夜山に飄風
再び、残った兵を小隊に分けた。
また、夜間の行軍である。しかし、今度は敵国の街へ向かうのではない。“
「では、われらは先発するぞ、ギルベルト」
騎馬隊を率いてきた
「敵部隊があれば即座にわれらが応戦するが、このところは、獣も多い。気を付けてくれ」
「それは、俺も聞いている。それより、目印を忘れてくれるなよ、ドロゼル」
ギルベルトが言うと、ドロゼルはにやりと笑った。元は、城の警備兵にすぎなかった男らしい。部隊を率いるようになって、瞬く間に
騎馬隊が、山の道を抜けていく。夜の闇に溶けるように、すぐに最後尾も見えなくなった。敵国内である。火を焚くことなどできない。速く
打ち合わせた刻限を待って、ギルベルト達も進発する。百名ずつ、静かに歩いていいく。夜の森の中に、兵士たちの姿が消えていく。最後に、ギルベルトの小隊も出た。
月の明かりを頼りに、歩を進める。足音は微かなもので、風もない。静かな夜だ、とギルベルトは思った。これだけ静かなら、山の
月と星の位置を見ながら
また、石積みも残されている。不自然に、他の石の上に積まれた小石が、各所にあった。これを辿れば、迷うことなく城に戻ることができる。
楽ではないが、順調な行軍である。先刻、
もちろん、警戒は怠らず、常に
月の位置が高くなっていく。ただ、中天にもかかっていない。この調子なら、夜明けには“
早ければ、明朝には、前線まで報せが届くだろう、と思っていた。オルカンの
ギルベルトはいつの間にか、戦のことを考えていた。敵が撤退すれば、その後は何が起こるのか、考えた。赤の国が、これで諦めることはないだろう。何か、他の手を考えてくるに違いない。数十年の沈黙を破って、あちら側から仕掛けてきた戦だ。
次に起こることは、何なのか。兵糧の問題を解決し、再び攻めてくるのか。今度は、さらに兵力を割いてくるだろう。しかし最初から、もっと多くの兵を出していれば、状況は変わっていたかもしれないのだ。あえて
そのとき、思考が、音で途切れた。ギルベルトは視界の端に、何か揺れるものを見つけた。草が揺れている。その下に、何かがいる。部隊の者も、動きを止めた。呼吸すら、止める。
木々の向こうに、黒く揺れるものがあった。
人間。ギルベルトはまず、それを考えた。ちょうど、人間の男のような大きさの影だ。次に、敵軍の兵士かもしれない、と思った。姿勢を低くし、剣の柄に手を掛ける。しかし、影はひとつである。複数人、あるいは部隊ではない。揺れながら、こちらに近づいているように見える。部隊に緊張が走るのを感じた。
すぐ傍の
兎が、その中から頭を上げた。誰かの溜息の音が聞こえた。ギルベルトも息を吐く。そしてすぐに、黒い人影に視線を戻す。
しかし、そこには何もなかった。ただ黒々とした木立があるだけである。
突如、兎が、何かに駆られたように走り出した。自分たちを見つけたか、と思ったときには、さらにいくつもの音がした。草の掠れるような音。木の葉の揺れるような音。地を、何かが駆けるような音。
兎だけではなく、気付けば周囲で何かがうごめくような音が連続している。さらに大きな影が動くのも見える。頭上の音。鳥が、月明かりに照らされながら、木々を飛び出していく。あちこちで、森が動いている。ギルベルトらの目の前にも、鹿か、何かの生きものが飛び出してきた。
まだ、森がうごめくような音は鳴っていた。やがて、遠くなっていく。しかしギルベルトの眼は、目の前の光景から離れなかった。
突風かと思えた黒いものは、巨大な獣のようだった。獅子や虎の、何倍もある
それが頭を上げた。赤い眼。この夜の森、そこに溶け込むような黒い
肉を喰らう音は、まだ続いている。
どのくらいの時が経ったのか、獣のようなそれが、再び動いた。ゆっくりと、ギルベルト達から離れていく。自分の傍で、兵士たちが呼吸をしている音が聞こえる。誰もが、
不意に、その黒い輪郭が歪んだ。立ち上がった。それは、人だった。
いや、人のように見える何かかもしれない。
「水と土の母、海と大地の主よ、最後の子たるわれらに加護を、
どこからか、言葉が聞こえてくる。青の竜の加護を願う祈りである。兵の誰かが唱えているのか。声を出すな、と言いたかった。しかし、言葉が出ないのだ。自分たちは、見てはいけない何かを、見ている。そんな気がした。
誰一人、動き出せなかった。もう、黒い影はない。どこにも見えない。
傍で鈍い音がして、ようやく
一人だけではなかった。糸が切れたように、何人かが倒れる。皆同様に、気を失っていた。周囲の兵がそれを
「行くぞ。そいつを、何人かで
口早に、ギルベルトは言った。
「隊長、我々が見たものは」
「忘れろ」
「しかし、隊長」
「いいから、担ぐのだ。ここから離れる。いいか、早く、離れるぞ」
一刻も早く、この森から抜け出したい。そればかりが、頭にあった。自分たちが今見たものは、何だったのだ。忘れろ。そう言った自分は、忘れられるのか。巨体と、赤い眼光が、いつまでも頭から離れない。
「最後の子たるわれらに加護を、」
祈りの言葉が、自然に口を
兵士たちが、後からついてくる。誰も、言葉を発さず、黙々と歩いた。ギルベルトも、ときどき兵士を担ぐのに手を貸した。木の傷を探した。石積みを探した。月を見て、星を見た。そればかりを、無心で繰り返した。“
オルカンの
(月下 了)
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