episode4 風の吹いた痕
声
一日に三度、五日間、レオンは巡回の兵を出し続けた。
新たに警備兵団に加わった者の調練も兼ねている。数少ないが、長く兵団にいる者を隊長として、十人の小隊を作った。山に三隊、街を下りた麓の原野までに一隊を派遣する。それが、現状できることだった。南の砦にほとんどの兵士を送っているために、これでも街に残るのは数十名になってしまう。
それとは別に、街の外で仕事をする者たちに注意を伝え、同時に情報も集めた。とくに猟を
あれはいったい何だったのか、ということについて、レオンは屋敷に残っている書物などを読み
骨以外の傷は、癒えている。書物を読むことで、
レオンは、また広げていた分厚い書を閉じた。ちょうど、自室の扉が開いて、大男が入ってきた。椅子の
「おまえも、読んでみるか」
「俺は字が読めん。悪いが、何の力にもなれんよ」
サントンという男だった。警備兵団を引き継いだとき、副官に指名した者である。レオンの昔馴染みで、剣の稽古も付けた。本当は、南の砦に出兵される予定だった。副官というものを付けるように言ったのは、父である。
知識はともかくとして、気の置けない者を選んだ。サントンの他にも、そういう者を何名か、この街に残している。父に、レオンが自ら頼んだのだ。この男は、稽古の甲斐あって、すぐに兵の中では、レオンに次ぐ実力を身に付けた。体つきなど、すでにレオンよりも大きく、がっしりとしている。学問がなく粗野に見えるが、意外と細やかなことに気が付き、機転も利く。自分の補佐をさせるならば、この男以外にはない、と思っていた。
巡回を終え、戻ってきたらしい。いくつか、報告を受けた。他の部隊の報告も、すべてサントンに回り、最後はレオンに届けられることになっている。周囲の山、森、林に至るまで、今日もあの獣らしき影はなかったという。
「俺の父は猟師だがな、レオン。そんなものは今まで、ただの一度も、見たことがないと笑われたよ」
人ほどの大きさに、黒い体毛、赤い眼の獣。街の人々には、そう伝えた。信じられない者もいる。それは、分かっていることだ。レオンも、もし自分が出会ったのでなければ、到底信じられることではない。自分と、妹のリオーネだけが見たことなのだ。
「しかし、よく生き延びたものだ、おまえも、リオーネも」
「俺はいい。妹が逃げられたことのほうが、今となっては不思議なくらいだ」
獣の声、と言っていた。姿が見えなくても、見える、とも言っていた。それがどういう意味なのか、いまだにレオンには分からない。この数日、その声とやらが聞こえる、とも言わない。夢のようなものだったのかもしれない、と思い始めていた。
「“
副官は
青の国の、古い伝説を読んだ。青の竜が大地を創ったときに始まり、赤の竜との対立、“最後の子”である人間同士の衝突が描かれ、果ては青の国がこの大陸の北半分を治めるようになるものだ。
そのなかに、たった一節だけ“獣”という記述があった。
――青の剣と銀の翼で、青の竜は魔を貫く。“
伝説の通りなら、“獣”はすでに青の国から追われたことになっている。追われた“獣”はどうなったのか、それ以上のことは書かれていない。南といえば、そこには当然、いまの赤の国がある。荒野と砂漠が支配する国。記述とも合致するところはある。伝説を
「その、伝説の獣とやらが、おまえの前に現れた、と?」
「わからぬ。ただ、他に何も分かることがないのでな」
レオンの説明を、サントンは鼻で
椅子から、腰を上げた。骨の軋むような感覚は、まだ少しだけある。
「リオーネは、どうしている?」
「マルセルたち双子が、相手をしているよ。いったいどうしたんだ、あれは」
剣の稽古を付けてほしい。リオーネがそう言ってきたのは、獣と遭遇してから、三日後のことだった。最初は相手にもしなかったが、あまりに何度も、そして思いつめたように言うので、レオンの方が折れた。これまでも、
ただ、レオンが傷の回復に努めなければならないので、兵の内で気心の知れた者が、その相手をすることになった。昨日、一昨日はハイネ、今は双子のマルセル、マルコ兄弟といった者たちが、剣の振るい方から教えているらしい。いずれも、いまは警備兵団にいて、かつて、ともにリオーネを助け出した者たちだった。
「まあ、思うところがあるのだろう。
「たった二日だぞ。いいとも、悪いともわからん」
「そうか」
上着を手に取ったレオンを、サントンが支えようとする。それを、手で制した。別に、歩くことができないわけではない。やろうと思えば、馬にも乗れるし、剣も振るえる。そうでなければならないのだ。装身具も、自分で身に付けた。
二人で、屋敷から出た。風はほとんどなく、すでに陽は高い。レオンは朝から、
稽古場には、もうしばらく行っていなかった。この一年は父の調練が激しかったし、レオンが相手をせずとも、男たちは鍛え上げられていったのだ。階段を降り、見えてくる広場が、少し懐かしかった。昨年の今ごろまでは、戦のことなど考えず、ここでただ木の棒を振るっていたものだ。
それを思い出させるような声が、木立の向こうから聞こえてくる。男が二人と、少女が一人、そこに立っていた。マルセル、マルコの双子と、リオーネである。ほとんど変わらない顔の、二人の男のうち、リオーネの剣を持って向かい合っているのが兄のマルセルで、木陰で休んでいるのは、弟のマルコだった。
向き合っている二人は、木の棒を構えていた。リオーネは、双子の兄、マルセルに何か言われるたびに、微妙に足の幅や、
来い、とだけマルセルが言うと、リオーネが短い気合の声とともに、足を踏み出す。剣の振りは遅く、緩い。当然だった。三合で、その手から剣が弾かれた。
「拾うんだ。剣は、躰の一部だと思わねば」
リオーネに向けて、マルセルが言う。
「誰の言葉?」
剣を拾い、構える前に、リオーネが尋ねる。からかうような響きがあった。マルセルが、ちょっと顔を赤くした。レオンの傍らで眺めていたサントンが、声をあげて笑った。
それで、剣を持っていた二人が反応する。リオーネがこちらを見た。目を輝かせたように思えたが、彼女はすぐに顔を逸らす。柔らかい表情はすぐに消え、真剣な眼差しを目の前の相手に向けている。一方のマルセルも、レオン達の方を見向きもしない。いることは、分かっているはずだった。
「なぜ笑う?」
「おまえ、自分の言ったことも憶えていないのだな」
レオンはサントンに尋ねたが、彼は意外そうにこちらを見るだけである。マルコなど、またそれで笑い出した。その意味がよく分からず、レオンはもう、再び剣を打ち合いはじめた二人に目を
自分に対する負い目か。妹が、いきなり剣の稽古を申し出たとき、レオンはそう思った。獣と闘った直後の、リオーネの
汗が目に見えるほど流れている。表情には苦しさがある。しかし、銀の髪は流れるように舞う。レオンは、自然とそれを目で追っている自分に気が付いた。
強くなろうと思っているのなら、それは負い目であってはならない、と思う。レオンも、かつてはそうだった。死んだ母のことを、いつも考えていた。自分の弱さのために、死んだ。そう思うしかなかったからだ。
レーヴェンには、見抜かれていた。
妹が、剣の技を身に付けようというのなら、
その銀の髪が、不意に、舞うことをやめた。
リオーネが、立ち尽くしていた。目の前にいる、マルセルの方など、見ていない。だらりと腕を下げ、頭だけが、どこかを向いていた。
「リオーネ、どうした」
不審そうに問いかける声にも、応えない。マルセルが、レオンの方に目を
そこには、ただ林だけがあった。静かに揺れる木々。鳥の声が聞こえた。遠くに山が見える。
「兄上」
「兄上。声が、します」
「声だと?」
「とおくで。あの声が」
青い眼が揺れていた。一点だけを見つめているのに、不思議に揺れる。揺れながら、光が弱くなっていく。それを見て取ったとき、考えるよりも先に、レオンの
「おい、なんだ」
「やつが、出た。剣を」
「だから、なんだと」
「剣だ、サントン」
ほとんど叫ぶようにして、命じていた。僅かに戸惑った様子を見せたサントンも、駆け出していく。マルセルとマルコも、互いに頷き合って、走り出した。すぐに石段を上り、
「あれが、いるのだな」
胸元のリオーネは、ただ頷いている。
「でも、とおくです、兄上。私を呼んでる」
震えている。自分を呼ぶ声。何が、どれだけ聞こえているというのか、レオンには分からない。聞くな。応えるな。そんな思いで、妹の肩を抱く力は、強くなる。
「とおくとは、どこだ。街の中か、外か」
今度は、大きく
「北です。きっと、ウルグの村」
石段を
「マルコは、兵を集めてから来る。おまえの馬と、剣だ」
高い音が、丘の上で響きはじめる。鐘が鳴らされていた。警備兵団の、召集の合図だった。レオンは剣を
「マルセル」
レオンが声を上げたときには、すでにマルセルは馬を下り、リオーネの手を引いていた。屋敷に連れていかせるつもりだった。言わずとも、察して動ける。ここにいるのは、そういう者たちである。妹の眼が、自分を不安げに見つめている。
「俺は、おまえの聞いた声を信じる。おまえも、俺を信じろ、リオーネ」
丘の上から見れば、わかる。リオーネが見ていた林の、その先。北の山が
「何も言うな、サントン。俺とともに、来い」
怪我は癒えた。癒えたと思えば、
男たちが、丘を駈け上がってくるのが見える。レオンは、馬腹を蹴った。
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