雪風
風のようだった獣が、もんどりを打って地面に倒れた。
胸の下あたりに、矢が
アルサスは、即座に次の一矢を
アルサスは弓を
「走れ」
少女に向かって叫んだ。
「外へ、走るのだ」
獣が動いた。自分ではなく、少女に向かって跳び上がる。同時に、アルサスも跳躍していた。横から、体重を乗せて斬りかかる。相手が、身を
「行け。走れっ」
もう一度、声を張り上げた。少女が、駆け出した。弓を拾い、後を追う。振り返った。また、獣が身を起こしていた。居室の戸を閉める。その上から、その辺にあった適当な調度品で、押さえつけた。役には立たないだろうが、何もしないよりはましだと思った。走ると、すぐに、少女に追いつく。後ろから腰を抱え上げ、そのまま走る。目の前の戸を、蹴り飛ばした。薄明りの下に出る。
「表は」
尋ねると、少女は抱えられたまま腕を上げ、方向を指し示した。走る。小さな、
「隊長。三名、やられました」
部下の一人が、荒い呼吸とともに言った。ひとりは、この眼で見た。もうふたりも、やられたというのか。決して、弱い兵ではない。アルサスは唇を噛んだ。警備兵の若者、サントンとハイネは、生きている。それは、せめてもの救いだった。少女を
「あとの
「二頭います。隊長を狙って、屋敷の中に」
「違う。狙いはこの娘だ」
自分が射た獣は、どうなったのか。周囲をすばやく見渡したが、姿はない。ならば、屋敷の中か。全部で二頭ということはないだろう。あとの獣が、どこかに隠れている可能性もある。出てくる前に、動かねばならない。
馬ならば突っ切れる、とアルサスは思った。逃げることは、できるかもしれない。しかし自分たちの任務は、あの化物を討つことだ。残って闘うか。考えた。
敵は、先刻も自分と少女がいたところで、
この場に残れば、二頭の獣は、
この少女を連れて、逃げることができたならば。少なくとも、あの
頭の中で様々なことが交錯したが、迷ったのは、ほんの
「馬を。この街を出るぞ」
「それが。馬も、やられました。私たちが外に出たときには、すでに」
そんなことがあるのか、とアルサスは
屋敷の裏で、凄まじい音がした。来る。全員が、身構える。ここで、闘うしかない。
「馬なら」
少女の声が聞こえた。何かを指差している。
「馬なら、ここに」
聞いたときには、もうアルサスは
少女を脇から抱え上げ、馬の背に乗せた。不思議なほどに、乗せることに苦労しなかった。馬は、この異常な状態の中で、興奮した様子もない。むしろ馬の方が、少女を乗せることを望んでいるように思えた。少女も、戸惑ってはいるが、馬に乗ること自体は、慣れているような仕草だった。しかし、
「乗って」
馬上からの声に、アルサスは動きを止めた。
「
もはや、何かを言い返すいとまもない。こうしているうちに、外では獣が暴れている。考える
耳元で風が吹いている。かなりの速さだった。周囲の光景など、視界に入ってこない。ひたすらに、駈けているという感覚だけがあった。ただ、やがて、力を入れてしがみ付かなくともいいことが分かってきた。自分が振り落とされることはない。それが、なぜかよく分かる。
胸元で、少女が呟き続けている。よく聞くと、馬に話しかけているような言葉だった。その言葉を理解して、この馬は走っているとでもいうのだろうか。信じられないような思いだった。こんな馬に乗ったことなどない。それ以上に、この少女は何者だというのか。
また、背後を振り返った。気付けば、木立の中を駈けている。黒い風は、まだ追ってきていた。馬と、ほとんど変わらない速さだ。原野に出た。月明かりが、自分たちも、獣たちの姿も顕わにする。目を凝らした。やはり、二頭だ。加えて、一頭が、かなり後方から追ってきている。自分が矢で射たものかもしれない。ただ、前方を走るほうの二頭が、速い。なんとかしたかった。
アルサスは、思い切って馬の首から手を離した。瞬間、
揺れの中で、背中の弓と矢を取った。全身に緊張が走っている。感覚の上では、今にも落馬しそうなのだ。しかし、落ちない。矢を、弓に
騎射をするつもりだった。しかし、できるのか。ただでさえ、背面を向いての騎射は、
大きく息を吐いた。やるしかないのだ、と自分に喝を入れる。弓を構え、振り返った。
揺れる視界の内に、獣の姿があった。近づいている。呼吸を止める。弦を引き絞った。
息を吐くのと同時に、放った。あらぬ方向に、矢が飛んでいく。それでも、
三本目の矢。もう、獣はかなり近くまできている。赤い眼も、自分を捉えていた。引いた。放つ。馬の動きに合わせたつもりだった。今度は、二頭の
そこから、続けざまに矢を放っていく。獣の方が、進路を変えた。
「川」
少女の声で、アルサスは
「娘。この馬は、まだ
少女が、大きく頷いた。もう、道を引き返すことはできない。しかし、獣はかなり後方にいた。振り切れるかもしれない。
「このまま川に沿って、駈けてくれ」
川は、原野を北上するように流れている。北の山を迂回するように進めば、北東に、集落があるはずだった。川沿いにあるクラムという村。国土を縦断する“
闇の中に、獣の姿が紛れ始めた。明らかに、速度を落としていた。アルサスはそれでも矢を放ち続ける。やがて、もう矢が届きもしないようなところまで、距離が開いた。馬は速度を緩めない。
アルサスは、周囲の闇を見つめ続ける。自分たち以外には、もう何も走っていないように思えた。唐突に、弓を持つ腕が重くなって、体勢を崩しかけた。慌てて、馬の背に手を置く。体温が、はっきりと伝わってきた。
「よくやってくれた」
思わず、呟いていた。馬は速度を緩めない。少女は、俯いたままだった。その小さな背は、震えているように見えた。どうすればよいのか、アルサスには分からなかった。子どもを、相手にするのは苦手なのだ。
「恐ろしい敵だったな」
それだけ言って、少女の頭を撫でた。はっとするほど、冷たい。彼女はぴくりと身を震わせたが、手を振り払おうとは、しなかった。
馬に乗れと言ったときの、この少女の声と表情を、アルサスは思い返していた。自分の身に危険が迫っているのを感じながら、よく見知らぬ男のことまで気が付いたものだ。馬上では、とにかく馬に語り掛けていた。そうすることで、恐怖を払おうとしていたのかもしれない。自分が肌で感じていた恐怖は、この少女も感じていたはずだ。いや、自分が感じていたものなどとは、比べものにならないだろう、と思った。
「おぬしは、ほんとうに勇気があると思う。レオン殿も、そうだ。兄君は、もっとたくさんの獣に、立ち向かっていた」
少女に手を振り払われた。振り返った勢いで、そうなったのだろう。銀の髪が舞い、月光に照らされた。青い瞳が涙で濡れていた。それも、光を放っている。
「兄上は」
「生きている」
慌てて、アルサスは言葉を足した。
「すさまじい気迫で、おぬしのことを、助けようとしていた。血を多く失ったせいで、馬には乗れなかったが」
余計なことを言った。
馬が、すこし足を緩めた。少女が何も言わずとも、速度は変えるようだ。
「それにしても、
少女が、かすかに頷いたように見えた。
「おぬしの言葉を理解している。おぬしも、この馬の言葉が
今度は、はっきりと頷いた。兄や、馬のことが好きなようだ。表情は硬いままだが、ほんの少しだけ、心を
「おぬし、名はなんという?」
「リオーネ」
「私は、ハイデルの
リオーネ・ムート。この少女が何者なのか、いずれは問わねばならないときが来るだろう、と思っていた。魔物の声を聞き、生きものと心を通わせる少女。現実のこととは思えないが、実際に、目の前で起こったことは、信じざるを得ない。得体の知れない何かが、背後にあるような気もする。
しかし、ひとりの少女だ。いま、護れるのは自分しかいない。
「リオーネ。ハイデルの街に行けば、レオン殿がいる。生きて、おぬしを待っているはずだ。
必ず、兄のもとに連れていくと約束する。そう言うと、リオーネは初めて表情を
白い月の光の下。
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