episode5 月下
ハイデルの嚆矢
状況は、理解できないことの方が多い。
ウルグの村から駈け通していることも、その先にある街でこれから何が起ころうとしているのかも、まだうまく呑み込めてはいない。ただ、あの集落で出会った者すべての必死さが、アルサスを突き動かしていると言ってもよかった。
いま、その
すぐに、軍営では後任が決められた。副官が二人いて、自分ではない年長の者が代理を務めることになった。優秀で、落ち着いた隊長である。異論などは出ず、いまは引き継ぎと軍の上層部とのやり取りに追われている。
もうひとりの副官である自分に命じられたのは、その風を追うことだった。風ではなく獣のように見えたと、何名かの兵士が証言している。アルサスにとっても、それを追うことは、望むところだった。今度は、民が襲われるかもしれないのだ。副官として、指揮官を護りきれなかった負い目もあった。
幻影を追うようなものかもしれない、とは思ったが、とにかく走り回って捜すことにした。もともと、じっとしていられない
その幻影――獣を追って、
闘っていたのは、若い男たちである。夜の森の中での争闘は、壮絶なものがあったのだろう。
とにかく、ノルンの街にあの獣が向かうらしい、ということだけは分かった。それだけで十分、理由になる。アルサスは、迷わずノルンに行くことを決めた。
隊長だというレオンは、馬に
ハイデルの、
脇を走る男たちは、そのレオンの部下らしい。大柄なのがサントンという男で、副官だという。線の細いハイネという男は、数少ない生き残りのうち、主だった役を務めていたのだろう。街までの先導を買ってでていた。
「街には、なにがあるのだ、サントン殿」
「民が。そして、レオンの妹が」
サントンは、暗い表情のまま応える。悲壮が浮かんでいるとも言ってよかった。
「妹か」
「先に言っておきますが、
「どういう意味かな」
「獣どもが、こぞってあの娘を、捕らえようとしているようなのです」
「ただの娘ではないのか?」
「俺たちにも、うまく言えない。しかし、ただの娘ではないと思います。銀の髪に、青い光が噴き出しているような眼をしている」
「それが、なんだというのか」
「実は、ウルグの村に、あの
なんと言ったものか、アルサスは迷った。幼いころによく老人たちから聞いた、
「とにかく、その娘とやらを、捕らえさせてはならんのだな」
そう返すのが精一杯だった。この男たちも、気が動転したままなのかもしれない。でなければ、自分が
街が見えた。馬で、そのまま
「なぜ、灯りが」
先導していたハイネが、声を上げる。一斉に、駈けだした。丘を上がる。屋敷があった。
馬を留め、サントンとハイネが屋敷の中に駆け込んでいった。周囲では、屋敷の使用人と思われる人間が眼を見開いている。アルサスも、部下とともに屋敷に入った。先に入った二人の
壁に掛けられた火の下で、銀色の髪がその灯りをはね返し、煌めいていた。少女である。寝台に掛けたその姿に、アルサスは
少女は震えているように見えたが、話しているうちに、怯えのような色はなくなっていく。次第に、頷くようにして話に聞き入っていくように見えた。やがて、寝台から腰を上げる。そこで初めて、自分たち軍人の姿に気付いたようで、
「また、獣の声を聞いたらしい」
サントンが言った。
「声だと?」
「先刻も言いましたが、この
火を、獣は恐れる。しかしそれも、相手がほんとうに獣ならば、だ。
屋敷の外が、不意に騒がしくなった。
「やつらが来たか」
アルサスは、部下に命じて屋敷の外へ向かわせた。サントンとハイネが、
「われらは馬で、ここまで
「化物だからこそ、それができる。私は、そう思うがな」
サントンも、部屋を飛び出していく。ハイネは少し遅れて、それを追っていった。
「兄上は」
二人が残った部屋で、唐突に、少女が口を開いた。薄明りの中でも分かる青い眼が、アルサスをしっかりと捕らえている。兄上はどうなったのか。少女は繰り返した。あの魔物が外にいるかもしれない中である。しかしなぜか、問いには応えなければならないような気がした。
「おぬしの兄上は、私の部下が、いまハイデルの街に連れていっている」
「生きていますか」
「生きている、必ず」
何も考えず、即答していた。少女の心中を
居室の窓。その木戸が、不自然に音を立てて開いた。なにかがぶつかったような音がした。声が聞こえる。外で、灯りが揺れていた。どこからか、馬の
「
「なんだ、それは?」
「馬が。私の馬が、外に出ろと」
何を言っているのだ、と言おうとした。それを、何かの
「いる。外に。あれが」
少女が、
窓に駆け寄る。同時に目に映ったのは、自分と同じ甲冑を身に付けた男が、黒い風に
背負っていた弓を持ち、矢を
赤い眼が自分を捉えたような気がする。殺気を感じた。しかしそのときには、アルサスはすでに二本目の矢を
獣が、動いた。こちらに意識を向けたようだ。駈けだした。狙いを外させるように、一直線には向かってこない。
引き絞った弦を、弾くように離した。唸りをあげて、矢が獣に向かって飛んでいく。放ったときには、もう次の矢を
獣か何か知らんが、俺が貫いてやる。ハイデルの
まだ、風は迫ってくる。呑みこまれてたまるか。アルサスは、息を止めた。
黒い風に、矢が突き立った。
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