原野で

 父レーヴェンの調練が、苛烈さを増していた。


 これが、山間の警備兵のすることか、というほどの激しさになるときがあるのだ。数日に一度、そういう日があり、兵の中には死の寸前まで追い込まれる者もいる。


 息子であるレオンが調練を受ける側に回るときも、変わらない。むしろ、兵の前では自分への態度を厳しくしていると思える。それで一向に構わない、と思えたのは一月ひとつきほどで、そこからしばらくは、調練の度に父の顔を見るのが嫌になり、夢にも現れたときには、ついに自分が狂ったのかと思ってしまった。


 耐えられない兵は、逃げ出した。しかし、残った警備兵団は明らかに、以前とは様相が変わっていた。兵たちの躰は一回り、二回り大きくなり、据わった眼をするようになった。剣の一振り、槍の一突きをとっても、その速さは、賊や獣を追い払ってばかりいたころとは比べ物にならない。騎馬で戦える者が増え、疲労で倒れる兵が減った。父は、去ったものを追うことも、責めることもしなかった。


 その代わりに、父は毎日、様々なことを兵に語って聞かせた。なぜ、これほどの調練をするのか。剣を振るうことが、何を意味するのか。戦場とは。兵とは。誇りとは。家族とは。国とは。どんなに知識がない者でも分かるように、父は繰り返し語った。それを聞く者たちの眼には、日に日にが点いていくようだった。


 ハイデルの青竜軍アルメ、ベイルが出兵要請を伝えに来てから、もう一年になる。


 一年間で、この屋敷に入る南方の情報はかなり増えている。父が、詳細を知りたがっているのだ。使い鴉は、二十日はつかに一度くらいの頻度で現れた。南の緊張は増すばかりで、ぎりぎりのところで開戦に及んでいない、というのが父の見方である。南の砦“青の壁ブラウ・ヴァント”からの情報が、ほとんどそのまま伝えられているのだという。赤の国は、着々と国境付近で戦の準備を進めている、ということだった。


 赤の国との戦いが始まれば、父は南の戦地に行くつもりなのだろうか。友の求めである。そして、その友が出兵を請うような、国の大事だいじでもある。レーヴェンという男は、いずれも、見逃せるような性分ではなかった。しかし、この領地は。街は。息子は。父が戦に向かうということを、現実のこととして捉えられていない自分がいる。


 一方で、なぜか、父が兵を率いて戦場に立つ姿は、容易に思い浮かべられる。馬に乗り、父と戦場を駆ける。そんな自分を想像したりもする。


「旦那様が、心の中で決めておられるなら、とうに言われておりますよ」


 調練を終え、屋敷に戻ったレオンに、使用人ゲラルトは諭すように言った。それが、かんに障った。


「悩んでいらっしゃる。だから、調練だけはなさるのです」


「それは、出兵の意志がある、ということではないのかな」


「実際に兵を動かすのとは、また別のことかと」


 意志があって、しかし迷っている。それがどういうことなのか、レオンには、よくわからない。


「俺も、父上をお守りしたい。父上が、赤の国と戦うと言われるなら」


「旦那様が出陣されるとして、どなたがこの領地と屋敷を守られます」


「俺は、父上が鍛えている兵たちよりも、剣を遣えるし、速く駈けられるのに?」


 ゲラルトの返事はない。


 父は、常に自分を調練に出すわけではない。三日の内、一日といったところだ。そのことを、ふと考えた。


 自分が、守るのか。この屋敷を。天上を見上げ、レオンは息を吐いた。父を戦地に送り、自分がこの街に残る。そんなことがあっていいのだろうか。ちょうど一年前、青竜軍のベイルが語ったことを思い出す。必要なのは兵士ではなく、優秀な指揮官コマンダントだと、言っていた。


「俺には、父上の考えていることが分からぬよ」


 やはり返事はない。返事を求めているわけでも、なかった。言い過ぎたかもしれない、と思った。愚痴など、独り言でいい。


 部屋の外で足音が聞こえた。使用人のひとりが慌てた様子で部屋に入り込んでくる。馬が一頭、姿を消している、と言った。


それを聞くなり、もう何が起こっているのかは察しがついた。隣で、ゲラルトは大きな溜息をいている。


 無断で馬をき出し、どこかへと駈けていく。領主レンスヘルの屋敷の中で、そんなことをするのは一人しかいない。それで、そのあと何を言われるか分かっているのに、である。厩の傍で小さく項垂うなだれている使用人たちの姿も、もう見慣れたものになりつつある。


「妹君は、このところ遠乗りばかりされる。まったく、誰の姿を追いかけているのでしょうな」


 リオーネがこの街に来たときに敷いた緘口令かんこうれいを、父は少しずつ緩めている。さすがに、ずっと屋敷の中に閉じ込めておくことはできない、と考えたのであろう。それに、あの容姿は、隠しておくには、目立ちすぎる。街の中だけならば。父はそう言っていた。しかし、ここ何月なんつきか、リオーネは街の外に出ることが多くなった。叱られ、その度に反省するが、また同じようにする。まるで、そうする必要があるかのようだった。


「厩に鍵を付けると言っていなかったか、ゲラルト?」


「それが、旦那様にやめるよう言われたのです。緊急のことがあればどうする、と」


 レオンは不憫になり、使用人の肩を叩いた。街の中から、リオーネはもう飛び出してしまっている。屋敷からは、とうに。ゲラルトの諫言も、あの少女には聞き慣れたものになってしまったのかもしれない、と思った。報告してから、所在なさげにしていた使用人に、もう退出するよう手で示す。


「連れ戻しに行く。父上にそう伝えておいてくれ」


「すぐにお戻りを。坊ちゃんまで帰ってこないということになれば、私は旦那様に申し訳のしようもございません」


 ゲラルトの嘆きを背に感じながら、屋敷を出る。陽は赤みを増している。風が周辺の木々を撫でる音がする。そういえば、初めてあの少女を馬で街の外に連れ出したときも、同じように陽が高く、風の穏やかな日だった。レオンはそんなことを考えながら、馬に跨った。


 林の小路。木の根と小石を越えながら進む。あの日、雪に埋もれた村から救い出した少女は、いつのまにか、この道も馬で難なく駈けるようになった。馬の乗り方だけではない。神の存在、この国の歴史、領主の娘としての振る舞い、剣の扱い方、兄としてレオンが教えられることは、可能な限り教えてきた。父は、さらに厳しく教えた。ゲラルトは、いつも傍にいた。


 身近な女は、屋敷で働く下女くらいしかいない。それが、あの子をこんな風に育てたのかもしれない、と思った。


 原野。空気が柔らかくなり、草は色を鮮やかにしつつある。その中から、生き物の、せいの気配がする。緩やかに、馬の歩を進めた。目印の、大きな岩。そこに、一頭の馬と、そこに跨った少女がいた。原野に、銀の髪が舞うように揺れている。


「馬がおまえをそそのかしたのか? それとも、おまえが馬を連れてきたのか?」


「兄上は、どちらだと思いますか?」


 よく笑うようになった。レオンもそれにつられ、苦笑する。


「何を見ている?」


「ウルグの村を」


 今はもう無い村の名を、リオーネは呟くように言った。纏めた髪が翻り、青の眼がレオンに向く。一年で、少し顔つきが変わったように思えた。


「北の山か。ウルグは――」


「もう無い。兄上が教えてくれた。わかっています」


 また、眼を北に向ける。横顔が陽に照らされた。


「けれど、なにか。呼ばれている気がするのです」


 ノルンの街での暮らしに慣れたころ、父レーヴェンの口から、すべてを伝えている。ウルグの村に吹いた“死の風エンデ”のこと。洞穴で行われていた儀式のこと。その場に彼女がいたこと。そして、彼女以外に生きている者はいなかったこと。


「なにか、とは?」


「わかりません」


少し間を空けて、リオーネはうつむいた。郷愁のようなものなのかもしれない、とレオンは思った。


「私は、ウルグで生まれたのでしょうか? それとも、他のどこかで?」


「リオーネ」


「ここに来ると、考えてしまいます。あの村を見たいと。どうしても、行きたくなるのです」


 父との約束から、はみ出したとしても、駈けてこられるのは、ここまでだった。彼女の自由な世界は、ノルンからこの岩までなのである。ただ、青い眼は、その世界の、先を見ている。足は、外の世界に出て行こうとしている。それは、レオンにも分かった。せめて、生まれた故郷だけでも見ることができればいいのかもしれない。それも、この少女にはできない。もどかしさというのも、分かる気がした。


 いつかそうしたように、妹になったその少女の、肩に手を置いて向き合った。


「父の名は、リオーネ? 兄の名も、言えるか?」


「どうしたのですか、兄上」


「父上も、俺も、おまえを愛している。男ばかりの家だが、おまえには家族がいる。だから、そんな顔をするのはよせ」


「私も、兄上と父上が好きです」


 口調に、よどみは無かった。


「ノルンの山も、小川も、街も。でも、ウルグのことも知りたい。父上は、なぜだめだとおっしゃるのでしょうか」


 しかし、表情には、僅かな不満が浮かんでいる。あの山のふもとまでなら行ける、と思うのだろう。実際には、眼で見えるよりも遠い場所にある。


「危険だからな」


「馬には、乗れます。兄上ほどではないですけど」


「俺は男だ。だが、おまえはまだ幼いし、それに女だ」


「夜は? 青の竜の加護があります」


「おまえ、夜に月明かりだけで馬を走らせるつもりか? 俺でも怖い。獣も、夜に動き出すのだ」


「獣は、私に寄ってきません。わかるのです」


 いかにも、当然のように言うのを見て、つい笑ってしまう。


「まったく、口がよく動くようになった」


「本当です、兄上」


 今度は、はっきりと不服そうに言う。獣が、少女を避ける。冗談か、そう思い込んでいるのか。そんなことを本気で言うような年齢ではないだろう。いずれにしても、レオンには、事実のように思えなかった。


「さあ、帰るぞ。これ以上、ゲラルトに父上の相手はさせられない」


 本当なのに。リオーネはまた呟いて、ゆっくりと馬に跨った。


「父上は、なんと言っておられたのですか」


「気になるか。叱られるのも、そろそろ慣れてしまっただろう?」


「そんな。教えてください」


 徐々に、馬の足を早める。リオーネは後ろからうまくついて来ていた。なんでも、面白いように吸収する子だった。学問もそうだが、とくに、馬の扱いには天性のものがある。はじめにいくつかの手順を教え、数回まきを走っただけで、まるで以前から親しんでいたように乗りこなしたのだ。馬も、よく懐いている。最近では、くらも何も付けないままに乗っているのを見たことがあった。


 よく、馬に言葉を掛けている。レオンも、他の人間も、同じようにすることはあるが、それとは違っていた。時折、会話をしているのではないかと思うほどである。そういうものは、教えてできるようになることではなかった。


 屋敷に戻るのも、さほど時はかからなかった。父の居室をおとなう。リオーネは、レオンの背に隠れるようにして後から入った。


 父レーヴェンは、部屋に入ってきた二人を見るなり顔をしかめ、部屋の下女を退室させる。


「ごめんなさい、父上」


 妹を父の前に立たせ、レオンは傍の壁にもたれた。


「馬で駈けるな、とは言わん。だがせめて、供の者をつけなさい。そして、遠くには行かないと約束しなさい」


 もう何度目かになることを、レーヴェンは言った。リオーネは足下に落としていた視線を上げる。


「でも、ほかに、することがなくて」


 おや、と思い、レオンも適当なところに向けていた眼を妹に戻した。父の言うことには、レオンも、もちろんリオーネも、よほどのことでなければ言い返すことなどない。


「書を読めばいい。たくさんある。それにともも、いるではないか」


「いません。雪風ヴァイゼンしか」


 思わず、吹き出してしまった。妹が自分の方を見る。雪風ヴァイゼンというのは、彼女が先刻まで乗っていた馬で、父が与えたものである。名付けたのはリオーネで、レオンも一緒に考えた。


 父がこちらに鋭い眼を向ける。レオンは手で笑みを隠した。


「レオンが稽古を付けている、あの若者たちは」


「みんな、兄上くらいのとしです」


 いよいよ、耐えられなくなって、レオンは声を上げて笑ってしまった。


「レオン。おまえも、真剣に考えろ。妹が心配ではないのか」


「そんなことは、ないのですが。これは、父上にも責任がある」


 リオーネも、口の端をちょっと上げている。父だけが、まだ表情が険しいままである。


「我々に、似てしまった。口の達者なところなど、父上にそっくりではないですか」


 父だけではない。なにかと馬で外へ出たがるのは、数年前の、自分の姿を見ているようだった。リオーネは、悪戯をした子どもがそうするように、上目で父の方をうかがう。レーヴェンは、それを見て力が抜けたように、肩を落とした。


「一年で、すっかりムート家の子になってしまったか」


 ようやく表情をほころばせ、父は、妹を抱き上げた。長椅子に腰かける。レオンにも座るように促し、リオーネは自分の膝の上に座らせた。


「父と約束してくれ。おまえを失いたくはない。この街の子として、長く生きてほしいのだ」


「街の子たちは、私を避けます。髪はこの色だし、眼が青いから」


 父がでた髪を同じように触り、リオーネが言う。それは、言う通りだった。彼女がこの街で、気兼ねなく話せるのは、ほんの数人だけである。父と兄、そして兄が稽古を付ける数名の若者。他の街の者は彼女を知らないか、知っていて関わりを避ける。容姿が人を遠ざける。うなずきたくなくても、それは事実であった。


「父上。リオーネを一度だけ、ウルグに連れていってやるというのは、どうでしょうか」


 話題を変えるつもりで、言った。


「もう、ない。見ても、辛くなるだけだ。それは認められない」


 硬い調子に、父の声色が戻った。なぜ、と思うほど、それだけはかたくなである。リオーネも、それは解ったようで、視線を下げた。


 居室の扉が叩かれる音がする。ゲラルトからの、食事の知らせだった。


「兄上と一緒でも、いけませんか?」


「そうだ。あまり父を困らせるな」


 レーヴェンは、なおも食い下がるような娘の頭を撫でて、広間に出るように言った。リオーネは、小さく溜息をいたが、頷いて部屋を出ていく。レオンも続いて退室しようとすると、父に呼び止められた。


 扉が閉まると、とたんに、父の表情が硬さを増した。なにか、不穏なものを感じさせる。立ち上がりかけた腰を、再び下ろす。


「ハイデルからの便りだ。たかが運んできた」


「鷹とは。緊急の報せでは」


 心臓の鼓動が一つ大きくなった。嫌な予感がする。レーヴェンは、卓上の紙をこちらに差し出した。ふみである。目を通す。急いで書かれたものなのか、筆のあちこちがかすれている。


 ──ハイデル軍営にて、正体不明の敵襲あり。指揮官コマンダントベイル・グロース、重篤。貴領においても警戒されたし。


 顔を上げた。父が表情を変えず、そこにいる。


 眼に、レオンの見たことのない光があった。

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