鷹の眼
目を覚ました。
兵が言い終るか、終わらぬかといううちに、ギルベルトは駆け出していた。塔から砦の内部に戻り、
「この者たちに、もう
まさか、立ち上がって、喋っているとは思わなかった。ファルクは、なおも寝台に戻るよう言い続ける医者を振り払うようにしている。生死の間を
「
「はっ?」
「幾日、私は眠っていた?」
言いながら、軍服を手に取って身に付けている。
それでも、ギルベルトは止める気にはならなかった。
眠っていたのは四日、とギルベルトが言うと、ファルクは額に青筋を浮かべ、さらに歯ぎしりした。
「我が城を攻囲されながら、四日も眠っていたとは。
四日で起き上がっただけでも、信じがたいことである。思わず、口から笑いが出た。医者は、所在なさそうにして、まだ立っている。それらをすべて無視して、ファルクは部屋から出ようとした。医者に手で退室するように促し、ギルベルトは指揮官の
居室から出る。向かうところは、分かっていた。ギルベルトは敵の総数、指揮官の数、武装と兵器の数と種類を、詳細に伝える。歩きながら、ファルクはそのすべてを復唱していた。
「足りぬ。二万など」
一言だけ吐き棄てるように言い、城壁に、ファルクは立った。
それらが一通り終わってから、ファルクは眼前の灯の群れをじっと見据えた。相変わらず敵軍には、夜の動きはない。しかしその眼は、動きのない相手のすべてを、夜の闇の向こうまで、隅々まで見るように動いていた。
「野戦の様子は?」
「俺と、ルッツの騎馬隊で相手をしました。気味の悪いやつらでしたよ」
問われ、ギルベルトは同じように相手の軍を眺めながら、報告した。
「どういう意味だ」
「退却が早く、しかも見事なものでした。老練な将軍が、
攻城についても、と言うと、ファルクはまた黙った。ギルベルトはまたその視線の先を追ったが、自分に見えるのは、ただ夜の黒い荒野と、点在する
「おまえには、礼を言わねばならぬ。
「礼など。それよりも、あの連中を叩きのめす許可をいただきたいですね」
なにか、思い出したようにファルクが言った。礼の言葉など、ギルベルトは別に欲しいと思わない。彼もまた、それ以上は何も言わない。それでよかった。
城壁から戻る
「早すぎる。執着もない。夜間に何も仕掛けてこないとは」
頭の中を、整理するために呟く。指で、地図を叩く。彼がよくやることだった。ギルベルトも、何か問われるまでは黙っている。
「私を殺すことに、失敗したからか。いや、そうではないな。だとしたら、なんだ」
呟き続けている。その呟きが、ふと止まった。
「ハンス殿は、もうポルトに戻られたな?」
ファルクが、何かを思いついたように、ぽつりと言う。
「
ギルベルトの返答に、彼は、はじめて地図から顔を上げた。
「なんだと?」
「刺客に、殺されました。首を
状況を考え、葬儀は短く、翌朝に執り
ファルクはほんのひと時だけ、目を閉じた。
「ラルフは、胸を痛めたろうな」
「ポルトは荒れた漁師の街だったそうです。いまは、商人がよく訪れ、
正直なところ軍人として、あるいは戦士として、認められるところは全くなかった。しかし、商いを安定させ、街を大きくした。少なくともそういうところでは、民や国のために役立っていたのかもしれない。
「そうだ。礼ということであれば、いつか
「そうか。あの男が」
ファルクが、右手で首をちょっと触った。まだ、その傷は癒えてなどいないはずだ。さっきから、左腕を上げていない。左の首筋から肩にかけて、斬られている。きっと動かせないのだ、と思った。
「ラルフは、いつ、ここを
気を取り直したように、ファルクが尋ねてきた。もう、卓に目を落としている。
「三日前です。あの夜襲があった、翌日。陽の高いうちに」
「三日」
それだけを呟いて、今度は指をゆっくりと、地図の上で走らせはじめる。ギルベルトがその動きを目で追っていると、執務室の扉が叩かれた。ファルクは応答しない。代わりに、ギルベルトが応じる。文官が一人、紙を手に立っていた。
「伝書です。ムート領ノルンの、レーヴェン・ムートの名で、
「レーヴェン・ムートだと」
また、ファルクが顔を上げた。ギルベルトは代わりに伝書を受け取る。読み上げようとすると、見せろ、と声が飛んできた。手渡すと、汗がじっとりと腕や手に浮かんでいるのが分かる。眼の周りが黒く、落ち
「もう、休まれた方がいい、ファルク殿」
「レーヴェン・ムートが出兵した」
聞く耳を持たない。溜息が出た。このまま、卓の地図に顔を
それにしても、レーヴェン・ムートが、出兵するとは、思っていなかった。一年前の要請に、応えたということか。今も、この砦の兵の内には、近隣の集落からの義勇兵が含まれている。ただ、ほとんど実戦経験のない者で、後方で支援にあたることが多いのだ。しかしそれが、元は国軍の指揮官だった男なのであれば、十分に前線でも使えるかもしれない。
「オルカンから延びている、糧道を押さえに行ったのは、何名だ」
「一千を、十名の小隊長ごとに分けています。百ずつに分かれ、すでに、山に入りました」
「後発隊を出す。五百で、明日の夜。同様に小隊に分け、先発の部隊には合流せず、そのまま街まで向かわせる」
ギルベルトは、ちょっと顎に手を当てた。それは、街を襲う、ということだ。
「オルカンの街で、騒ぎを起こさせる。兵舎と糧秣庫に、火を放つ。それだけで、すぐに離脱。先発の一千も、街道を進み、離脱を援護する」
「ほう。これはまた」
「とにかく、敵軍を動かす。おまえの言う通り、不気味な軍だ。糧道を断つにしても、徹底する」
二重で、急襲を仕掛けるということになる。たしかに兵糧を奪われ、背後の街まで襲われたとしたら、敵は動揺するはずだ。千五百の兵を出しても、無論こちらのほうがまだ、兵数は
「その、五百は?」
「民に化け、街に潜入せねばならん。そして、精強である必要もある。派手にやってもらわねば、ここにいる軍を引き返させることはできぬしな」
「では、俺がやります」
そう、口を
「俺の隊は、荒っぽいやつらが多い。こういうときには、役立つはずです」
自分の部隊には、傭兵時代からともに戦ってきた者たちが多い。今でこそ騎兵の主力を担っているが、もともとは、集落や城郭の中で、少人数で戦うことばかり繰り返してきたのだ。潜入には向いているはずだった。他の部隊にも、戦に慣れた者は多いが、そういう者は根っからの軍人ばかりである。それに、もう指揮官は眠りから目覚めたのだ。自分が、ここで代わりをすることに、もう
ファルクもその返答を予想していたのか、まったく表情は変えなかった。
「まあ、おまえが適任だとは、思うが。危険だぞ」
「危険ですが、派手な役目なのでしょう? ここで老人の軍と向き合っているより、ましですな」
「言ってくれる。私の代わりが、そんなに不満だったのか?」
「ファルク殿と仕事をするのは、楽しいんですがね。俺は、やはり剣を持って駆け回っていたい」
ファルクが低く笑う。それを肯定と受け取って、ギルベルトは幾分か
「もういい。なぜか、おまえが死ぬとは思わぬ。街まで、全速で駆けよ。そして、私の傍に戻って来い」
「たしかに、
すでに、ギルベルトの頭の中には、兵に出す指示や武装、行程、連絡の手段が次々と浮かんでいる。すぐにでも、
自分が不在になる間の様々なことは、明日の朝、軍議で決められることになった。自分の残った部隊は、一時的に他の
「それから、使者を出せ。ポルトの街と、ここに向かっているという、レーヴェン・ムートに」
「なぜです?」
「気になることがある。場合によっては、レーヴェン・ムートには、ここに
意味が解らず、ギルベルトは首を傾げたが、ファルクはそれ以上の説明をしようとしなかった。確信のないことは言いたがらないのも、この男だった。
「あの、赤い眼の男。どうなったか」
大体のことが決まりかけたころ、ファルクがぼそりと言った。
「赤い眼、ですか」
「私を斬った、あの男だ」
ギルベルトの脳裏には、あの裸体の男が浮かんでいた。凄まじい剣の腕だったということ以外、とくに憶えていない。結局、城の内外をどれだけ捜索しても、捕らえられなかったのだ。あのとき
報せでは、ここから少し北にあるハイデルの駐屯地で、
「赤い眼とは。そんな人間は、見たこともありませんな」
「だが、私は確かに見た」
迷信や夢想を嫌う男にしては、やけにはっきりと言う。それが、少し不思議であった。
(前触れ 了)
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