の壁ブラウ・ヴァント”に帰り着くことができそうだった。俄然、からだに力が湧いた。


 早ければ、明朝には、前線まで報せが届くだろう、と思っていた。オルカンの糧秣りょうまつ庫が燃えた報せである。味方よりも、敵のほうが、早くそれを知るはずだ。そうなれば、あの二万ほどの大軍を、引き返させられる。


 ギルベルトはいつの間にか、戦のことを考えていた。敵が撤退すれば、その後は何が起こるのか、考えた。赤の国が、これで諦めることはないだろう。何か、他の手を考えてくるに違いない。数十年の沈黙を破って、あちら側から仕掛けてきた戦だ。兵站へいたんに問題が起こった程度で、このまま、終わるわけがない。


 次に起こることは、何なのか。兵糧の問題を解決し、再び攻めてくるのか。今度は、さらに兵力を割いてくるだろう。しかし最初から、もっと多くの兵を出していれば、状況は変わっていたかもしれないのだ。あえて寡兵かへいで開戦したことの意味を、もっとよく考えなければならない気がする。


 そのとき、思考が、音で途切れた。ギルベルトは視界の端に、何か揺れるものを見つけた。草が揺れている。その下に、何かがいる。部隊の者も、動きを止めた。呼吸すら、止める。


 木々の向こうに、黒く揺れるものがあった。


 人間。ギルベルトはまず、それを考えた。ちょうど、人間の男のような大きさの影だ。次に、敵軍の兵士かもしれない、と思った。姿勢を低くし、剣の柄に手を掛ける。しかし、影はひとつである。複数人、あるいは部隊ではない。揺れながら、こちらに近づいているように見える。部隊に緊張が走るのを感じた。


 すぐ傍の草叢くさむらが揺れた。思わず、声を上げそうになった。すぐさまそちらに顔を向ける。


 兎が、その中から頭を上げた。誰かの溜息の音が聞こえた。ギルベルトも息を吐く。そしてすぐに、黒い人影に視線を戻す。


 しかし、そこには何もなかった。ただ黒々とした木立があるだけである。


 突如、兎が、何かに駆られたように走り出した。自分たちを見つけたか、と思ったときには、さらにいくつもの音がした。草の掠れるような音。木の葉の揺れるような音。地を、何かが駆けるような音。


 兎だけではなく、気付けば周囲で何かがうごめくような音が連続している。さらに大きな影が動くのも見える。頭上の音。鳥が、月明かりに照らされながら、木々を飛び出していく。あちこちで、森が動いている。ギルベルトらの目の前にも、鹿か、何かの生きものが飛び出してきた。


 にわかに、凄まじい風が吹いた。ギルベルト達は、思わず、その場で身を伏せる。目の前を走っていた生きものが、黒いものに呑み込まれた。一瞬だった。


 まだ、森がうごめくような音は鳴っていた。やがて、遠くなっていく。しかしギルベルトの眼は、目の前の光景から離れなかった。


 突風かと思えた黒いものは、巨大な獣のようだった。獅子や虎の、何倍もある体躯たいく。小山ほどもあるように、ギルベルトには思えた。頭を動かし、何かをしている。耳につく、いやな音。肉を喰らっているのだ、と思った。


 それが頭を上げた。赤い眼。この夜の森、そこに溶け込むような黒いからだの中、それだけははっきりと見える。赤い光が闇の中に浮かんでいるような感じだった。黒い何かが、獣と、その周囲に噴き出し、漂っているようだ。


 はりつけにされたように、ギルベルトのからだは動かなかった。獣などでは決してない。それは、大きすぎるその体躯たいくを見て、思ったわけではない。生きものを喰らうその姿から感じ取れるすべてが、そう思わせていた。


 肉を喰らう音は、まだ続いている。


 どのくらいの時が経ったのか、獣のようなそれが、再び動いた。ゆっくりと、ギルベルト達から離れていく。自分の傍で、兵士たちが呼吸をしている音が聞こえる。誰もが、固唾かたずを飲んで、それを目で追った。


 不意に、その黒い輪郭が歪んだ。立ち上がった。それは、人だった。


 いや、人のように見える何かかもしれない。からだ、その輪郭から、黒いものが噴き出している。ギルベルトは、強く眼をしばたたいた。先刻、見た人影のようにも見える。ゆらゆらと揺れながら、また遠ざかっていく。どうにも、人が、歩いているように見える。しかしそんなわけはない、とも思った。


「水と土の母、海と大地の主よ、最後の子たるわれらに加護を、生命せいめい飛沫しぶきを与えたまえかし、銀の風にて悪を退しりぞけたまえかし、」


 どこからか、言葉が聞こえてくる。青の竜の加護を願う祈りである。兵の誰かが唱えているのか。声を出すな、と言いたかった。しかし、言葉が出ないのだ。自分たちは、見てはいけない何かを、見ている。そんな気がした。


 誰一人、動き出せなかった。もう、黒い影はない。どこにも見えない。


 傍で鈍い音がして、ようやくからだが動いた。兵が一人、倒れていた。口から泡を吹いている。顔は白目をき、涙と鼻水で汚れていた。


 一人だけではなかった。糸が切れたように、何人かが倒れる。皆同様に、気を失っていた。周囲の兵がそれを戦慄せんりつの表情で見ている。


「行くぞ。そいつを、何人かでかつげ」


 口早に、ギルベルトは言った。


「隊長、我々が見たものは」


「忘れろ」


「しかし、隊長」


「いいから、担ぐのだ。ここから離れる。いいか、早く、離れるぞ」


 一刻も早く、この森から抜け出したい。そればかりが、頭にあった。自分たちが今見たものは、何だったのだ。忘れろ。そう言った自分は、忘れられるのか。巨体と、赤い眼光が、いつまでも頭から離れない。


「最後の子たるわれらに加護を、」


 祈りの言葉が、自然に口をいて出ていた。かぶりを振る。歩き出した。木の傷、石積み。それだけを探すことに、集中した。何も、考えたくなかった。


 兵士たちが、後からついてくる。誰も、言葉を発さず、黙々と歩いた。ギルベルトも、ときどき兵士を担ぐのに手を貸した。木の傷を探した。石積みを探した。月を見て、星を見た。そればかりを、無心で繰り返した。“青の壁ブラウ・ヴァント”が、ひどく遠くに感じた。


 オルカンの糧秣りょうまつ庫を焼いたことなど、とうに頭から消えていた。




(月下  了)

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