episode5 月下

ハイデルの嚆矢

 状況は、理解できないことの方が多い。


 ウルグの村から駈け通していることも、その先にある街でこれから何が起ころうとしているのかも、まだうまく呑み込めてはいない。ただ、あの集落で出会った者すべての必死さが、アルサスを突き動かしていると言ってもよかった。


 指揮官コマンダントベイルへの襲撃。それが、きっかけだった。夜間、いつものように警戒に当たっていた軍営の中を、風のようなものが駆け抜けていった。黒い風だった。その風は兵たちを次々と薙ぎ倒すように吹き抜け、最後は指揮官の胸に突き立ったように見えた。“大熊”と呼ばれ、よわい四十を超えても、未だに兵士を軽々と投げ飛ばすような豪傑である。その巨躯きょくが崩れ落ちるのを、アルサスは信じられないような思いで見ていた。反応が遅れ、からだが動いたときには、すでに黒い風は吹き去っていたのだ。得意だと自負していた弓も、引くなどなかった。


 いま、その指揮官コマンダントは、ハイデルの軍営で眠ったままだ。浅い呼吸を繰り返し、その呼吸も、今にも止まるのではないかと思える。眠っているというのが正しい表現かどうかは分からないが、とにかく、そう言うしかない。医者は、剣で胸を貫かれたようにしか見えない、と言っていた。消えそうな生命いのちの灯を、気力で燃やし続けているだけだ、とも言った。


 すぐに、軍営では後任が決められた。副官が二人いて、自分ではない年長の者が代理を務めることになった。優秀で、落ち着いた隊長である。異論などは出ず、いまは引き継ぎと軍の上層部とのやり取りに追われている。


 もうひとりの副官である自分に命じられたのは、その風を追うことだった。風ではなく獣のように見えたと、何名かの兵士が証言している。アルサスにとっても、それを追うことは、望むところだった。今度は、民が襲われるかもしれないのだ。副官として、指揮官を護りきれなかった負い目もあった。


 幻影を追うようなものかもしれない、とは思ったが、とにかく走り回って捜すことにした。もともと、じっとしていられないたちである。指揮官のため、街のために、自分ができることは、何でもやりたかった。十日以上、アルサスは近隣の山から集落、海までけ回った。役人でも乞食こじきでもいい。どんな者にでも、見たものがないか尋ねることを続けていた。


 嚆矢こうしのようなやつだ。いつか指揮官コマンダントベイルが、自分にそう言った。調練でも実践でも、真先まっさきに動き出すのは、自分だ。いさめられることもあったが、軍人として恥じることではない、と思い続けている。この性格だから、続けられることもあるのだ。


 その幻影――獣を追って、警邏けいらを続けている最中だった。不自然に折り重なった屍体したいが街道にあったのを見て、すぐ近くのウルグの村まで、馬で駈けてきたのだ。ほとんど直感であったが、け付けた先には、あの獣の姿があった。


 闘っていたのは、若い男たちである。夜の森の中での争闘は、壮絶なものがあったのだろう。おびただしい屍体したいが、そこにあった。生き残っている者はわずかで、その中には知った顔があった。レオン・ムート。ムート領の領主、レーヴェンの息子。なぜここに、と思ったが、理由については、副官らしき大柄な男から、仔細しさいを聞いた。レオンから聞きたいことではあったが、ろくに話せる状態ではなかったのだ。


 とにかく、ノルンの街にあの獣が向かうらしい、ということだけは分かった。それだけで十分、理由になる。アルサスは、迷わずノルンに行くことを決めた。


 隊長だというレオンは、馬にまたがる前に意識を失った。右の腕を折り、左のてのひらに貫通した刺創しそうをつくり、何か知らないが、胸に染み出るほどの出血があった。からだのいたるところに傷も持っていた。あれでよく立ち上がって闘おうとしたものだ、と思う。眼にはが燃えていた。それほどまでにして街に戻らなければならない理由があるものなのだろうか。アルサスは、なかば戦慄すらした。


 ハイデルの、青竜軍アルメについている医者なら、何とかするかもしれない。ただ、生きるかどうかの望みは、五分もないように思える。生きていてほしい、とは思った。父のレーヴェン・ムートを知っている。よく似た父子だ。強い男は、生き残るべきなのだ。


 脇を走る男たちは、そのレオンの部下らしい。大柄なのがサントンという男で、副官だという。線の細いハイネという男は、数少ない生き残りのうち、主だった役を務めていたのだろう。街までの先導を買ってでていた。


「街には、なにがあるのだ、サントン殿」


 けながら、尋ねた。


「民が。そして、レオンの妹が」


 サントンは、暗い表情のまま応える。悲壮が浮かんでいるとも言ってよかった。


「妹か」


「先に言っておきますが、小隊長カピタンアルサス。その妹というのは、多分、尋常ではありません。驚かれないでいただきたい」


「どういう意味かな」


「獣どもが、こぞってあの娘を、捕らえようとしているようなのです」


「ただの娘ではないのか?」


「俺たちにも、うまく言えない。しかし、ただの娘ではないと思います。銀の髪に、青い光が噴き出しているような眼をしている」


「それが、なんだというのか」


「実は、ウルグの村に、あの化物ばけものどもがいるということを言ったのも、その娘なのです」


 なんと言ったものか、アルサスは迷った。幼いころによく老人たちから聞いた、御伽噺おとぎばなしたぐいに聞こえる。この男はそれを、嘘を言っているようでもなく話している。


「とにかく、その娘とやらを、捕らえさせてはならんのだな」


 そう返すのが精一杯だった。この男たちも、気が動転したままなのかもしれない。でなければ、自分がたばかられているのだ。そう思うことにした。自分たちは、とにかくあの化物ばけものさえ見つけることができれば、それでいいのだ。不可思議な話に付き合うつもりもないし、レオンの妹というのも、助けられればそれでいい。あとは、この男たちが何とでもするだろう。


 街が見えた。馬で、そのままる。もう夜も更けていて、外に出ている人間はなかった。ただ、街の端の、丘の上だけが、ぼんやりと赤く光っている。夜の中で、丘の天辺てっぺんにだけ、大きく火が灯っているようだった。昨年訪れたときから変わっていなければ、あそこには領主レンスヘルの屋敷があるはずだ。


「なぜ、灯りが」


 先導していたハイネが、声を上げる。一斉に、駈けだした。丘を上がる。屋敷があった。煌々こうこうと、篝火かがりびかれている。ただ、その火は不必要なほどに多く思えた。台の数も多い。人の姿もあった。この時間にしては、外に出ている者が多すぎる。


 馬を留め、サントンとハイネが屋敷の中に駆け込んでいった。周囲では、屋敷の使用人と思われる人間が眼を見開いている。アルサスも、部下とともに屋敷に入った。先に入った二人のあとに続く。遮る者は、いなかった。奥のほうで、何かを言い合う声が聞こえる。扉が開いていて、薄い明かりの中で影が動いているのが見えた。その居室に入る。


 壁に掛けられた火の下で、銀色の髪がその灯りをはね返し、煌めいていた。少女である。寝台に掛けたその姿に、アルサスはしばらくの間、眼を奪われていた。いるのだが、いないような感覚。この場にいる人間の誰とも違うものを見ているような気がした。レオンとは、似ても似つかない。そんなことを思った。


 少女は震えているように見えたが、話しているうちに、怯えのような色はなくなっていく。次第に、頷くようにして話に聞き入っていくように見えた。やがて、寝台から腰を上げる。そこで初めて、自分たち軍人の姿に気付いたようで、からだを硬直させた。サントンが、取りなすように自分と少女の間に入り、また説明を加える。そうしているうちに、部屋の外にも人の気配がするようになった。


「また、獣の声を聞いたらしい」


 サントンが言った。


「声だと?」


「先刻も言いましたが、このはあの化物ばけものの声を、感じるらしいのです。それで、警戒のためにかがりを焚いたと」


 火を、獣は恐れる。しかしそれも、相手がほんとうに獣ならば、だ。


 屋敷の外が、不意に騒がしくなった。


「やつらが来たか」


 アルサスは、部下に命じて屋敷の外へ向かわせた。サントンとハイネが、いぶかしげにこちらを見ている。


「われらは馬で、ここまでけて来たのですよ。いかにあれが化物じみていると言っても、こんなに速くは駈けてこられまい」


「化物だからこそ、それができる。私は、そう思うがな」


 サントンも、部屋を飛び出していく。ハイネは少し遅れて、それを追っていった。


「兄上は」


 二人が残った部屋で、唐突に、少女が口を開いた。薄明りの中でも分かる青い眼が、アルサスをしっかりと捕らえている。兄上はどうなったのか。少女は繰り返した。あの魔物が外にいるかもしれない中である。しかしなぜか、問いには応えなければならないような気がした。


「おぬしの兄上は、私の部下が、いまハイデルの街に連れていっている」


「生きていますか」


「生きている、必ず」


 何も考えず、即答していた。少女の心中をおもんぱかったからではない。あのレオンという青年は生きている。それは、強く感じていた。


 居室の窓。その木戸が、不自然に音を立てて開いた。なにかがぶつかったような音がした。声が聞こえる。外で、灯りが揺れていた。どこからか、馬のいななきが聞こえた。


雪風ヴァイゼン


「なんだ、それは?」


「馬が。私の馬が、外に出ろと」


 何を言っているのだ、と言おうとした。それを、何かのえ声が遮った。


「いる。外に。あれが」


 少女が、すがり付くようにして自分の甲冑の端を掴んでいる。アルサスには、もう少女の話す内容は理解できない。声であるとか、馬や獣が呼んでいるとかいうことは、一度すべて思考の外へ追いやった。いま、起きていること。それに集中するだけだ、と思った。


 窓に駆け寄る。同時に目に映ったのは、自分と同じ甲冑を身に付けた男が、黒い風にぎ倒される瞬間だった。アルサスの全身を、憤怒ふんぬが駆け巡った。風は、また次の兵に向かっていく。


 背負っていた弓を持ち、矢をつがえる。部下の兵が二人がかりでも引けない弓だ。引き絞った瞬間に、手を離していた。黒い風と、仲間の兵。そのほとんどあるかないかのような隙間を、矢が貫く。風のように動いていたものが、急に動きを止めた。それは、獣のように見えた。


 赤い眼が自分を捉えたような気がする。殺気を感じた。しかしそのときには、アルサスはすでに二本目の矢をつがえていた。視界の端には、さっき倒れた兵が映っている。動かない。また、憤怒が込み上げてくる。


 獣が、動いた。こちらに意識を向けたようだ。駈けだした。狙いを外させるように、一直線には向かってこない。


 引き絞った弦を、弾くように離した。唸りをあげて、矢が獣に向かって飛んでいく。放ったときには、もう次の矢をつがえていた。


 獣か何か知らんが、俺が貫いてやる。ハイデルの嚆矢こうしとは、俺のことだ。


 まだ、風は迫ってくる。呑みこまれてたまるか。アルサスは、息を止めた。まばたきを止める。風。息を吐く。放った。


 黒い風に、矢が突き立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る