原野で
父レーヴェンの調練が、苛烈さを増していた。
これが、山間の警備兵のすることか、というほどの激しさになるときがあるのだ。数日に一度、そういう日があり、兵の中には死の寸前まで追い込まれる者もいる。
息子であるレオンが調練を受ける側に回るときも、変わらない。むしろ、兵の前では自分への態度を厳しくしていると思える。それで一向に構わない、と思えたのは
耐えられない兵は、逃げ出した。しかし、残った警備兵団は明らかに、以前とは様相が変わっていた。兵たちの躰は一回り、二回り大きくなり、据わった眼をするようになった。剣の一振り、槍の一突きをとっても、その速さは、賊や獣を追い払ってばかりいたころとは比べ物にならない。騎馬で戦える者が増え、疲労で倒れる兵が減った。父は、去ったものを追うことも、責めることもしなかった。
その代わりに、父は毎日、様々なことを兵に語って聞かせた。なぜ、これほどの調練をするのか。剣を振るうことが、何を意味するのか。戦場とは。兵とは。誇りとは。家族とは。国とは。どんなに知識がない者でも分かるように、父は繰り返し語った。それを聞く者たちの眼には、日に日に
ハイデルの
一年間で、この屋敷に入る南方の情報はかなり増えている。父が、詳細を知りたがっているのだ。使い鴉は、
赤の国との戦いが始まれば、父は南の戦地に行くつもりなのだろうか。友の求めである。そして、その友が出兵を請うような、国の
一方で、なぜか、父が兵を率いて戦場に立つ姿は、容易に思い浮かべられる。馬に乗り、父と戦場を駆ける。そんな自分を想像したりもする。
「旦那様が、心の中で決めておられるなら、とうに言われておりますよ」
調練を終え、屋敷に戻ったレオンに、使用人ゲラルトは諭すように言った。それが、
「悩んでいらっしゃる。だから、調練だけはなさるのです」
「それは、出兵の意志がある、ということではないのかな」
「実際に兵を動かすのとは、また別のことかと」
意志があって、しかし迷っている。それがどういうことなのか、レオンには、よくわからない。
「俺も、父上をお守りしたい。父上が、赤の国と戦うと言われるなら」
「旦那様が出陣されるとして、どなたがこの領地と屋敷を守られます」
「俺は、父上が鍛えている兵たちよりも、剣を遣えるし、速く駈けられるのに?」
ゲラルトの返事はない。
父は、常に自分を調練に出すわけではない。三日の内、一日といったところだ。そのことを、ふと考えた。
自分が、守るのか。この屋敷を。天上を見上げ、レオンは息を吐いた。父を戦地に送り、自分がこの街に残る。そんなことがあっていいのだろうか。ちょうど一年前、青竜軍のベイルが語ったことを思い出す。必要なのは兵士ではなく、優秀な
「俺には、父上の考えていることが分からぬよ」
やはり返事はない。返事を求めているわけでも、なかった。言い過ぎたかもしれない、と思った。愚痴など、独り言でいい。
部屋の外で足音が聞こえた。使用人のひとりが慌てた様子で部屋に入り込んでくる。馬が一頭、姿を消している、と言った。
それを聞くなり、もう何が起こっているのかは察しがついた。隣で、ゲラルトは大きな溜息を
無断で馬を
「妹君は、このところ遠乗りばかりされる。まったく、誰の姿を追いかけているのでしょうな」
リオーネがこの街に来たときに敷いた
「厩に鍵を付けると言っていなかったか、ゲラルト?」
「それが、旦那様にやめるよう言われたのです。緊急のことがあればどうする、と」
レオンは不憫になり、使用人の肩を叩いた。街の中から、リオーネはもう飛び出してしまっている。屋敷からは、とうに。ゲラルトの諫言も、あの少女には聞き慣れたものになってしまったのかもしれない、と思った。報告してから、所在なさげにしていた使用人に、もう退出するよう手で示す。
「連れ戻しに行く。父上にそう伝えておいてくれ」
「すぐにお戻りを。坊ちゃんまで帰ってこないということになれば、私は旦那様に申し訳のしようもございません」
ゲラルトの嘆きを背に感じながら、屋敷を出る。陽は赤みを増している。風が周辺の木々を撫でる音がする。そういえば、初めてあの少女を馬で街の外に連れ出したときも、同じように陽が高く、風の穏やかな日だった。レオンはそんなことを考えながら、馬に跨った。
林の小路。木の根と小石を越えながら進む。あの日、雪に埋もれた村から救い出した少女は、いつのまにか、この道も馬で難なく駈けるようになった。馬の乗り方だけではない。神の存在、この国の歴史、領主の娘としての振る舞い、剣の扱い方、兄としてレオンが教えられることは、可能な限り教えてきた。父は、さらに厳しく教えた。ゲラルトは、いつも傍にいた。
身近な女は、屋敷で働く下女くらいしかいない。それが、あの子をこんな風に育てたのかもしれない、と思った。
原野。空気が柔らかくなり、草は色を鮮やかにしつつある。その中から、生き物の、
「馬がおまえを
「兄上は、どちらだと思いますか?」
よく笑うようになった。レオンもそれにつられ、苦笑する。
「何を見ている?」
「ウルグの村を」
今はもう無い村の名を、リオーネは呟くように言った。纏めた髪が翻り、青の眼がレオンに向く。一年で、少し顔つきが変わったように思えた。
「北の山か。ウルグは――」
「もう無い。兄上が教えてくれた。わかっています」
また、眼を北に向ける。横顔が陽に照らされた。
「けれど、なにか。呼ばれている気がするのです」
ノルンの街での暮らしに慣れたころ、父レーヴェンの口から、すべてを伝えている。ウルグの村に吹いた“
「なにか、とは?」
「わかりません」
少し間を空けて、リオーネは
「私は、ウルグで生まれたのでしょうか? それとも、他のどこかで?」
「リオーネ」
「ここに来ると、考えてしまいます。あの村を見たいと。どうしても、行きたくなるのです」
父との約束から、はみ出したとしても、駈けてこられるのは、ここまでだった。彼女の自由な世界は、ノルンからこの岩までなのである。ただ、青い眼は、その世界の、先を見ている。足は、外の世界に出て行こうとしている。それは、レオンにも分かった。せめて、生まれた故郷だけでも見ることができればいいのかもしれない。それも、この少女にはできない。もどかしさというのも、分かる気がした。
いつかそうしたように、妹になったその少女の、肩に手を置いて向き合った。
「父の名は、リオーネ? 兄の名も、言えるか?」
「どうしたのですか、兄上」
「父上も、俺も、おまえを愛している。男ばかりの家だが、おまえには家族がいる。だから、そんな顔をするのはよせ」
「私も、兄上と父上が好きです」
口調に、
「ノルンの山も、小川も、街も。でも、ウルグのことも知りたい。父上は、なぜだめだとおっしゃるのでしょうか」
しかし、表情には、僅かな不満が浮かんでいる。あの山の
「危険だからな」
「馬には、乗れます。兄上ほどではないですけど」
「俺は男だ。だが、おまえはまだ幼いし、それに女だ」
「夜は? 青の竜の加護があります」
「おまえ、夜に月明かりだけで馬を走らせるつもりか? 俺でも怖い。獣も、夜に動き出すのだ」
「獣は、私に寄ってきません。わかるのです」
いかにも、当然のように言うのを見て、つい笑ってしまう。
「まったく、口がよく動くようになった」
「本当です、兄上」
今度は、はっきりと不服そうに言う。獣が、少女を避ける。冗談か、そう思い込んでいるのか。そんなことを本気で言うような年齢ではないだろう。いずれにしても、レオンには、事実のように思えなかった。
「さあ、帰るぞ。これ以上、ゲラルトに父上の相手はさせられない」
本当なのに。リオーネはまた呟いて、ゆっくりと馬に跨った。
「父上は、なんと言っておられたのですか」
「気になるか。叱られるのも、そろそろ慣れてしまっただろう?」
「そんな。教えてください」
徐々に、馬の足を早める。リオーネは後ろからうまくついて来ていた。なんでも、面白いように吸収する子だった。学問もそうだが、とくに、馬の扱いには天性のものがある。はじめにいくつかの手順を教え、数回
よく、馬に言葉を掛けている。レオンも、他の人間も、同じようにすることはあるが、それとは違っていた。時折、会話をしているのではないかと思うほどである。そういうものは、教えてできるようになることではなかった。
屋敷に戻るのも、さほど時はかからなかった。父の居室を
父レーヴェンは、部屋に入ってきた二人を見るなり顔を
「ごめんなさい、父上」
妹を父の前に立たせ、レオンは傍の壁に
「馬で駈けるな、とは言わん。だがせめて、供の者をつけなさい。そして、遠くには行かないと約束しなさい」
もう何度目かになることを、レーヴェンは言った。リオーネは足下に落としていた視線を上げる。
「でも、ほかに、することがなくて」
おや、と思い、レオンも適当なところに向けていた眼を妹に戻した。父の言うことには、レオンも、もちろんリオーネも、よほどのことでなければ言い返すことなどない。
「書を読めばいい。たくさんある。それに
「いません。
思わず、吹き出してしまった。妹が自分の方を見る。
父がこちらに鋭い眼を向ける。レオンは手で笑みを隠した。
「レオンが稽古を付けている、あの若者たちは」
「みんな、兄上くらいの
いよいよ、耐えられなくなって、レオンは声を上げて笑ってしまった。
「レオン。おまえも、真剣に考えろ。妹が心配ではないのか」
「そんなことは、ないのですが。これは、父上にも責任がある」
リオーネも、口の端をちょっと上げている。父だけが、まだ表情が険しいままである。
「我々に、似てしまった。口の達者なところなど、父上にそっくりではないですか」
父だけではない。なにかと馬で外へ出たがるのは、数年前の、自分の姿を見ているようだった。リオーネは、悪戯をした子どもがそうするように、上目で父の方を
「一年で、すっかりムート家の子になってしまったか」
ようやく表情を
「父と約束してくれ。おまえを失いたくはない。この街の子として、長く生きてほしいのだ」
「街の子たちは、私を避けます。髪はこの色だし、眼が青いから」
父が
「父上。リオーネを一度だけ、ウルグに連れていってやるというのは、どうでしょうか」
話題を変えるつもりで、言った。
「もう、ない。見ても、辛くなるだけだ。それは認められない」
硬い調子に、父の声色が戻った。なぜ、と思うほど、それだけは
居室の扉が叩かれる音がする。ゲラルトからの、食事の知らせだった。
「兄上と一緒でも、いけませんか?」
「そうだ。あまり父を困らせるな」
レーヴェンは、なおも食い下がるような娘の頭を撫でて、広間に出るように言った。リオーネは、小さく溜息を
扉が閉まると、とたんに、父の表情が硬さを増した。なにか、不穏なものを感じさせる。立ち上がりかけた腰を、再び下ろす。
「ハイデルからの便りだ。
「鷹とは。緊急の報せでは」
心臓の鼓動が一つ大きくなった。嫌な予感がする。レーヴェンは、卓上の紙をこちらに差し出した。
──ハイデル軍営にて、正体不明の敵襲あり。
顔を上げた。父が表情を変えず、そこにいる。
眼に、レオンの見たことのない光があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます