切実に

1 申請拒否



「ふざけとんのか! 休暇届けだと? うちが今一番忙しい時期だと、お前でもわかっとるだろうが、スワンっ!」



 いや、俺はスワだし。



 と、スワは心の声で課長にツッコミを入れた。この男に、古い窓ガラスを震わせるほどの威力を持つ、課長の怒鳴り声は通用しない。

 課長もそれをよくわかってはいるが、それでもめげずに、もう一度カミナリを落とそうとした。だが、スワの逆襲は早かった。



「わかってますよ! だから先に夏休みくれって、五月から言ってたんでしょうが!」



 入社一カ月で、夏休みの催促かい。



 課長の心の声を共有してか、あきれかえった同僚のため息が室内にこだまする。

 スワはにらむようにして、背後のデスクに振り返った。慣れっこの同僚たちはそんな問題児を無視して、ため息ひとつ分遅れた業務を再開させる。

 今時めずらしい頑固オヤジな見た目を持つ課長は、頭痛の種の甥っ子のせいで貴重な髪の毛を何本か失った気がしていた。それでも書類をめくる部下たちの邪魔をしないようにと、静かに、しかし怒りを含んだ声で課長は諭す。



「とにかく! 休暇は出せん。今はそれどころ」


「わかりました! 勝手に休ませてもらいますッ」



 課長の反撃をまたも食い止めると、スワは欠勤を宣言して、伯父に背を向けた。書類とメモに、五色の短冊が散らばったデスクから白のジャケットを引っつかんで、ドアに向かって突き進む。

 音を立ててドアが閉められ、


白鳥しらとり社』


 と、白文字で書かれたドアガラスが震えた。



 課長は看板代わりの古いドアガラスが割れなかったことに安どすると、こらえきれずに部下六人分に相当する大きなため息をついた。



「まったく……息抜きしたいなら、静かに出て行け」



 毎年、五月病ならぬ七月病に悩まされるのは、この白鳥社の宿命だが、毎度のかんしゃくに付き合わされる方はたまったものではない。課長は水出し緑茶をすする息抜き時間を死守すべく、仕事にかかった。

 短冊の写しと願い主の情報が記された書類が対になっているのを、次々と確かめる。分厚い書類の束をめくり、担当者のスワのサインの横にスタンプを押した。


『申請許可』と。





 暗く、ひんやりとした階段を降りて、気味の悪い音を立てる木枠のドアを開け、スワは夏の空の下に出た。


「さて……どうすっかな……」


 まとわりつく暑さを感じて今出て来た年代物のビルを見上げるが、いくら冷えた空気が待っていようとも、もちろん、そこに戻るつもりはない。

 スワは街の中心、商店街を目指して、くたびれたビル街を疲れた足取りで歩いて行った。





 アーケードが陽射しをいくらかさえぎってくれてはいるが、どこからか聞こえてくるセミの声が暑苦しい。駄菓子屋の前のベンチで、スワはアイスキャンディーをかじっていた。


「で? 休み取って何やるんだよ、スワン」


 いつもと言えばいつもと同じな同僚へ、クシロはたずねた。砕いた氷が大盛りで、やっと飲み干したコーラの紙コップを手に、ベンチの側に立ってスワを見下ろす。


 だから俺はスワだ!


 と、いちいちツッコミを入れるのもスワが面倒に思うような暑さだ。同じ名字の課長を呼び捨てにしているようで同僚たちは嫌がるし、そうして付いたあだ名をなぜか、伯父にも呼ばれるようになっている。


 結局黙り込んだまま、おごってもらったアイスを溶けないうちにとせっせとかじり、スワは首をひねった。そんな彼からイチゴミルクの匂いが漂う。

 夏休みの小学生以上にだらけきった後輩の姿に数年前の自分を思い出しつつも、クシロはあきれ気味で忠告した。



「そんな事だろうと思ったけど、夕方までには戻って来いよ。休みがなくて人が集まんないからって、いい加減にしないと首切られるぞ」



 紙コップの氷をひとくち噛み砕きながら、制服でもある夏物の白いコートをひるがえし、クシロは願いごと集めの外回りへと戻って行った。



 やることねえ。そういや、なんも考えてなかったな。


 考えがまとまらないままアイスの棒を捨てにベンチから立ち上がると、スワは広場へと続く商店街を、ぶらぶらと歩き出す。


 うわっ。また増えてないか?


 さらさらと風に揺れて音が鳴る。歩行者専用通りのど真ん中に立ててある、道いっぱいに枝を広げた大きな笹を、スワはそれ以上見ないようにした。






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